第2話 灰谷は七ツ眼の悪魔と対峙する

 福原には大輪田芸能興行社を北端に擁する桜筋が東側、西側には桜筋と姉妹関係にあるは柳筋が南北に横たわる。

 柳筋の中央付近には、新築で地上五階地下ニ階建ての豪奢な建築物が、周囲の建物を睥睨するような威容を誇っている。

 福原三業組合の常任理事であり地域の顔役でもある、任部勘七にんぶかんしちの経営する『小夜曲』セレナーデという妓楼みせがそれだ。

 朝も早い時間だが、清潔な着物を身に付けた男衆が店先の路面を掃き清め、界隈の大衆店とは一味違う高級感を漂わせる雰囲気作りに成功している。


「番頭さん、今日も精が出ますなぁ。相変わらずキレイなおたなで商売も繁盛しとるんやろねぇ……あやかりたいこっちゃで」


「彩藍お前なぁ……これ見よがしのおべんちゃらを言うんやったら、相手見てから言わんかいや。

 ワシみたいな雇われ者のオッサンに言うたかて、何もええモンなんか出ぇへんぞ」


 彩藍の軽口に呆れたように応えたのは、小夜曲の番頭格で任部勘七の義弟の音羽多吉である。

 若かりし頃は兵庫県警察部の本部勤めをしていたとあって、ピシリと背筋の伸びた……四十絡みで苦み走った男っぷりの人物であった。

 任部勘七の妹である音羽紅緒おとわ べにおと恋仲になり、警察部での出世と女郎屋の娘と添い遂げることを天秤に掛けて、結局は恋人を取ったと言う珍しい経歴の持ち主であった。

 彩藍の掴んだ巷間の情報うわさでは、県警察部との伝手を求めた任部勘七による美人局ハニートラップであったとの説が根強いとか………。


「別嬪の紅緒奥様と、これまた奥様似の別嬪な初穂はつほお嬢様もお変わりなくお元気で?」


他人の家ひとんちのことは放っとけや、どうせ義兄さんとの仕事絡みで来たんやろ。

 上の社長室におるから、はよ上がりぃ」


「まいど、そしたら上がらせてもらいます。

 そやそや多吉さん、これは仏蘭西で売り出し中のニュメロ・サンクって名前の香水やて、ウチは男所帯で縁のないモンやから……初穂ちゃんにでもあげたってぇな」

 

「おぉ彩藍いつもすまんなぁ、年頃の娘が欲しがる物なんか、ワシみたいな者には良う分からんから助かるわ」


 えぇよえぇよと応えながら口調のように軽い足取りで、彩藍は建屋奥にある従業員用階段を五階まで駆け上がった。

 ふぅっと一息吐くと、彩藍は高級かつ重厚な扉を三度ノックした。

 鼓動の二、三拍分は待ったであろうか、もう一息吐くつもりで息を吸い込んだ一瞬の間であった。


「灰谷君、入りたまえ」


 ウッと吸い込んだ息を詰まらせ、彩藍はキョロキョロと周囲を見回しながら社長室と金無垢のプレートが貼られた扉を押し開いた。


「任部社長、ホンマは扉の外も見えとるんでしょ?

 噂の通り、恐ろしいお人ですわ」


「噂のように七つも眼は付いていないですよ。

 直接に見えてはいないけれど、君の足音は特徴的だから。

 左脚が生身で右脚が一級品の機甲なんて人間は、神戸はおろか陽ノ本でも少数派なのでしょうね。

 君が駆け上がって来て、一息を吐いた後の呼吸のタイミングを見計らって声を掛けたまでのことですよ。

 単なる経験則に基づく知識から導き出した推論と、医学的な見地に基づいた科学的考証だと私は思いますがね」


 出迎え早々、彩藍の戯れ言にもきっちりと応える任部勘七は、妓楼の社長におおよそ似つかわしくない風体をしていた。

 細身の体躯に濃紺本麻の小千谷縮を涼しげに着こなし、髪は秀でた額を強調するかのような短総髪オールバック

 朝陽の差し込む窓を背後にする、その肌色は白いを通り越して青白く見える。

 冴え冴えとした肌の質感を強調するかのように、その顔の部位は総てが怜悧なしつらえであった。

 細く鋭い柳眉に切れ長の一重瞼、鼻は細く高く口唇も薄く……ともすれば酷薄にも映るその顔に、金属製の丸眼鏡を着用していることで名のある文豪のような佇まいを見せている。


「任部社長の科学至上主義のご高説は後で拝聴させて頂きますよってに、とりあえず………今回の調査結果についてご報告させてもらいますよ」


 任部勘七の言葉を遮るように、彩藍は懐から寫眞と報告文書を取り出し、社長室に似つかわしい高級なこしらえの机の上に滑らせた。


「ふふ、私は君のような率直な物言いの若者を嫌いではないですよ、依頼を完璧にこなしてくれている限りはですけどね。

 報酬についても、質の悪い事件屋のように強請りたかりの真似をする訳でもないですし。

 ただ……情報の横流しが過ぎると、守秘義務違反を問われる可能性も否定出来ないことは覚えておいて欲しいのですがね…………」


 眼鏡が朝陽に反射し、眼の表情までは察知出来ないが……口角の上がった角度から推測するに、任部勘七は言葉の中に潜む警告の内容を、今すぐにでも実行する心算は持っているようだった。


「おぉ怖……依頼内容についての他言無用は、僕ら稼業の鉄の掟ですからね。

 そこについては信用してもらわんと、それに独自調査で得られた情報と、依頼の内容から予想した架空の物語は僕らの売り物やと思ってますけど?」


「灰谷君と相棒の不破君が予想する架空の物語が、精度の高い重要な情報になっていると……この界隈では有名になっているからこその警句ですよ。

 とりあえず私の会社に不利益が発生しなければ、これからも君達への依頼も物語の買取りも積極的に行うつもりですけどね」


 会話をしながら報告書を読み終えた様子の任部勘七は、今回は用済みとなった彩藍に退室を促す身振りをした。


「そしたら失礼します……ところで任部社長は、いや三業協同組合は一連の殺人事件についてどない思われます?」


 去り際に、不意に思い出したような風情で彩藍は『七魔眼の任部』に今日の本題を問うた。


「ふむ、私の管理下にない売春婦がどうなろうが、私には影響のない話だとは思いますが。

 灰谷君が小耳に挟んだ話が、私の組合に関係あると判断したなら情報を共有するに吝かではありませんよ」


 任部勘七の言質を得られた彩藍は、愛嬌のある笑顔を顔に貼り付けて言った。


「ほんならええ情報ネタを仕込めたら、また多吉さんを通じてお伝えにあがります」


「物騒な話は、私の組合と無関係であり続けて欲しいんですけどねぇ…………」


 任部勘七の独白を背中で聞きながら、彩藍は社長室から退出し小夜曲を後にした。


「さて、七ツ眼の旦那からはお墨付きを貰えたけど……童士くんはあっちで上手いことやってくれとるやろか?」


 ちらりと北西の空を見遣りながらも、言葉とは裏腹に心配の欠片も感じられない口調で彩藍は本拠へと向かう道筋を歩き始めた。

 彩藍の呟きを聞く者は誰も居ない、静かな新開地の午前中であった。

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