16 きょうは機動室休みます。
1
薄暗い路地裏には、昨夜の雨の湿り気が今もなお残っていて、今日という日が打って変わって晴天となったことを一瞬でも忘れさせる不快感があった。
転がっている屑や積まれた廃棄物などを乱しながら、大慌てで駆け抜ける薄汚れたスニーカー。徒競走や救急隊のような整ったフォームとは程遠い、もつれかけては軌道を戻す、危うく忙しない走り方。
「くっそ……勘弁してくれよ!」
思うように走れないのも無理はない。男はその片腕の中に無骨で重厚なジュラルミンケースを抱きかかえているためだ。
「無駄だ! 諦めた方が、後々のお前のためだぞ」
それを追尾するのは、翡翠色のコンバットスーツ。着装端末犯罪鎮圧処理用スーツ・ステラシステム第一号機スパークリング・ストライカー、通称ステラジェイドだ。
幸か不幸か、狭く複雑な裏路地ではステラの飛行能力より、普通の人間の脚力の方が小回りも効くぶん有利——なはずだった。しかしこの逃走劇自体が開始からそこそこ経過していることと、男の手荷物があまりに重すぎることが、次第にこの逃げ道の先に待つバッドエンドを匂わせ始めていた。
「七尾! もうすぐ通りに出る! 歩道橋近くの交差点で待機だ!」
男の足取りはすでに二手も三手も先読みされていた。確かに現在地から最も逃走に適する経路——あくまでもこの逃走劇を続けるのだとしたら、という前提ならばだが——は実際それしかない。
幸いまだステラとは距離がある。人混みに紛れてしまえばなんとかなるか?
通りに出た先にすでに、そのもう一人の追っ手が待ち構えていたら、終わりだが——。
交差点で待機、か……ならば、路地を出てすぐに手近な誰かを突き飛ばしてしまえばいい。正義のヒーローは、そういうのを放っておけないはずだ。
あれこれ考えているうちに、例の通りがすぐそこまで近づいていた。誰を突き飛ばすか知らんが、悪く思うな——。時間を稼いで、どこかに隠れてこいつさえ身につけてしまえば、こちらにもやりようというものもあろう。
「……七尾? おい七尾! 聞こえるか!」
男の視界が一気に明るくなった。今日、こんなに天気がいいなんて知らなかった。
「なんかあったのか! おい返事してくれ! 七尾!」
《ゴツッ》
「………ごつ?」
ジェイドの耳に謎の打撃音が届いたのと時を同じくして、大通りに出た男の足は何か大きな障害物に蹴躓き、アスファルトに身を打ち付けることとなった。
そして程なくして、ジェイドも男に追いつき、全ての謎が一本の線で結びついた。
「…七尾! どうした! しっかりしろ!」
◇
「だからやめとけって言ったんだ」
所変わって、機動室。
通報によりルナローブ所持の疑いが浮上した男の追跡に、万一のことを考えてと二人で出撃したジェイドとマンダリン。しかし待ち伏せ要員だったはずのマンダリンは待機中に意識を失くし、まさに男が路地から出てくるその場所に倒れ臥してしまっていたのだ。
「でも…」
当然男は通りに出てすぐマンダリンに足を引っ掛けて転倒したため、結果的に男の身柄は確保できたものの、帰投した七尾はベッドに寝かされながらにしてメンバーの追及を喰らうというかなり異質な状態に置かれていた。
なお、機密保持の仕掛けでも備わっていたのか、ルナローブが入っていたであろうケースは忽然と姿を消していた。
「でももストもねえの! あんな無茶な筋トレ、いつか絶対体壊すってわかるだろ」
七尾のダウンの原因は、言うまでもなくホッパーローブ戦での反省から始まったあの過酷な自主トレーニングだった。さすが同じく無茶なトレーニングが任務に支障をきたしたことのある南城だ、七尾に対する説得力は半端ではない。そこを滝沢が面白がっていじるところまでが彼らの間ではお決まりのワンセットとなっているが、今日はどうもそういう空気でもないらしい。
「張り切る気持ちはわかるけど、例えば今日の相手がレイニーだったら……どんな努力も全て、無駄になるのよ」
「そうですよ。適切な分量というものがあるはずです」
杏樹、そしてなぜか当たり前のように居合わせる筑波が、続けざまに七尾に説いた。誰も、すでに涙目になっている七尾にもうあれこれ言いたくはなかったが、こういった時にしっかりと自覚できなければ、また同じ過ちを繰り返してしまう危険もある。杏樹の言う通り、状況が状況なら二度目など許されはしなかったのだから。
「…すみませんでした……」
「……まあ、無茶するほどやる気に溢れるところが、七尾のいいところっちゃあいいところだからな。わかればいいんじゃねえの」
苦笑いを浮かべながら場をまとめたのは滝沢。対馬もミルクキャンディを口に放りながら、お前もたまにはいいこと言うじゃん、と同意した。
「……そうだ!」
「うおっびっくりしたあ。何すか高槻さん急に」
南城の背後で大きな声がした。カンと一直線に通ったその明朗な声の主は、高槻。いかにも妙案を思いついたと言う顔で、皆の注目をじわじわと集めた上で、人差し指を立ててこう提言した。
「温泉! 行きましょう!」
2
TWIST初の慰安旅行は、有事の際のステラ運用にかかる決済と同じくらい滑らかに容認された。居合わせた筑波がすぐさま倉敷に連絡をとって直談判し、ああ、せっかくだしいいんじゃないかな、と二つ返事をもらったことから計画は一気に膨らんだ。
「……こんなんでいいのか、市民を守る国家組織が」
「むしろ必要でしょ〜! 言うじゃない、武士も食わねば…なんだっけ」
「腹が減っては…じゃないですか?」
恐らく高槻は"武士は食わねど高楊枝"を思い浮かべたのだろうが、実際TWISTはむしろそっち《高楊枝》であるべきな気もするけどなあ……と南城は頭を掻いた。七尾の療養も兼ねたものとはいえ、まさかこんなにも円滑に話が進み、ものの数日で旅行計画が実行に移るとはつゆほども思わず、未だ戸惑いと不安を隠せないでいる。お気楽な笑顔でその背中を叩く高槻、理数科目は得意だと以前言っていたのを南城は聞いたことがあったが、どうやら国語は苦手らしい。
そうして彼らは今、移動車で温泉街を目指していた。
とはいえ事件発生に備えて機動室を空にするわけにもいかず、協議の中でなんと倉敷が皆を休ませようと留守役を買って出た。恐縮した機動室メンバーは全力でこれを避けようとしたが、結局お言葉に甘えてしまった形だ。
そして装着員たちも万が一の時すぐ事に当たれるよう、シューターが近くを通っていることも加味されての今回の旅館選びだったようだ。要出撃となった場合には、ステラ非装着でも移動できる有人運搬用スライダーユニットが近くまで迎えに寄越され、すぐにガレージへ戻れる仕組みだ。旅行者としての目線に立てばなんとも無粋な話だが。
結果的に今ここに乗り合わせているのは、南城、滝沢、杏樹、高槻、根室、対馬、葛飾、筑波、七尾の九名。山を越え、湖を過ぎ、何本ものトンネルを抜けた先に日本有数の温泉郷はあった。
「それにしたって、随分いい宿とったよなあ」
「さすが倉敷さん、キャリアの賜物って感じだな」
「TWISTに来てから、福利厚生なんて言葉はすっかり忘れてましたねえ」
メンバーの誰もが、かつて誰も就いたことのない仕事に就き、がむしゃらに市民を守り続けてきているTWIST。その最前線たる機動室はとりわけ、ここまでヴォーグ社の闇を探りながら、あらゆる事件を鎮圧してきた。実動隊のステラ装着員をはじめとして、機動室の面々にどこかの機会で充分な保養を、というのはもしかすると倉敷もそう遠くないうちにと考えていたのかもしれない。
「もうすぐね。少しずつ支度を始めましょうか。対馬さんはお菓子のゴミ、しっかり頼みますよ」
「わーってますよお!」
いつしか杏樹は、対馬のことを警視とは呼ばなくなっていた。もちろん対馬からの名前呼びを許したわけでもなかったのだが。
3
TWISTが押さえていたのは、古き良き外観を守りつつ清潔でスマートな内装が美しい、その土地でも有名な老舗旅館だった。豊かな自然と建物の木材から漂う良い匂いに、か細く硫黄の薫りが混じっているのがなんとなくわかった。入ってすぐの歓迎看板には"ツイスト御一行様"との手書き文字。ストレートすぎる組織名の記載に南城は絶句したが、まあ、緊張感がなさすぎて逆に誰にも気づかれないか。
南城の爪先が青いスリッパに滑り込むと、すぐにそれがひと回りばかり小さいのを感じた。キッズサイズというほど不便ではないが、少しの窮屈さを抱えたまま館内へと歩き出す。廊下は広く、建物のつくりも至ってシンプルだが、フロントや浴場までの道を覚えられるかというと不安だ。大きな旅館に来るといつも、小さな迷宮に忍び込んだ気がする。
「良い部屋ですね」
「広さも良い感じ」
「なんか久しぶりです〜」
もちろん南城、滝沢、根室、対馬、葛飾の男衆五名と、杏樹、七尾、高槻、筑波の女性四名に分かれて部屋に入っていったわけだが、図らずも男女ともにそんなような感想が口をついた。いぐさの香りが出迎え、鼻腔に挨拶する。ベールのように白んだ窓の向こうには、建物の裏手にあたる断崖の河川、対岸にひしめく旅館やホテルが覗いた。老舗の温泉が川沿いに多いのはなぜだろう。
「夕食までまだ結構あるよな? さっそくひとっ風呂いこうか!」
「そうっすね」
意気揚々と支度する対馬に、南城たちは賛成した。日頃の真面目な仕事をへらへらと邪魔されるのは厄介だが、こういうときの景気づけというか、ペースを作ってくれるのはやはり対馬だ。
「なんか……変な感じだなあ……。あんまり来たことなくて、こういうの」
「おいおい。照れてんの?」
「アキさんに狙い撃ちにされちまうぞ」
そわそわしている根室を囲む南城と滝沢。老体を引き摺りながら彼らに追いつこうとする対馬。そして部屋を最後に発ち、彼らをを一番後ろから優しく見守って歩く葛飾であった。
◇
「ゔうあぁ〜〜……」
「はしたないです、高槻さん」
「まあいいじゃない。確かに、良いお湯だもの」
一方、女性陣も温泉を堪能していた。高槻は高槻らしく、人目を憚らず痛快な唸り声をあげた。良い湯に入れば人は唸る。確かにこれは洋の東西を問わず人の性というものだ。
脱衣所には色々とお湯の効能が書いてあったが、細かいことは正直よくわからない。肩凝りや関節痛、眼精疲労に効いてさえくれれば、機動室の面々にとってはひとまず充分だ。素肌を撫でると、ぬるりと滑らかな肌触りとともに小さな泡の粒が舞い上がった。隣で湯と戯れる杏樹に、七尾が声をかける。
「杏樹さんって温泉のイメージが全然ないから、なんか可笑しいですね」
「そう? …まあ確かに、サウナとか岩盤浴に行く方が多いかもね」
「樹里ちゃんはすぐのぼせそう」
「ちょっと! もう子供扱いしないでくださいよ!」
一方、かつて滝沢を翻弄したフロマージュ同盟も虚しく、高槻にとっても筑波はやはり妹分だったらしい。これでもお風呂は長い方ですから、と筑波は眉をしかめて意地を張った。
「…本部長も、ご一緒できたらね」
ふと、杏樹が機動室に残した倉敷を思い出す。つられるように三人も思い出し、少し申し訳なさそうな顔をした。
「いつかヴォーグを潰して、ルナローブが全滅して、お留守番がいらなくなったら、みんなで来れますね」
七尾は柔らかく笑う。杏樹も首を縦に振り、首筋を伝う水滴を手の甲で拭った。
——もっともその時には、TWISTの存在自体が不要となっているだろうけれど。
力を集めて目的を追求し人々に貢献する、組織とはそういうものであり、自分が果たすべき理想もまたそこにあると心に刻んできた杏樹。いつか来るTWIST解体の日を想うとはらしくないと、杏樹は自分を欺くように話題を切り替えた。
「…七尾さんも最近、また少し頼もしくなってきたわね」
「えへえ、そうですかね」
「あとは自己管理できるようになれば尚いいんだけど」
「う……」
この慰安旅行が組まれた理由をふと思い起こされ、耳の痛そうな表情を浮かべた七尾だった。
4
その後の夕食は、案の定大宴会となった。
最初のうちは高そうな飯だとか食べ方がわからんとか、皆そもそもが庶民派であることを思い知らされるようなご馳走慣れしていなさ加減だったが、次々に運び込まれるそれらと、そしてやはり酒の影響でリミッターは徐々に外れていき、ボルテージは指数関数的に上がっていった。
滝沢と高槻は完全に酔っ払い、根室を囲んで褒めたり叱ったりしていた。酒に強い杏樹と、逆に一滴も飲まない葛飾はほろ酔いの筑波が繰り広げる論説を聞いてやり、七尾は南城の肩を組んで得意げに後輩自慢をする対馬を面白がって聞いていた。成人男性が満腹になるだけの量の食事が運び込まれたはずだが、皿が綺麗になった後もしばらくの間、大賑わいの宴会は続いた。
「んん〜はい‼︎‼︎ じゃあね! もう夜も更けるから! みんなゆっくり寝ること! 二次会がやりてえ奴は俺についてくることー!」
対馬のぐでんぐでんの挨拶で一本締めを行い、旅館の迷惑にならないうちに宴会場は明け渡すことができた。
◇
「二次会はいいんですか、対馬さん」
日差しが差し込む昼間と違って、夜のラウンジは自販機の光と月明かりだけが頼りだ。青白い窓辺に腰掛けると、外の冷気が窓ガラスをすり抜けるように肌を撫でる。
そこで買った天然水を飲み、頭を冷やしていた対馬と、お手洗いがてら付き添っていた葛飾。近づいてきたのは杏樹と筑波だった。
「やるわけねえだろ。杏樹ちゃんこそ結構飲んでたように見えたけど、けろっとしちゃって」
杏樹は照れ臭そうに笑った。
「あの……たまには、いいものですね」
おもむろに口を開いたのは筑波。根室同様あまり旅行の経験がなく、実は今回も遊びになどいってもいいものかと悶々としていたが、倉敷に旅行案を持ちかけた折、筑波にも色々あったのだし同行したらいいと背中を押されたことが引き金となった。
「心身を休めるのも、仕事のうちですからね。それに、尊敬する倉敷さんのご厚意であり、ご命令でしょ」
葛飾の言葉に筑波が頷くと共に、対馬と杏樹も違いないと笑った。
「まあ俺たちも、今日は来れてよかったよな、杏樹ちゃん」
「ええ。——あの子たちも強くなった。私たち年長者がしっかりしないと、あっという間に追い抜かれそうですしね」
ただの若手警察官だったところから装着員となり、日々鍛錬を続けてきた南城。
お気楽に振る舞いながらも、誰より仲間のコンディションを案じ、柔軟な判断を下す滝沢。
未熟さと向き合い、今まさに自分の立つべき最善のポイントを見つけ出そうとしている七尾。
明るく気持ちの良い振る舞いを忘れず、しかし任務には冷静かつ実直に立ち向かう高槻。
自分の殻を少しずつ破り、自分、そして仲間の価値を肌で感じ始めている根室。
倉敷がこのメンバーを集め、それぞれをそこへ配置した理由が、この頃さらによくわかり始めていた。それは杏樹だけではなく、他のどのメンバーにおいてもそうだった。
「大人になっても本当、日々勉強ですね」
大人組はしばしの談笑のあと、まだなんとなく眠くないという筑波を残して解散した。
◇
一方、大人組が帰ってくるまでの間、暇を持て余した七尾と高槻は男部屋に遊びに来ていた。
根室なんかはギョッとして慌てていたが、修学旅行で先生が見にくるでもあるまいし、と一蹴した高槻に酒を渡され、するめいかを囲んで話し相手にされていた。
「だからな? 基本的にステラってのはそのくらいの処理速度だと思った方がいいわけ。そんで、敵がこう低いところからグアーっと来たときに——」
一方のステラ組はというと、案の定というかなんというか真面目な仕事話になり、ステラ操作における各自の見解を共有しあっているところだ。ジェスチャーを交える滝沢の手の動きは、酒のせいかどことなく大振りだ。
「さっすが滝沢さん! それならマンダリンでも応用できるかも!」
「でもですよ。結局それをジェイドグリップの耐久力で考えると、やっぱりセルリアンウォールズの使い勝手からすれば——」
南城はあまりいい酒の酔い方をしないらしい。くどくどと持論を展開する南城は、いつもの”クソ真面目”に輪をかけたものとなっている。酒は人を狂わせるのではなく元からある狂った部分を暴くのだとよく聞くが、なるほど言い得て妙である。瀬奈とちびちび飲む程度では発現しないあたり、今日はなかなか飲んでいるらしい。
「高槻さん、もうそろそろやめた方がいいんじゃないですか? 明日帰れなくなっちゃいますよ」
「うるしゃ〜い! しぇんぱいにむかって!」
目のすわった高槻は根室の口いっぱいにするめいかを押し込んだ。ふごふごと苦悶の表情を浮かべる根室だが、高槻はそれを見てヘラヘラ笑っている。
「ひどいですよ。食べ物で遊んじゃ……」
「でもさあ」
「え?」
高槻がぐっと根室に顔を近づけ、その瞳を覗き込む。
「最近根室くん、頼もしくなってきたよね」
「…へぇ?」
狼狽した根室が間の抜けた返事をすると、なーんてね、と顔を離し、そのまま寝転んでしまう。
「私に比べれば、まだまだだけど」
張り詰めた表情を緩め、大きなため息とともに根室は高槻から酒の缶を取り上げたが、まどろみ始めていた彼女にはもうそれに反抗する気力も残っていないらしかった。根室のしかめっ面はまもなく苦笑いに変わった。
「なんだお前ら、みんなこっちいたのか!」
「どおりで向こうが静かなはずね」
そうこうしているうちに、ラウンジで談笑していた大人組が帰ってきた。眠り始めていた高槻を叩き起こし、根室は彼女を杏樹へ引き渡した。
◇
「おおなんだよ、誰かと思ったら筑波じゃん」
筑波は、まだ眠れないでいた。どうやら酒で頭が忙しくなるタイプらしい。漠然と心があちこちに寄り道をするせいで、筑波は依然ラウンジの自販機の光の中に捕まったままだった。
「滝沢さん……」
一人でどうしたんだよ、と声をかけたのは滝沢だ。寝静まった部屋を抜け出し、夜風にあたりたかったのだが、どうもいい場所がなく、月明かりだけで我慢しようとここにきたらしい。筑波の横に腰掛ける滝沢は、酔いが覚めたのか少し青白い顔をしている。二人で顔を合わせるのは例のシャークローブの事件以来だ。
「慰安旅行だっつってんのに、相変わらず難しい顔だな」
「大きなお世話ですっ」
皮肉な挨拶しかできないのは、その皮肉の色味こそそれぞれ違えど、二人の共通点らしい。素直——あるいは、わがまま——に振る舞えないという共通点だ。
「……あの、滝沢さん」
「ん?」
「頭大丈夫ですか?」
「ぶん殴られてえのか」
切れ味の鋭い突っ込みだったが、滝沢はその言葉の真意をすぐに察した。フロマージュの店に並んだ時、自分がしゃがみこんで呻吟していたあの時のことだ。
「……まあ、な」
「何か、力になれることがあったら教えてください! ……命を、守ってもらってますから……」
借りは返すとばかりに、筑波は衝動的に口走った。
それは、彼の抱えているその頭痛もまた命に関わる重大なものだと、筑波が勝手に推察していることの裏返しでもあるわけだが。
「……お前、なんかとんでもない想像膨らましてない?」
「えっ」
滝沢は吹き出すように笑うと、重い腰を叩くように立ち上がり、筑波の頭にその右掌を置いた。
「まあ、当たらずも遠からず、かもな」
それってどういう意味ですか、あなたに今まで何があったんですか、などと筑波は投げかけるが、滝沢は無視したまま自販機に小銭を投入する。
「滝沢さん……」
「力になりたい、って言ったな」
ガコン、という落下音とともに、滝沢は筑波に顔を向ける。その顔はすぐ自販機の方へ戻り、落ちてきた飲料を覗き込む。
「え、ええ…」
辿々しく答える筑波の頬に、一番小さいボトルの天然水をぴとっと当てがい、滝沢はからかって笑った。
「お前はそうやって、本部とか機動室でガミガミ言ってくれてるだけで、力になってるよ」
ボトルの冷たさに怯んでいる隙に、滝沢はそう言い残していった。両の手でしっかりボトルを受け取って立ち上がった頃には、すでに滝沢は角を曲がって姿を消していた。
しんとした青白い廊下には、残された筑波のつぶやきがぽつりとこぼれ落ちるだけだった。
筑波はボトルを開けられないまま、滝沢の言葉を反芻しながら、今しばらくラウンジに留まっていた。
【第三部・完】
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