第24話 不審者×不運

 日誌を書いて、職員室に寄って、先生と話して、さらには漫画研究会の部室に行って井野さんと雑談をしてとしていたら、まあまあ遅い時間になってしまった。梅雨時の夕方五時は、大分空がオレンジ色に染まっている。


 生徒玄関から続く遊歩道をひとり歩いていると、なんか怪しげな人が校地内に見えた。

「……先生、であんな人いたっけ……?」

 パンツスーツ着て、校地に迷い込んだ野良猫をジーっと見つめている人なんて。


 いや、いいや。別にそんな悪いことをしているわけでもなさそうだし。触らぬ神に祟りなし、だ。初めて井野さんと出会ったときも、似たような状況だったけど、あれは非常事態だったから、それとこれは話が別だ。と、思っていたんだけど。


 突然、遊歩道の脇に連なる並木の葉々がササっと擦れる音が響いた。かなり大きな。

「……風か……」

 右手でちょっとだけ顔を隠して、風をやり過ごそうとしていると、ふと、これは聞き覚えのある独特な悲鳴が僕の耳にやって来た。


「ひゃうっ! そっ、そんなっ!」

 この声は……もしかしなくても、井野さんだ……。

 声のしたほうに視線を向けると、ちょうど僕の真横の教室が、漫画研究会の部室だったみたいで。


 そして、悲しいことに、開いた窓から風に乗って、井野さんの描いた漫画がパラパラと三枚ほど、外に飛ばされていく。

 これだけでも十分泣きたくなるのだけど、さらに不運が重なったのか、


「はれ? なんだろ……急に紙が……」

 飛ばされたページのうちの二枚が、件の怪しい女性のもとに向かってしまったんだ。ちなみに、残りの一枚は僕が全力で走って拾いに行きました。


 すぐに僕らのもとに、必死の形相の井野さんがバラバラな手足の動きでやって来た。……まあ、なんとなく想像はついていたけど、運動は得意ではなさそうだね。

「あっ、あのっ……窓から……紙……はぁ……はぁ……飛んで……来ませんでしたか?」

 息も絶え絶え、膝に手をついた井野さんは、僕とその女性に向かって聞く。


「……はい、井野さん。これ」

 泣きっ面に蜂というか、強風? 恐らく、珍しく雨が降っていないから、空気の入れ替えか何かで窓を開けていたのだろう。……廊下も同じように。

 それで風の通り道ができてしまって、運がないことに漫画が飛ばされて、そして。


「はい。わたしのところにも飛んできたよー」

 さっきまでずっと野良猫とにらめっこをしていたスーツの女性も立ち上がり、聞いているこっちが気が抜けてしまいそうなふんわりとした声で原稿用紙を井野さんに手渡した。

 しかも、一番過激なシーンじゃないか……。男と男が裸でなんかやっている……。


「あっ、あっ、ありがとうござい……ます……」

 ただ、大人の余裕というか、そういうページを見てもちっとも動揺していない女性は笑顔を崩さないまま。対して井野さんの顔はもう茹で上がったタコ、リンゴを通り越してもはや唐辛子だ。


「もしかして、漫画研究会の会員さん?」

「ひゃっ、ひゃいっ! そそそそそ、そうです……」

 簡単なやり取りを何往復かすると、スーツの女性はピコーンと頭上に電球が浮かんで、


「そうなんだー。ってことは、善人くんの教え子さんなんだねー」

 と、うんうんと満足そうに頷いている。

 あ、あれ……? 善人……? って、上川先生の名前だけど……。


「あっ、いつもお世話になってます、わたし、上川くんの妻の、上川由芽ゆめっていいます、よろしくねー」

 まさかの上川先生の奥さんだったという……。ああ、確かに結婚指輪している……。

 っていうか、一応これ不法侵入になるんじゃ……。大丈夫なの?


「うーん、久しぶりにえっちな漫画見たからちょっとびっくりしちゃったよー。善人くんが持ってるのじゃないのだと、初めてかもー」

 ……先生、エロ漫画持っていらっしゃるんですね……うわあ、知りたくなかった……。別に持つのはいいけどそれを僕は知りたくなかった……。


「も、持ってるのじゃない……ひうっ」

 井野さんもその文言の意味を悟ったみたいで、ちょうど職員室があるほうを見上げて軽く声をあげる。……で、この事態どうすればいいのだろう、と考えていると、


「あっ、やっぱり学校来てた……やけにライン来るの早いからもしかしてって思って、部外者以外は入ったらだめって何回言えば……って、八色君に井野さん」

 職員玄関から出てきた上川先生が、やれやれといった顔つきで近づいてくる。


「あっ、善人くんだー、お疲れさまー」

「……待って。なんで井野さん、漫画の原稿用紙をこんなところで持っているの?」

「あっ、さっき風に飛ばされてねー。拾ってあげたんだー。善人くんが持っているの以外で、初めて見たよーわたし」


 ……その瞬間、先生は元からやつれ気味だった顔色をさらに悪くさせ、

「……ふたりとも、ちょっとだけ待ってもらっていいかな。すぐ来るから、うん」


 井野さんのシーンのリプレイかなってくらいの勢いで先生は校舎に戻っていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る