参・雨天の日中
File.9 巳の退魔士・起
「―――それでは、条件付で生徒会に加入してくれると」
「ええ。
根住と呼んだ生徒会長の席に座る青年に、無感情にコピー用紙を押し付ける。不慣れながらも丁寧に印刷した書面の中身を、私は淡々と暗証する。
〈一つ、魔眼は絶対に貸し出さない〉
〈一つ、服従はしない。あくまで協力のみ〉
〈一つ、千羽高校屋上を羽生の居場所として開放を望む〉
「以上。何か不備や不明点はあるかしら」
「………えっと、
「いや、文字通りの意味だけど。お宅の牛若に見つかってからしっかり施錠されてるから正式に使えないかなーって」
馬鹿げた条件、けれど本音。前提として私は今でも退魔士は嫌いだが、目的の為には生徒会に所属する拾弐本家の退魔士に取り入るべきだと判断した。ならば、この嫌悪が溢れない為の施策は大きな意味を持つ。私の刹那的な衝動を抑える為にも、居場所の要求は重要なのだ。
「………どうかしら。悪くない条件だとは思うのだけど、一つでも呑めないのなら」
「…判った。ただし屋上の件は俺ではなく学校側の許可が必要になる。…交渉は生徒会長として行うが」
「…判ったわ。許可が出たら連絡くださいな、会長サマ」
―――これが二週間程前の会話。錆鉄の乙女は未だ青く、そして未だ底を知らず。故に、傍若無人の退魔士として強く。
「それと、一つ助言だ。何時如何なる時も、武器の一つは持っておけ」
「はいはい、肝に命じとくわね」
―――そして、他を視ぬ故に弱さを識らず。
文月の雨がナイロンの傘を激しく打ち付ける。通学路を行く傘の群れはどこか活気が無く、人の心はあの雨雲のように曇るようで。私は灼くような晴天よりこのような雨天の方が好みではあるが、それは世間的には少数派らしい。
「…静かでいいのだけどね」
雨は心地良い。学生の中身の無い喧騒さえ掻き消す程の強雨の音は疲れた心に癒やしを提供してくれる。私があと八歳若ければ傘を放り投げて天然のシャワーを全身で堪能していただろう。否、人目さえ無ければ今でも傘を降ろしていたかもしれない、なんて路端に転がるビニール傘を見て思ってみたり。
「………え、道に傘………?」
ふと、眼鏡越しに異物が映る。電柱を支えとして開く持ち主不在のポリエステル傘。そして水音の中で微かに聞こえる何かの鳴き声。この豪雨では種類までは判別出来ないが、恐らく犬猫の類の声。成程、何処ぞの親切な誰かさんが野良の生き物を想って傘を置いていったらしい。その誰かさんに関しては毛程も興味が無いが、どうやら御本人は私の視界に映っているらしく。
「…はぁ。こんな雨の中傘も差さないなんて、何考えてるの?」
「え」
声を掛けたのは、目の前でとぼとぼ歩いていた深碧の長髪の女学生。皆が雨傘を掲げる中、雨具一つ備えず艶髪から雫を滴らせる様は傍目に見ても目立って仕方無い。急に雨に降られた訳でも無いのに傘一つ持たない理由など、そこの電柱の麓に見えている。
「…風邪引くわよ。はいこれ」
「…あ、あの、それ君の傘じゃ」
「折り畳みくらい常備してるわよ。…その制服、千羽でしょ。余裕ある時に返しに来なさい」
「で、でも」
気まずそうな彼女に黒のナイロン傘を押し付け、水溜りを蹴り飛ばして天水の下を駆け抜ける。親切などに興味は無い、同情なんて出来はしない。ただ瞳に映った見ず知らずの少女に気紛れに手を差し伸べただけ、錆鉄の髪を濡らす言い訳を作っただけ。空いた手で眼鏡を直し、私はただ走り抜けた。
「おはよぉ、有希…って、すっごい濡れてない!?」
「…あのねぇ、
「…深くは聞かないけどねぇ。今拭いてあげるから」
自教室に辿り着いて早々、後ろの席の日辻にスポーツタオルで濡髪の滴を犬猫の如くわしゃわしゃと拭き取られる。抵抗はしても無駄だという事は長年の付き合いで把握しているので、頭上で動くタオルを無視して一時限目の支度に動く。
「あー、あの二人またいちゃいちゃしてるー」
「羽生さんって不良だけどこういう所可愛いよねー」
髪を拭いてくれるのは面倒が無くて助かるのだが、どうも周囲の視線が突き刺さる。普段であれば陰口の類は気にしないのだが、こればかりは流石に頬が熱くなってくる。
「…日辻、変な噂立てられても知らないわよ」
「有希ってそういうの苦手だっけぇ」
「…私は別に気にしないけど。日辻は」
「僕も気にしないよぉ?事実無根だしぃ」
「…そうね、お前はそういう奴だったわね」
朴念仁に冷たい溜息を送って眼鏡拭きに丹精を籠める。日辻は変な所で図太いというか、自分に向けられる感情には無関心な部分がある。私も有象無象からの恨み妬みなど気に留めないが、ポジティブな感情にはもう少し鋭くなってほしいものだ。
「はい、次前髪拭くからこっち向いてねぇ」
「…前髪くらい自分で拭くわよ。そろそろ朝礼だし」
首をぶんぶん振って水気を飛ばし、目元まで伸びた前髪を手櫛で梳く。それにしても私と日辻の席が前後で良かった、横並びの位置であれば情けない顔を見られていたかもしれない。全く、彼といると調子が狂って仕方が無い。
―こんな平穏がずっと続けばいいのに、なんて―
そんな微睡むような空想はチャイム音と扉の音に阻まれる。担任の
「おはようございます。それでは、号令を」
「起立、礼」
砥部は国語を担当する就任三年目の若い女性の教師なのだが、その評価は良く言えば真面目、悪く言えば堅物といったところ。内容を逸脱しない彼女の授業は私には合っているのだが、柔軟で明るく楽しい授業を好む生徒からの評判は比較的低め。とはいえ相性というものは千差万別である以上、評判と評価はイコールでは結び付けるべきではないのだが。
「…さて、本日は二つほど連絡事項があります。まず一つ、体育の濁川先生ですが病気により退職となりました。夏休みまでの体育の授業は別の先生方が担当する事となります」
砥部の連絡に周囲の空気がやや軽くなる。病気の退職と言えばもう少し悲壮な雰囲気になりそうなものだが、何せ退職するのが暴力教師として名高い濁川であるのだから惜しむ生徒などこの学級には一人といない。とはいえ、事の真実を知っている私としては喜べもしないのだが。
「…まぁ腕切られたら発狂するよねぇ」
「…一応、正当防衛として処理されたのだけどね。やってくれたわね、黒羽君…」
「…へびちっ」
「あら、可愛いくしゃみ。凪、風邪引いた?」
「…さぁ。取り敢えず手洗ってきます」
「はいはい、落ち着いて。続いて二つ目ですが、本日より皆さんと共に千羽で学ぶ転校生を紹介したいと思います」
「えっ」
刹那、拍手と歓声に包まれる教室。突如として到来した一大イベントに、この一年一組の教室がクラブハウスのような盛り上がりを見せる。
「転校生…?七月でもうすぐ一学期終わるこの時期にって珍しいねぇ」
「…煩い知らないどうでもいい。折角の雨なのに騒がしいの勘弁して欲しいのだけど…」
心地良かった雨音の静けさは何処へやら、打ち付ける強雨に張り合う熱に嫌気が差す。本当なら今すぐにでも帰りたいが、不良少女であれど空気は読む。せめて転校生様の自己紹介の間くらいは自らを律する努力をしなければ。
「静粛に。…どうぞ、入って皆に自己紹介を」
「―――それでは、失礼致します」
引き戸の向こうからの少女の声に静まる教室。かつん、かつんとリズムを刻みながら教室に入り込む靴の音、姿勢を崩さず歩む綺麗な所作。その淑女然とした一挙一同に、多くが目を奪われる。
長く艶やかな深碧の長髪、宝石のように煌めく碧の瞳。その淑やかながらも凛とした立ち姿に、絵本の中のお姫様が飛び出してきたかのような錯覚に見舞われる生徒一同。その中で私は一人、薄れた記憶を思い返していた。
「…あの髪…まさか、今朝の」
「皆様、初めまして。東京の
「………蛇、神?」
刹那、その音に背筋が凍った。再び鳴り響く拍手の中で、ただ私だけの時が止まってしまったかのよう。恐怖と嫌悪が混ざり混ざって押し寄せる感情の波が、凡そ一月振りに押し寄せる。
―その名は駄目だ。蛇神、其は私が縊るべき害悪。一連の騒動の黒幕であり、私の魔眼を狙う讐敵の名。その名を持つ女が今、私の眼前に立っている。
「………日辻」
「…落ち着け、有希。…確かに彼女は魔力持ちの退魔士だが、一族郎党全員悪人って訳じゃない。逸るなよ」
「………わかってるわよ」
沸き立つ害意を押し殺し、眼鏡を掛け直して眼前の令嬢に目を向ける。かつて私の魔眼を狙った蛇神の退魔士は推定三十から四十程の男、あの転校生とは別人だ。けれど彼女が蛇神を名乗る退魔士である以上、無関係だとは言わせない。推測するに彼女は蛇神の娘、或いは分家のような親族だろうか。どちらにせよ、あの娘が蛇神を名乗った以上は敵であると見るべきだろう。
「それでは蛇神さん、一番後ろの席に」
―あの女が動く。判っている、まだ確たる証拠も無いのに縊りに行く程私は馬鹿では無い。蜥蜴の尾だけ切った所で大元は捕らえられない、ならば様子を伺って機が熟した際に改めて縊ればいい。今は我慢の時、ただ静かに時を待つ。
「あ、さっきの親切な方!同じクラスだったんですね!私は蛇神―」
「聞いた。傘は勝手に回収しとくから」
「あ、その、はい。ありがとうございます」
―今日と云う長い一日が、軋む音と共に幕を上げる。
「…これで午前の授業は終わりです。号令を」
「気を付けー、礼ー」
蛇神 望。一時間目の国語の授業を変更して行われたレクリエーションに於ける質疑応答にて、彼女の一面が垣間見えた。
誕生日は一月十三日、身長は一六四センチ。好きな食べ物はハムとレタスのサンドイッチ、好きな歌手は『しろくろウィング』という二人組のアイドルユニット。一挙手一投足から育ちの良さが見受けられたが、感性自体は年頃の少女らしく六十分も経つ頃には既に学級の輪の中に馴染んでいた。どうやら人懐っこい性格であるらしい。
一学期の末という時期の転入となった理由は本人曰く「親の仕事の関係」との事。両親は共に普通の商社勤めと言っていたが、彼女は蛇神の名を継ぐ魔力持ち。彼女の親がかの憎き蛇神の首魁である可能性は未だ根強く残っている。
「望ちゃん、こっちで一緒にお弁当食べよー」
「あー、抜け駆けだー!私達も一緒にお昼したいー!」
「ふふっ。それじゃあ皆で一緒に食べましょうか」
この四時間で望はすっかり学友と打ち解けた。無論私は彼女に対する警戒を解いてはいないが、日辻の方はやや陥落気味。そもそも彼もお人好しのきらいがあるが、未だ敵意や警戒の色一つ見せない彼女に油断しているような気がする。
「…日辻、文句言いに行くわよ」
「んぇ?文句って、どこにぃ?」
「生徒会に決まってるでしょ。あの莫迦共だって本家の退魔士、蛇神が転入した件について何か知ってるかも」
「…一応僕も本家の退魔士なんだけどぉ。僕もウチの婆さんも何も聞いてない以上望み薄かもねぇ。望について聞くのが望み薄…なんてねぇ」
「先にお前から縊ってもいいのよ」
「ごめんて」
瞬時に構えた
とはいえ、私と敵対している蛇神の退魔士に詰め寄ったとしても素直に話してくれるとは思わない。彼女が黙秘を決め込むならまだしも、虚偽を並べられると真偽の確認が難しい。肝心の情報源が信用出来ない以上、無理に口を割らせるのも悪手となるのだろうか。
「…拷問は」
「無しに決まってるでしょお?やっぱ下手に逸らず一旦保留が丸いかもねぇ」
「…それもそうね。学校終わったら白部組と喫茶の方頼ってみるわ。日辻は」
「うん、生徒会と婆さんの伝手で探ってみる」
「…オーケー。それじゃ明日以降に持ち越しね」
―雨は未だ降り止まず。ただ、嫌悪だけが胸の内で膨らんで。
「………あの二人、何を話しているのでしょうか」
―――今此処に役者は揃った。白部の妖に拾弐本家の退魔士、蛇神の退魔士と人工の霊獣。そして、主役に据えるは魔眼の退魔士。全ては我等が悲願の為、人類の未来の為、この世界の恒久の為。永らく求めた理想を形とするべく、『私達』は全霊を以てこの演目を遂行する。
「〈
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