4 ストレートニュース
1
滴る汗と荒い息。
潤みを増す眼球。
南城の体力はもはや限界に達していた。
「南城さん大丈夫ですか…? お水、足りますか?」
「ああ……悪い……」
倉敷から正式にステラジェイドの装着員を任命されてからというもの、南城は来る日も来る日もステラシステムの勉強とトレーニングに明け暮れていた。
元はまさしく”IPSuM Suits”という、全IPSuMシリーズの融合というコンセプトを持ったれっきとしたIPSuM製品で、激甚災害や国防を想定し設計のみが保存されていたのだという。緊急性のなさとコストの問題から一時凍結されていたのだが、倉敷のプロジェクト立ち上げに呼応する形でザイオン社から特別に提供されたという、幻のIPSuMともいうべきスーツだ。
これを装着するにあたり、装備それ自体の操作に手馴れるだけでは、何かと不足があるのではないかと南城は予想した。ウェアラブルデバイスというテクノロジーそのものの基礎知識や体系、ステラの原型であるIPSuMプロダクトシリーズ、それらの開発元であるザイオン社についてなど、科目を限定せずあまねく様々な知識を備えておいて損はない。
そして科技捜時代からコンスタントに磨き続けてきた身体能力も、それまで以上に強化しなければとトレーニングメニューを更新していた。対馬など未だかつて一度もその身を鍛えようなどとはしてこなかったというのに、ここにきてさらにメニューを強化しようとは、いやむしろそもそもメニューというものを組んでいるところからして違うのだが。これもまた南城のまめさ、真面目さが光るところである。
広々とした機動室のメインルーム内には様々なブースが組まれており、ブレイクタイム用のラウンジや、ヘルススキャナーを搭載した簡易メディカルシステム、多様な器具を備えたトレーニングスペースなどが併設されている。南城としてはこれを生かさない手はなかったわけだが、張り切りすぎたのかいささかメニューがハードすぎたようだ。その腕にあるIPSuM Watchのヘルスケアモニターも、そろそろやりすぎだ、休憩せよと勧告している。
「まだ悩んでる〜なんていう割に、やることは思い切りやってんじゃん」
「このくらいしないと……はあ……悩みも消えませんよ…げほっ」
こう見えて一応心配している高槻だが、あいにく南城も強情だ。このエンジンのふかし方はどちらかというと、悩みよりも先にモチベーションが消えてしまわないかが不安であるが。
「ハイハイみんな〜、もうとっくに始まってるぞ〜! はい根室ちゃん!」
「安室ちゃんみたいに言わないでくださいよお」
そこへ、何やら期待に満ちた表情で手を叩きながら、機動室に対馬が帰還した。入室早々飛んできた指図に渋々応えた根室は、メインルームのモニターを動画投稿サイトのライブ配信ページへ切り替える。
「なんです? 対馬警視」
「杏樹ちゃん忘れちゃった? 今日だよ、会見」
「ああ……! 倉敷本部長の!」
目を丸くして細かく頷く杏樹。彼女もあらかじめ聞かされていた。
世間の人々からしてみれば、それはあまりにも唐突に現れた武装兵器。市民の安全を守るための存在とはいえ、ステラシステムについては一切公式発表がなかったため、TWIST設立の発表も兼ねての記者会見を倉敷が直々に開いたのだ。
息が整ってきた南城も、タオルを首に巻きながら、画面の見える位置までゆっくり出てくる。ただ設立しただけではなく、人々に認知され、機能することによって組織はその産声をあげるもの。今がまさにその瞬間だというのだから。
《——と、そうした背景から、この度タスクフォースとしてTWISTを設立し、悪質なウェアラブルデバイス・ルナローブの鎮圧と、開発組織の捜査に臨むことといたしました》
《それでは只今より、皆様からのご質問をお受けいたします。これ以降フラッシュ撮影はご遠慮いただき、ご質問のある方は挙手にて……》
既に一通りの説明が済んだようで、司会者が会見を次のフェーズへ進める。”ルナローブ”という単語も暫定的ながら公式の呼称としていったん使用することになったようだ。画面をよく見てみると、会場には大勢の報道陣が詰めかけていた。まだたった一度しか出撃していないにもかかわらず、ステラシステムの存在やその活躍は多大なインパクトを残し、すでに世間的にもそこそこの関心事となっていたようだ。
「結構大騒ぎだな〜。南城、お前もヤバイ仕事引き受けちゃったな」
「誰のせいだと思ってるんですか……」
「まったく、能天気な上司ね」
南城に同情する杏樹の声に重なって、画面の向こうで早速始まった記者の質問が聞こえてくる。
《エブリィポストの畑中と申します。先週、その違法IPSuM…ルナ、ローブ。…を破壊したあの武装兵器はどういったものなのでしょうか》
《お察しの通り、あれも我々TWISTの戦力であります。我々はステラシステムと、そう呼称しております》
《東京ジャーナルの榎木です。そのステラシステムに危険はないのでしょうか、どのような経緯で開発されているんでしょうか》
《IPSuMの開発元であるザイオン社の特別な技術協力を得て、装着者と市民の安全を第一とした設計を施しております》
《TMBの羽鳥と申します。インフラの破壊も起こり、都市機能は大混乱に陥りましたが、毎回あのような乱戦を繰り広げていくおつもりでしょうか》
《ステラによる戦闘は、あくまでも最悪のフェーズです。もちろん配慮は欠かしませんが、人命が失われるくらいならば、少々の損壊もやむを得ない。そういう局面であると考えます》
マスコミの挙手は途切れる気配がない。倉敷はあくまでも冷静に、淡々と答えているが、ステラの印象は芳しくない——少なくともマスコミは世間がそうなることを期待している——ということだけは充分に分かった。
「しょっぱい質問ばーっかり。あんまり好きな表現じゃないけど、これぞマスゴミって感じね」
「悪意は、感じますね…」
オペレーターの二人もその画面に食いついていた。めでたく南城のステラ装着が正式に任命された矢先にこれでは、”南城が着るステラ”への大きな期待を励みにしていた根室も心が晴れない。
《週刊メトロの横山です。ステラシステムの使用にはかなり重大な責任を伴うと考えられますが、装着員の方はその信用に足る方なんでしょうか》
そんな中、その質問を耳にした倉敷がぴくっと反応した。あくまでも穏やかだったその目の色が、ふっと変わる。
《——もう一度おっしゃってください》
《は? いや、ですから、その方はそれほど信用のある方な——》
《彼がステラの担い手として適切なのかという問いでしたら、答えはYESです。私が頼み込んでまで任命した、優秀で貴重な人財です》
倉敷の口調はそれまでと明らかに異なっている。南城をはじめ、メンバー全員が一挙に釘付けになった。横山という記者の身体も、怯み硬直している。
《ステラの装着は、生半可な覚悟では務まらない。それは重々承知しております。ですので私も、全責任をもって任命しました》
「本部長……」
《ですから、万に一つ。今後彼の責任を問うような事案が発生した場合、まず真っ先にその矛先は、任命責任を持つこの私に向けていただきたい。いいですね?》
あの物腰柔らかな倉敷の、低く重く、圧倒的なまでの語気に、記者はただただこくこくと頷き、モニター越しのメンバーも呆気にとられた。
少々の沈黙を挟み、質問がなければ会見終了となる旨が司会者の口からアナウンスされた。
「倉敷さん……」
“ステラの担い手として適切なのか”という問いであれば、その答えはYES。
“ステラの担い手として実力が十分か”という問いならば、その答えは、きっと今はまだNO。
気持ちとしては複雑だが、先の倉敷の口振りの意味を、南城にはありありと推察できていた。ただ——
「いやあ倉敷さん、結構マジだねえ。南城も責任重大だな」
「そうじゃないでしょう、対馬警視。あれは、南城くんへの最大の配慮です」
同時に杏樹の言うようなニュアンスも、南城には痛感できていた。ステラの担い手までいっそ公表してしまった方が、世間にしてみても霧が晴れるようで安心材料となる、メリットのある選択肢だったはずだ。それを捨て、倉敷は南城というパーソナリティを守ることを優先した。
事実、任命のされ方としては、もちろん倉敷の強引さもあった。だが、最終的に南城自身の意思でそれを引き受けたこともまた事実だ。ならば、期待や使命に応える努力を惜しむ余地はない——
南城は首に巻いていたタオルを強く握り締めた。
これでいい。くたびれてなどいられない。
2
「そっかあ。あれ、李人がやってるんだ」
同棲を始めたのも、もう言うほど最近の話でもない。ある程度お互いの理解も深まってきたし、悩みを分かち合ったり困難を共に乗り越えたりというのも経験してきた。ただそれにしても、この仕事に関しては青天の霹靂、驚くべきニュースのはずだ。腰を抜かすとか、慌てふためくとか、涙ぐむとか、もはや笑けてくるとか、もっとこう……エマージェンシー感溢れる反応を期待していたんだが。いや期待はおかしいか。
「一応、任されたからさ。これからどうなるかとか、そういうのは全然わかんないんだけど」
南城はその口にもぐもぐを抱えたまま瀬奈へ告白を続ける。今日の料理は瀬奈の担当、得意のハンバーグだ。
「でも、李人も納得して受けたんでしょ?」
「…まあ、ひとまずはね」
「じゃあ、私が口挟むことじゃないね。ファイティーン」
瀬奈の表情は柔らかい。
自分が比較的ドライで、さほど口数も多くなく、比較的扱いづらいタイプの人種だという自覚は南城自身にもあったが、であればこそ、そんな自分を受け入れ、赦し、手放しに信じ委ねる瀬奈の芯の太さには、度々目を覚まされる思いでいた。
ただ、先の会見の様子からして、マスコミがいつ機動室のメンバーやその周辺人物に目をつけてくるかわからない。どころか、今はインターネットの世界じゃ誰もがマスコミみたいなものだ。市民を守る仕事でありながら、皮肉にもそんな市民の”魔の手”から、まず第一に自分とその周りにいる人を最優先で守らなければならないことも南城は予測していた。とにかく気がかりなのは、ルナローブそのものの脅威も含め、瀬奈を危険な目に遭わせたくないということだった。
もぐもぐ、もとい、ぐるぐると思い詰める南城をふと我に帰したのは、瀬奈が発した「でも」の一言だった。
「なんていうかさあ、李人ってとにかく一人で抱え込むトコあるでしょ。私もそうだけど、ちゃんと先輩の人たちとか、忘れずに頼って、使うんだよ?」
瀬奈の気遣いは極めてニュートラルで、大袈裟な慈悲深さも、照れやそれによる素っ気なさみたいなものも一切なかった。
戦いは一人でやるものではない。メンバーが全力でサポートする。
最初にステラ任命の交渉をされた時、杏樹たちに言われた言葉。自分がステラを着たいか着たくないか、その判断基準においては間違いなく、そんなメンバーの心強さも天秤を傾けていたと言っていい。対馬の言葉を借りるなら”自意識過剰”になっていた南城を、完璧主義の沼から引き上げ、一人でできなくたって構わないと思い直せたことはまだ記憶に新しい。だから——
「それは、もちろん」
と、堂々と返答することができた。
まだハンバーグが少し残っている。南城はその堂々とした佇まいのまますっくと立ち上がり、ご飯をおかわりすることにした。
「でもまあ確かに、気になると言えばなるかなあ……自分の彼氏の仕事姿が毎日テレビで流れてると」
「はは……まあ、そうだよな」
炊飯器の蓋を閉め、食卓に戻ろうとする南城にそう白状した瀬奈。
というのも彼女の視線の先には、家族向けバラエティショーから若者向け恋愛ドラマに切り替わる間の、五分程度のニュースの画面。今日の倉敷の会見を受け、ステラの戦闘や、TWISTという組織の詳細について読み上げるキャスターの姿があったためだ。
《安心はしましたけど、兵器といえば兵器ですよねえ……むやみには使うべきじゃないかなあとは、思います》
《リアル特撮ヒーローだってみんな言ってますよ。ね〜。体張るから大変だと思いますけど、頑張ってほしいっす》
《いやまさに税金の無駄でしょあんなの! じゃああんた、北海道で同じ犯罪者が出たら、東京から何分で来んだって話でしょうよ。廃止だね廃止》
街頭の声は、良くも悪くも正直である。マスコミの思惑も、めでたく少しは実現しているらしい。すべての言葉に一理あり、すべての言葉が南城の胸に刺さる。
まだ実戦は一度しか経験していないのに、応援には感謝がこみ上げてくるし、文句には言い返そうと思えばなんとでも言い返せる。
「——俺、これからしばらく、こういう仕事をやっていくことになるんだ」
「李人……」
「迷惑かけるかもしれないけど……」
「人気者はつらいね、このこの」
「ちょっ、なんだよそれ」
茶化す瀬奈。思いがけず南城は笑った。
気丈に振る舞っているだけだと心配もしたが、その茶化しがありがたい、暖かい、今はそれに救われていたいという気持ちが、南城の中では上回り、瀬奈に寄りかかることを彼自身に許した。
未来を憂えては、同じ未来を見据える誰かがこうして笑わせてくれる。気づけばここ最近はそういうことの繰り返しだった、甘えてしまって申し訳なかったなどという憂いをすぐさま、そんな人たちの支えがあればきっと大丈夫だという安堵感が上塗りし、南城は穏やかな心を取り戻した。
3
着装端末犯罪鎮圧処理特命部にも休暇はある。
瀬奈に自らの新しい仕事を報告した翌朝、南城は久々に熟睡することができたらしく、すっきりとした表情で目を覚ました。
年中無休の楽器店に勤めているため、あいにく瀬奈も曜日が関係ないタイプの勤務形態。二人の休みがぴったり合うことはさほど多くなく、南城が目覚めた時にはすでに、瀬奈は家を出ていた。
「ああ、そうか、今日は——」
直後、南城は飛び跳ねた。けたたましいまでに呼び鈴が連打されたのだ。
その顔は一瞬にして青ざめたが、まもなく自分が何に心臓を引っ叩かれたのかをおおよそ察知し、呆れたようにのっそりと玄関へ向かった。
「うべ!?」
南城は、呼び鈴を鳴らす相手に自分の接近を悟られないよう慎重に、無音で鍵を開け、思い切りドアを開いてその顔に打ちつけてやった。うべ、とはその彼の刹那的絶叫を無理矢理言語化し表記したものである。
「ほら、あと三回やるから、早く立て」
「いったぁ〜………なんだよお、いるならいるって言ってくれればピンポンやめたのに〜」
「いてもいなくてもピンポン連打はやめろって何回言ったらわかるんだこのバカ! 留守だったら一生やってたつもりか!」
涙目で鼻を押さえるその男、
「お前…瀬奈がたまたま仕事だったから良いものの…いや良くはないんだけど……」
「さっき途中ですれ違って挨拶したのよ。だから、ああ今日はOKだなあと思ってさ」
「なんでイタズラ野郎の方が一枚上手なんだよムカつくな〜〜〜〜」
しかも何ひとつOKじゃねえからな、と南城は付け加え、渋々ながら渡嘉敷を部屋へ入れた。
割に、悪いね、すぐ帰るから、などという断り文句が当たり前に出てくるように、振る舞いがところどころ妙に大人びているのが渡嘉敷のおかしなところだ。
「今日も途中でチラッと寄っただけだからさ、はいこれ」
「朝から忙しいな。お前んとこも相変わらず食いっぱぐれなさそうだな」
渡嘉敷が渡してきたのは隣町の老舗和菓子。おおかた、今回もクライアントにもらったものだろう。精神年齢は低い癖に——だからなのか——仕事はまあまあ腕を奮っているようなので小馬鹿にもできない。挙句この手のお裾分け(しかも好みのもの)をしょっちゅう持ってきてくれるので、南城も下手に邪険にはできないというわけだ。もとい、かといってそこまで毛嫌いしているわけでもないのだが。
「ところで南城はどっち派?」
「は? ……何がよ」
「ステラだよ〜。もうヒーロー大好き安心安全の賛成派と、税金でロボットごっこだ〜兵器開発だ〜の反対派とで、うちのオフィスもきれいに半分こだよ」
「そ、そういうもんか……」
事実、渡嘉敷のオフィスは、社会の縮図ともいえる状態にあった。ニュースなどでも取り上げられているように、世間の声は賛成とも反対ともつかない、いわゆる賛否両論の混沌とした状況にある。しかしながらステラ装着員が自分であるという話は、組織外では瀬奈がレッドライン。それ以上は、たとえ相手が渡嘉敷でも口外しないと、南城は自分なりに決めていた。
「まあでも、南城はそういうのあんまり興味ないか」
「…そういうお前はどうなんだよ」
「俺? 聞きたい? 俺はねえ……」
ニヤリ…。
ゴクリ…。
妙な溜めが入る。
自宅であることを忘れるかのように、南城は緊張感に支配された。
話題が話題だもんで、ちゃんと返事が聞きたいと思うと、渡嘉敷から目が離せない。
…………。
……………………。
……………………ぶー………。
…………。
「…ぶー?」
「あっやべっ、呼び出しだ」
張り詰めていた体が一気に脱力し、南城はその場にずるずると転けた。一体何の焦らしだったんだ。小切手を持ったみのもんたかお前は。
一方で渡嘉敷の頭は完全に仕事モードへ。呼び声をあげたザイオン社製スマートフォンZion Cellを右手に取り出しながら、その場でわたわたと立ち上がり、急ぎ足で玄関へ向かう。
「悪いね、俺もう行かなきゃ」
「一から十まで騒がしい奴め…二度と来んなよ」
まあまあそう言わず、とスーダラな口振りとともに、渡嘉敷は履き慣れたIPSuM Goの爪先で床をつつく。
「あ、ちなみにねえ、俺は賛成派だよ。結局は誰かしらが、ああいうことやらなきゃいけないんじゃん?」
「……!」
渡嘉敷の手でドアが開けられ、屋外の眩しさが玄関を染める。
「そういうの、尊敬しちゃうよな。んじゃ!」
渡嘉敷はすっ飛んで行き、あっという間に姿を消した。
ドアがひとりでに、ゆっくり閉まってゆく。そのさまを、南城は数秒にわたりぼうっと見送った。
「……ばーか。お前に尊敬されてたって、何の足しにもならないんだよ」
リビングに戻る南城の口角は、わずかに上へ傾いていた。
4
「お疲れ様でした!」
真っ赤な西日に照らされてか、こみ上げる様々な感情に打たれてか、生徒たちの顔も、教師の顔も火照っていた。
「私の力不足で、お前たちを晴れ舞台に連れて行けなくて、悪かったな…」
「そんなことありません! 先生はずっと、俺たちの大事な顧問です!」
元々古びて殺風景な弓道場ではあったが、この日はいつも以上に、それが深い寂寞を思い知らせた。
潤んだ瞳が決壊するのを必死に抑えながら、生徒たちは改めて深々と一礼した。その場にいる誰もが、ひとつの季節の終わりを心の底から惜しんでいた。
大きなピースを欠いたような虚しさを胸に抱いたまま、荷物をまとめた桜庭。
弓道場から一旦職員室に戻り、ここから家路につくわけだが、学校の敷地内を出ていないにもかかわらず既に弓道場がもう自分の場所ではなくなっている、そんな決定的事実を早速思い知らされながらの帰り支度だった。帰り道の風景から何から、ここからのことが全て”今日で最後”だと思うと、寂しさを超えて一種の苦痛すら感じてしまう。
かつて自らも弓矢を握っていた経験を生かし、弓道部顧問として部の生徒たちを見守ることが、近年の彼にとって最もやりがいのある仕事となっていた。身体の不調が目立つようになり、教壇に立つ回数は年々目減りしたが、かわりに弓道場の部室が彼を最も必要とする、そして彼自身が心穏やかでいられる場所となっていった。
しかし、ここまで身体が言うことを聞かなくなってしまっては、もはや自分の存在が生徒たちの迷惑になってしまう。遠からず今以上に悲惨な状況が訪れることを察知し、桜庭は自分の意思でその場を離れる選択を取っていたのだった。
といえば聞こえはいいのだが……自ら下した決断でも、こんなに未練を残すこともあるものか。それは彼が自身の教育者人生で感じた、最初で最後の胸の痛みだった。
「…ん、ああ……はいはい」
沈黙を破るように、桜庭のIPSuM Watchがメッセージ受信音を鳴らした。こんな頃合いに連絡してくる相手など心当たりがないし、メールマガジンの類はすべて”受信しない”に設定しているのだが、誰からだろうか。
「なんだ、これは……」
その実、この時の桜庭には、そんなつもりは一切なかったのだ。普通に考えて、たった一通のメッセージに、そこまでの引力があるなどとは、誰だって思いもよらない。
ただ、魅入る。
至極シンプルなセンテンスで、単純なことを書き並べているだけのメッセージに、桜庭は釘付けになっていた。
とはいえ、洗脳され、気が狂い、判断能力を失うような、そういうおかしな引き込み方ではない。
もっと知りたい。
着実に魅入る。
胡散臭さの感じようもないほど、さっぱりとした文面。
しかし、すべて読み切るまでは目を離せそうにない。
そのすべてを当たり前のように語る文字たち。
もっと、詳しく教えて欲しい。
メッセージ内に埋め込まれていた外部リンクを、彼の持つZion Cellへと飛ばす。いつしか桜庭は片手に持っていたはずの荷物も落として、Zion Cellから次々に”手続き”を進めていた。
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そこで桜庭はようやくそのメッセージの呪縛から解放された。磁石のようにその手からZion Cellが投げ捨てられる。大きなため息は、驚嘆のような力無い声を引き連れてその口から漏れた。極度の没頭から引き戻り、桜庭は汗まみれになって息を荒げていた。
桜庭悟志の教育者人生に、この日確かにピリオドが打たれたのだ。
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