第4話 present(お題 犬)

 都心のとある駅を降りて、坂を上りいくつか角を曲がると、おもむきのある廃墟のような建物が見えてくる。その中に入り階段を上がって、左手にいくつか並んでいる部屋の一つに入ると、そこには七、八人ほどの人々がいた。

 彼らは見た感じは統一感がなく、老若男女問わず様々な人達だ。おそらく職業も高校生からブルーカラー、どこかの中小企業の重役といった感じの男性や妙齢の怪しげな女性などバラバラな雰囲気だった。


 ここで一体何をやっているのかというと、スパイの会合とかそういった秘密の集まり――ではなく、彼らは話し方教室を行っていて一人ずつ三分間皆の前で話すというトレーニングをやっていた。


 数人ほどスピーチが終わると、妙齢の女性が席を立ち、前へ出て軽く一礼する。

「こんにちは。ここへ来るのは久しぶりです。前に来たのは三週間ほど前でしょうか。

 今日は『犬』について話すという事ですので、昔私が飼っていた子の事を話そうと思います。


 あの子とは、まだ私が若い頃にペットショップで出会いました。誕生日に親が買ってくれるというので近所のお店に行ったんです。

 とてもかわいい子で、私は一目で気に入って連れて帰りました。

 彼――オスだったんですよ――はちょっと風変わりな子でした。頭の右側に小指ほどの大きさの穴が空いていたんです。どうしてかは分かりません。店の人に聞いても言葉をにごすだけでしたから、もしかしたらお店で何か事故があってそうなったのかもしれません。

 でも本当に愛くるしい顔をしていたので、私はそんなに気にならなかったんです。


 ペットを飼うのは初めてでしたが、いろいろ勉強してちゃんと面倒を見ました。散歩もどうしても無理な時以外は私がずっとしていたし、学校から帰るとだいたい彼と遊んでいました。だから私たちはすぐに仲良くなれたんです。彼はとても賢い子で、トイレやしてはいけない事もすぐに覚えました。

 そうそう、いつか私を助けてくれた事もあったんですよ。ちょっと具合が悪かった時にお風呂に入ったら、そのまま失神しちゃって。それで湯船でおぼれていたのを、彼が気づいて隣の人を呼んで助けてくれたんです。…あの子がいなかったら、たぶん私は今ここにはいなかったでしょう。本当にいい子だったし、私は大好きでした。


 そんな生活がずっと続くと思っていたんです。でも実際には一年くらいだった。あっという間でした。…病気? いいえ。事故? 違います。――ああ、でもそう言ってもいいかもしれません。でも私は彼を看取みとっていないんです。

 あの子は、ある日突然いなくなってしまいました。


 自分からどこかへ行ったとは考えられません。本当に私や母になついていましたから。何か事件に巻き込まれたのかも、とその頃は思っていました。けれども、今考えると居なくなる数日前はなんだか元気がなかったような気がします。気のせいかもしれませんが…


 その日、あの子と散歩をしていたら、何かに気づいたように急に走り出して、私がゆるくリードを持っていたせいか手から離れてしまったんです。あわてて必死に追いかけましたが、やがて見失ってしまいました。それから姿を消してしまったんです。


 そう言えばあの子がいなくなる前後に、前にご近所で仲良くしていた人と親交が復活して、何度か家を行き来していたんですが、彼がある日遊びに来た時、あの子の声を聞いた気がしたんです。

 私は名前を呼んで、辺りを探したけれどどこにも見当たらない。玄関を出て付近を探し回りましたが、やっぱり居ませんでした。

 でも、そんな事があって確信したんです。あの子はどこかで生きていて、決して死んだりしていないって。

(一応「探しています」というビラを作って貼ったりはしましたけどね。でも見つかりませんでした)


 それっきりですね。…どこかの家で幸せに暮らしていたらいいんですけれど。

 ──そのご近所さんとはどうなったかって?  彼と一緒にいると本当に居心地がよかったんですよ。いえ、結婚はしていません。私と彼はそういうのじゃないんです。

 でも、今でも付き合いがありますよ。たぶん一生続くんじゃないかと思います。…そう思っているのは私だけかもしれませんが。」


 彼女はそう言って、一点の曇りもない表情できれいにほほ笑んだ。



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