第46話 前売り券×瑞々しい

 〇


 長かった梅雨も明けて、じめじめと蒸し暑い東京の夏がやって来た。六月末にあった期末テストは無難にこなして、来たる夏休みに備えていた。

「はぁ……ほんと、人間って悉く不平等だよね……」

「どうかされたんですか? 松浦先生」


 そんな夏休み間近、七月上旬の放課後。僕と松浦先生は放課後のクーラーの効いた司書室でのんびりと過ごしているなか、そんな不穏な会話が始まった。

「この間の休みの日、久々に本屋巡りでもしようかなーって思って都内をグルグル歩いていたらね、見つけちゃったわけなんだよ」

「……何をですか?」


 妙に怨念こもった口振りからして、あまりいいニュースではないのだろうけど。

「高校生かって突っ込みを入れたくなるくらいイチャイチャしているバカップル……いや、もう結婚しているから夫婦の、上川先生たちを」

「…………」

 おう。それは災難でしたね。返す言葉もないですよ、僕には。


「このときの私の心情を百四十字以内で述べてください」

「そんなツイッターじゃないんですから」

「だって、だってえ……上川先生がつけている指輪を学校で見かける度にメンタルにダメージが入るのに、休みの日にまで削ってくるなんて思わないじゃない……」


 もうこれどっちが生徒でどっちが先生かわからない会話内容だよ。机に突っ伏して泣きわめく先生を、半ば遠い目で僕は眺める。

「……す、すみません」

 すると、貸出カウンターのほうから、おずおずとそんな声が聞こえて来た。


「はいーって」

 今は夏休みの長期貸し出し期間。本を借りる生徒もまあまあ増えているのだけど、僕が振り向いた先にいたのは、

「い、井野さん……」

 まだ特に何も話していないのに、もう顔が発火寸前みたいに真っ赤になっている井野さん。


「こ、これを借りたいんだけど……」

「は、はい、わかりましたー」

 だ、大丈夫なのか? ここに来る前に、漫画でも読んでいたのかな……?


 僕は井野さんが持ってきた単行本三冊をバーコードに通して、貸出処理をする。本の最後のところに貼ってある紙に、返却予定日を判子で押して、

「じゃあ、この日までに返してください」

 井野さんに本を返す。


「あっ、あのっ……」

「ん? どうかした?」

 井野さんは本を受け取ると、なぜかその場で立ったままもじもじとし始めては、周りには僕しかいないのにキョロキョロとするし、口調ももごもごとするしで、……うん?


「……じー」

 しかも、その様子をジト目で見ている松浦先生の視線が痛い。

 ああ、井野さんのほうからだと、司書室にいるのは僕しか見えないから、隣に先生が座っているのまでは把握のしようがないんだ。


「こっ、これっ……お父さんから貰ったんだけど、よかったら……い、一緒に見に行ってくれない……かな?」

 震える手でカウンターに差し出されたのは、最近動画サイトでしばしば広告を見るアニメ映画の前売り券二枚。


「いっ、いつでも、八色くんが都合いいときでいいんでっ……」

 あいの変わらず両足をくねらせて、両手の人差し指を結んで遊ぶさまは、ちょっといじらしい。

「……う、うん、べ、別にいいけど……」


 別に断る理由もないので、僕はゆっくりと答えると、井野さんは途端に表情を緩ませて、

「そっ、それじゃあ、また今度予定合わせようね……?」

 か細い声でそう残しては、軽い足取りで図書室を後にしていった。


「……はぁ……はああああああ……」

 バタン、と開けられた図書室のドアの隙間から見えていた、揺れるスカートの端が見えなくなった瞬間、もはやため息ではなくため声と言ったほうがいい松浦先生の怨念が溢れはじめた。


「仲が良くていいなあ、先生も男の子と一緒に映画見に行きたいなー、いいなーいいなー」

「……いやっ、別にあの子とはただの友達ですし……」

「……ただの友達が顔を真っ赤にして映画に誘うとは思えないけどなー、はああああ……いいなあ、いいなあ……あんな瑞々しい恋愛したかったなあ……」


 駄目だ、何を言っても無駄な気がする。……っていうか、お酒入ってないよね? この先生。……不安で仕方ないんだけど……。

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