第52話 不破はハイドラの本質を見る

 女体が醜悪に膨れ上がり、黒褐色の土左衛門のようなブヨブヨとした姿となって……内側から弾けた。

 飛び散る肉片と体液と臓物であった物が、童士に向かって勢いよく向かって来る。


「うぉぉっ!

 何だってんだよコイツは!」


 驚愕の叫び声を発しながらも童士は、女怪……であったハイドラの血肉が、毒性の強い蠱毒のような効果をもたらすモノだと経験済みであったが故に………飛び退き、天星棍を振り回す風圧を利して、我が身に被らないよう逸らして行く。


「自爆したのか……それとも…………」


 童士の眼は先刻までハイドラであった存在が、暗灰色のドロドロとした肉汁スープ状のに変異した物体を視認している。

 数多の脳髄を攪拌し大地にぶち撒けたような形状の、本能が忌避する生理的嫌悪感を催させる肉汁が、ブスブスともジュブジュブとも云えぬ音を立てながら蠢いている。

 生物とも非生物とも見えるその原型質の塊は、確かに

 そして自らが沸騰しているかのように、時折りゴボッゴボッと湿り気を帯びた断末魔の喘鳴が如き音を立てながら泡立っている。

 肉汁から発生したあぶくが弾ける度に童士の鼻腔を突き刺す臭気は、強酸性の溶解液に腐った獣肉を放り込んだような悪臭であったため………流石の体力と精神力を保持する童士も、顔を顰め嘔吐えずきを抑え切れない。


「こ………これは……何なんだ…………」


 呟いた童士はハッと何かに気付いたような表情になり、素早く後ろを振り返る。

 その視線の先には、華乃が青褪めた顔で口元を押さえてしゃがみ込んでいた。


「華乃っ!!

 ここから離れているんだっ!

 この臭いは何かがおかしいぞっ!!」


 童士の叫び声に華乃は小さく頷くと、ヨロヨロとした足取りでその場を離れて行く。

 華乃の背を見送った童士は、異臭の発生源である濃灰色の物質に向き直る。


「これは……何なんだ…………。

 一体何がどうなっているんだ…………?」


 戸惑う童士の足元では不定形の暗灰色が、一箇所に収縮し集まって来る。

 半液状の物体がブルブルと震えるような蠕動を見せて、小山の様に盛り上がる。

 その小山の頂点が尖り、鼻のような形状へ変形した。

 みるみる内に鼻から頬そして唇を形成し、最後には眼球が生まれ出でる。

 水面から仰向けにプカリと浮かび出るように、頭髪も何もない無毛の女の頭部が登場した。


「この……顔は…………?」


 更なる困惑に見舞われた童士の眼前で、暗灰色の物体は激しく揺れ動く、それは産みの苦しみに悶える母体のようでもあった。

 小刻みな振動が、半液体状の寒天擬きを支配する。

 その度毎に、女の頭部の隣へ違う顔が現れる。

 若い男の顔、老境に差し掛かった女の顔、頑是ない赤子の顔、ありとあらゆる世代と性別の人間の顔が生まれた。

 そしてその悉くの顔達は、最初に生まれた女の顔に捕食されて行く。

 比喩ではなく………女の顔は他の顔が生まれるそばから、口を大きく開けて喰らい咀嚼するのだ。

 人間の顔が尽きると、また別の顔が生まれる。

 昆虫のような顔、動物のような顔、そして見たこともないような生物の顔、それらの顔達は全て

 それらの顔も生まれ完成すると同時に、女の顔に捕食されて行く。


「自分で自分を……喰らい続けている…………」


 童士の呟きにも構わず、女の顔は己の近くで生まれるありとあらゆる顔を喰い続けている。

 同様の捕食行為が続けられる内に、童士は異変に気付いた。


「成長……しているのか…………?」


 そう……新たな顔を捕食した女の顔は、少しずつ成長しているのだ。

 頭部の下に首が伸び、そして肩口まで形成され、胸元までが出来上がる。

 胸像のような姿となった女の上半身は、それからはヌルリと生えた両手も使って捕食を続ける。

 両腕を生やした女の上半身は、捕食の速度を上げる。

 捕食の速度が上がると、成長の速度も比例して上がって行く。

 生まれ出る知性体の顔面を毟り取り、口へと運んで喰らう女の上半身。

 やがては腹部を形成し、太腿まで創り出し、最終的に細身で華奢な全裸の白い女が出来上がる。

 最後の仕上げとばかりに足下へ生えた、小さな生物の顔を喰った女は、ベロリと右手の指を舐め取る。

 まるで果汁の溢れる果実を素手で食し、漏れ出た果汁に濡れた指を舐めるような……ある意味蠱惑的エロティックな女の姿であった。

 そして女は無毛で全裸のまま、童士を流し目でチラリと見ると……屈託のない笑顔でニコリと微笑み、全身を大きくブルリと震わした。


「こ……この…………」


 次の瞬間女の頭部からは、黒い艶やかな長髪が背中の半ばまで流れ落ちていた。

 前髪は眉の上辺りで真っ直ぐに揃えられ、形の良い弓形の眉を隠さず見せている。

 眼は少し釣り上がり気味の大きな二重瞼で、産まれたての赤子のように、白眼は仄かに蒼が混ざり澄んだ青白さを保持していた。

 その瞳は心弱い者であれば吸い込まれてしまいそうな程に、深く昏い黒色であったが……何故か悪戯を企む子供のようなキラキラとした輝きも秘めているようだ。

 そして鼻は小鼻まで細く筋が通り、ツンと尖った鼻先まで高さはあまりないものの……小さく可憐な印象をもたらす形の良い印象だ。

 口唇はやや厚く、大きさも全体の配置からすると大き過ぎるきらいはあったが……決して下品なものではなく、生きる活力や情熱を感じさせるものであった。

 曇り一つない乳白色の肌色と対比するように、口唇の色はまるで紅を差したかのように魅惑的な朱に染められている。

 その体躯は十代前半の少女そのものであり、身長は四尺五・六寸ほどで体格は華奢で細い。

 顔色と同様に透き通るような乳白色で、その身に今は白く光沢のある絹製にも見える素材で膝丈のひと繋ぎの衣服ワンピースを纏っている。


「………華乃……なのか…………?」


 童士の眼前に立つ女の姿は、童士の言うように華乃に生き写しの少女であった。

 童士の記憶にある、生き生きとし溌溂たる姿の華乃ではなく……華乃から世俗の汚穢おわいを拭い去り、人間ひとが人間らしく存在するための大切な想いを全て濾過し聖別され、人間を超越した『聖女』とも云うべき人形じみた姿の華乃ではあったのだが。


「巫山戯るんじゃあねぇっ!!

 悍ましい怪物のクセに、華乃の姿を真似やがって!」


 己が愛する少女を冒涜的に汚されたような思いで、童士は喉から血を吐くような叫び声を上げる。

 その童士を不思議そうに見遣りながら、華乃に似せられた純白の少女は次に悲しげなもの憂い表情を見せる。


「童士さん……アタシは華乃やで、漆原華乃やねんで…………。

 何で……判らへんの…………?」


 人形の口から発せられた声は、果たして華乃の声、華乃の口調であった。

 その声を聞いた童士は、天星棍の先端を純白の少女に突き付け……更なる怒りに身を震わせる。


「この野郎っ!!

 手前みたいなが華乃である訳がねぇっ!

 華乃は……俺の惚れた女は、そんな作り物みたいな姿はしてないんだよっ!

 俺がちゃんと生きてる人間と、手前みたいに外面だけが綺麗なだけの人形を見間違える訳がねぇじゃねぇかっ!!」


 童士の言葉に純白の少女は、ニタリとその美しき白い顔を邪悪な嘲笑めいた笑顔に歪ませると……童士に語り掛ける。


「フッ、お主の記憶を精査して……感情を揺さぶる姿で顕現してみたが、お主の強き精神力には通じぬか…………」


 華乃の声ではあるが、口調をガラリと変えた純白の少女に童士は問う。


「手前は……ハイドラなのか?

 それとも……また別の怪物なのか?

 答えやがれっ!!」


 先程まで死力を尽くして闘っていた『戦士ハイドラ』とは、見た目も行動もまるで異なる存在である少女の正体を探る問いに、純白の少女は嘲るような口調で回答する。


「我が名もハイドラよ……しかしながらお主が戦っておったハイドラとは、神性も存在自体も異なり且つ同一の

 ハイドラとは、取り違えられた哀しき二柱なのだ。

 神ならざる人間に創造されし取り替え子チェンジリング、『母なるハイドラ』と『白痴の魔王アザトースの側女ハイドラ』………我が表で彼の神が裏か、それとも彼の神が表で我が裏か……誰も知らぬし我も知らぬ。

 ただ我も彼の神も同時に存在し、同じ場所に顕現し得る」


 別種のハイドラを名乗る少女の台詞に、童士は苛立っているようだ。


「小難しいことはどうでも良いんだよっ!

 手前がハイドラなら、俺は手前を叩きのめすだけだっ!」


 天星棍を振りかざした童士は、新たなるハイドラに向かって襲い掛かる。

 天星棍の先端がハイドラに直撃するかと思われたその瞬間、ハイドラは悲しげな表情で叫ぶ。


「童士さんっ!

 何でアタシにそんなことするのっ!?」


 華乃の顔で華乃の声、その声に反応してしまった童士は一瞬だけ躊躇し………振り下ろす動きを止めてしまった。

 その刹那、ハイドラはニヤリと嘲笑わらって乳白色の細い右腕を突き出す。

 その指先から放たれた白く細い鞭状の触手が、童士の左脇腹を鋭く貫いた。

 

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