File.8 夜叉鴉、スタンバイ

 ―黒羽 凪。千羽町役場に登録された戸籍情報には、西暦二〇〇二年七月五日生まれの妖と記されている。現在十四歳、来月に十五歳を迎える妖で、性別欄は黒く塗り潰されている。現在は養母である黒羽 晴の姓を名乗っているが、彼女の養子となる前の苗字は不明。それどころか四年程前に晴に拾われる以前の情報の殆どが不明。恐らくは孤児と推定されるが、何処で生まれたかも何処で育ったのかも不明、その出自故か何の妖かさえ判別不可。孤児であるからと言えばそうなのだが、裏を取る程に彼女の存在が黒くなっていく。

 外見は人間と殆ど変わらない姿で、深紫の長髪と同系色の瞳、身長一五四センチの少女の姿を取っている。妖である為中学校には通わず、普段は養母である晴が営む喫茶店〈アヤカシ〉を手伝っている。周囲からの評価は黙々と仕事を熟す大人しい少女、といったところ。

「…この少女が四日前、夜の繁華街で私立千羽高校の教員である濁川 敦彦の両腕を斬り落とす事件が発生した。濁川は学内外で暴力を常習的に振るう人物であり、今回の事件も彼の暴行に対する正当防衛であると推測されるが」

「退魔拾弐本家が〈夜叉鴉〉であるとして討伐依頼を出してきたと。…資料の写真は虫も殺せないような雰囲気だけどねぇ」

 千羽町中央、町を束ねる妖たる白部しらべの本拠地である邸宅の広間に強者が集う。白部組幹部の定例集会で手渡されたカラーコピーの資料を片手に、幹部達は広間の半分をも埋め尽くす巨躯の獣の言葉に耳を傾ける。

「…同一視されている夜叉鴉は知っているな。七年前に悪人のみを標的として傷害、窃盗を繰り返した正体不明の災禍。滅んだ鴉天狗の怨念といった噂から名付けられた夜叉が、今再び出現したと」

「それは退魔士共が勝手に言ってるだけではなく?」

「勝手に言うだけなら態々我等を頼らぬだろう。謀略を好む貴様とは違うのだ、野箆坊のっぺらぼう

「何だと狐風情が!」

「…会議中くらい喧嘩するな。妖狐ようこも野箆も次やったら追い出すぞ」

 揉める二人の幹部に稲妻を落とし、獣は咳払いして言葉を続ける。この場に集うのは千羽のヌシである白毛の獣、そして白部組が誇る六人の幹部の妖。妖狐の御堂みどう、野箆坊の臼白うすしろ、河童の水瀬みなせ。送り雀の飛野とびの、送り狼の蒼狼ソウロウ、雪女の氷室ひむろ。たった七人が集い語らうだけで、写真の少女の命運は定まってしまう。故に慎重に協議を重ねるべきだと主の娘は言っていたが。

「…キャウン」

「…主様。この雀と蒼狼は羽生の退魔士との交戦の際、この少女と相対しています。ですが我等を前に震えていただけで、夜叉のような残虐性などは」

「否、このような純粋な童女こそ残虐を好むものよ。此方こなたも幼き頃は町を守ると称して悪逆を凍らせて回っていたしの」

「この水瀬も氷室に同意ですじゃ。この瞳孔の奥で揺らめく狂気、この爺でなければ見逃すじゃろうて」

「…私には目がありませぬので狂気がどうとかは分かりませぬが、討伐には賛成ですな。早急に手を打つべきかと」

「野箆に同じく」

 ―黒羽の少女の討伐、賛成四に反対二。あまりにも結論が早い。否、判断の遅れが死に直結する戦場に生きる妖の幹部である以上、即断即決は美徳であり結論を非難など出来る筈が無い。戦禍に生きる妖にとってそれは尊重すべき決断なのだ。

「雀、蒼狼。構わぬか」

「ええ、我等は主に従います」

「…では、卯野家、蛇神家から受領した討伐依頼を承認。千羽の主の名の元に、〈夜叉鴉〉黒羽 凪を討伐対象として指定。退魔士との協力作戦となる、心して掛かれ」




 乙女は駆ける。謹慎が明けた途端に公式に触れられた討伐依頼の話を聞き付け、深夜零時に手車ヨーヨー片手に喫茶を目指して月下を駆る。今回ばかりは魔眼を抑える眼鏡も必要無い、立ち塞がるモノは全部全部壊してやる。

 ―何が討伐だ、この町は悪を殺す事さえ許容する条約があるではないか。殺意からの自衛で刃を向ける事を赦さないなんて、十中八九は誰かの思惑が噛んでいる。それに夜叉と呼ばれた頃のあの子だって、斃してきたのは悪辣だけなのに。嗚呼、心の底から吐き気がする。

「あら、有希ちゃん。ごめんね、今取り込んでて…」

「ごめん晴さん余裕が無いの!黒羽君は!?」

「…それが、三日前に書き置きだけ残していなくなっちゃって。私も探してたんだけど、さっき千羽組から討伐の連絡が届いて―って何処行くの有希ちゃん!?」

 黒羽の自宅である喫茶には不在、なら次だ。あの子の事だから事態を予見して町の何処かに逃げ込んだのだろうが、この広い千羽町を虱潰しに探すのは現実的ではない。ましてや建物の多い地域であれば発見は殆ど不可能だろう。ともすれば、時間を掛けると千羽組の妖や退魔士の馬鹿共は強硬策に打って出る可能性がある。例えば周囲の被害を無視した破壊行動を伴う捜索だとか、或いは無辜の民を利用した―否、考える必要は無い。その前にあの子を見つけて保護するか、そうなった時に全部潰せばいいだけだ。

「…おっと、そこの走ってる君、止まりなさい。此処から先は我々千羽組が閉鎖している」

「何でも夜叉が出たんだと。アンタを通したらウチの幹部がうるさいんだ、悪いなー」

 ―故に、停滞をする余裕も無い。もし立ち塞がる何かがあるのなら、それが何であれ押し通るのみ。

「お、おい!聞こえないのか、止まりなさ」

「『停止の魔眼ロックアイ』!」

 煩い邪魔を魔眼で黙らせ、カラーコーンとバリケードテープを飛び越えて繁華街に飛び込む。普段なら深夜だろうと多くの店が明かりを灯しているのだが、今日は目に見えて光の量が少ない。代わりに増えたのは軍の妖と町の退魔士。夜叉が逃げ込んだ可能性の高い地域から物量を頼りに探し出すつもりなのだろうか。彼等の目的が保護ではなく討伐である以上、この魔眼に映る全ては私にとっての敵となる。

「なっ!?アイツ、例の魔眼の…!?」

「マズい俺達狙ってるぞ!交戦準備―」

「―『蛇睨ヘビニラミ』!」

 訂正、今の私にとっては有象無象など敵にさえならない。魔眼とは眼球のみならず視線にも魔力を宿す以上、このような妖の群れ程度であれば瞳を向けるだけで過度の重圧で行動を封じられる。今まで嫌悪ばかり向いていた私の魔力が、今となってはこんなにも頼もしい。

「…で、伝令、こちら第四討伐部隊…」

「あら、妖も今のご時世トランシーバー使うのね。ちょっと借りるわよ」

「あっ」

「えー、てすてす。羽生だけど聞こえてるかしら、白部のお姫様」

『…嘘、羽生さん!?白部 響です、討伐部隊と合流されたのですね!もしや夜叉の討伐に―』

「…ごめんなさいね。私の目的はその子の保護、今回は貴女達や退魔士の馬鹿共と目的が反対なのよ」

 ―錆鉄色の髪が夜闇に靡く。その悪意は蛇蝎の如く、その決意は鋼の如く。嫌悪を抱いた蛇の乙女は、魔眼を煌めかせながら怒気を込めて言の葉を綴る。

「…貴女達の追ってる夜叉は悪人しか標的にしてない筈なのだけど。千羽の条約ルールではセーフよね?何でこんな大規模に捜索してるのかしら」

『…厳正なる協議の結果、としか言えません。…ごめんなさい、何も出来なくて』

「…そ。別に自分を責めなくていいわよ、私も好きにやらせてもらうから」

 静かにトランシーバーの通信を切り、そしてブーツで踏み抜いた。何度も何度も怒り混じりに踏みつけ、機能の停止どころか原型さえ残らぬスクラップにするまで金属塊を壊す、潰す、砕く。怒気のみならず狂気さえ孕む乙女の瞳は、宝玉のように妖しく、そして強く輝いて。

「…この…!邪魔をするなら貴様から殺すぞ退魔士…!」

「私の台詞よ愚図共。縊って黙らせた方が早いかしら」




 ―状況を振り返る。深夜零時に退魔拾弐本家の卯野家主導、蛇神家との共同文書にて〈夜叉鴉〉黒羽 凪の合同討伐依頼が発令。繁華街や妖の住宅街の人通りの多い地区は出入規制が敷かれ、少なくない数の退魔士と妖の兵が夜叉の捜索に勤しんでいる。住民はこの討伐依頼による地域の閉鎖に納得出来ないらしく、方々で討伐部隊に対する野次や苦情が聞こえてくる。

 そして、この依頼に否定的な声を上げているのはどうやら住民だけではないらしく、一部の退魔士は討伐及び捜索作業をボイコット。特にこの町を拠点とする退魔拾弐本家の内、日辻家と鳥谷家が不参加を表明しているのは退魔士にとっては大きな痛手だろう。

「…はぁ、どいつもこいつも馬鹿ばっか。探すならも少し頭使えばいいのに」

 そんな風に毒を吐きながら、影は静かに路地裏で身嗜みを整える。深紅の長髪に焦茶のコートを纏い、水溜りに冷徹な視線を映す。全く、退魔士の奴等は何を考えているのだろう。たった一人を探し出すのにこんな大群を引き連れてた所で無駄が増えるだけなのに。白部の妖に一人くらい人並み程度に頭の回る奴はいないのだろうか。

「文句言ったところで何にもならないか。…さて、こっちもそろそろ動かないと」

 一頻り息を吐いて、陰る深紅は町に出る。見渡す限りの甲冑の兵に辟易しながら、ブーツの踵を軽快に踏み鳴らして注意を引く。

「ん?何だ貴様は、ここは現在立入禁止だが」

「もぉ、お堅いなぁ。兵士さん達が探してるっていう紫の髪の子、此処に来る前見掛けたんだけど」

「何だと」

「喫茶アヤカシの近くの廃倉庫に食べ物いっぱい運んでたよー?でもあんなに運んで何するんだろ?籠城とか?」

「そうか。…小隊長、夜叉の目撃情報が―」

 情報は武器だ。使い方によっては救える多くを救えるが、違えれば救えた多くを失ってしまう。こんな不安になるような脳筋の集まりだろうと、情報を与えればそれなりの動きは出来るものだ。あんなに無闇矢鱈かつ無造作に鴉を探していた妖の群れが、今まさに小隊という形を取り戻して廃倉庫へと行進を始めた。紅蓮の乙女には目もくれず、千羽の主からの命令の為に目的を果たさんとする妖達の姿は、どうしようもないくらいに憐れに見えて。

 ―私の言葉を信じなければ、痛い目見なくて済んだのに。

「…あ、妖力切れ。大分長く化けてたからか…」

 呟いて、翠のマフラーを巻き直す。風に揺らめく紅を深紫の色に染め、童女の影を月下に映し。夜叉と呼ばれた凶鳥は、ただ明日を求めて静かに啼く。

「…あぁもぉ、力入んない…。僕は…わたしは…こんなところで終われないのに…」

『えぇ、貴方は此処では終われない。我等の礎となるまでは』

「………はぇ?」




「退魔士部隊乙班、これより羽生の退魔士と交戦―」

「はい魔眼はい終わり!一々ってる暇無いのよ私は!」

 数多の邪魔を黙らせながら町を駆ける事三十分、未だ黒羽の手掛かりは見つからない。妖の少ない住宅街であれば離れていても妖力反応を感知する事である程度の居場所は判るのだが、妖ばかりの繁華街では妖力反応が多過ぎて個人の判別は不可能だ。加えて行く先々で夜叉の討伐に動く妖や退魔士共の群れが立ち塞がるせいで移動さえ順調に運ばない。魔力量と体力には自信のある方だが、流石に限界が見えてきた。日辻の謹慎さえ無ければ少しは楽になるのだが。

「…残り三割って所かしら。底が見えるの久々ね…」

 魔力持ちの人間にとって魔力の欠乏は致命的だ。私も詳しい事は知らないけれど、体内に宿す魔力が尽きると気絶、昏睡といった症状に陥ってしまうとか。別に魔力そのものは使い捨てのガソリンという訳ではなく時間さえあれば回復するのだが、戦場の真ん中で無防備に眠る事がどれだけ危険かなんて誰だって理解出来る。今大切なのは如何に魔力を節約するかではなく、如何に魔力が尽きるまでに彼女の保護を成し得るかだ。

「…ってワケで急いでるのよ、私。邪魔をするなら縊るわよ」

「おや、気付かれていましたか」

 故に、如何なる不安も放置は出来ない。例え建物の影から私を眺めるだけのビジネススーツの退魔士相手だろうと、少しでも障害となるなら。

「…否、邪魔をするつもりなんてありませんとも。私は只の一介のセールスマン、蛇神へびがみラボラトリーのふすまと申します。取り扱う商品は医薬品と―」

「………は?蛇神の………研究所ラボラトリー…?」

 瞬間、頭が真っ白になる。今まで汎ゆる障害を超えてなお停滞の無かったこの身体が、まるで自分の魔眼に晒されたかのように停止する。

 ―蛇神、其は私が縊るべき害悪の名。拾弐本家に連なる退魔士の名であり、かつて私の魔眼を狙った讐敵の名であり。そして、先日発生した誘拐事件や霊獣騒動の黒幕と目される仇敵の名でもあり。

「…まさか…!」

「―『魔力妖力暴走薬シンカロン・ブースター』。貴女様や白部様が暴霊獣ボレズと呼ぶ怪物を作る薬、及びを提供しております」

 刹那、アスファルトの大地を覆う黒影。鷹や鳶のような嘶きと共に現れたのは、千羽の夜空に飛び立つ漆黒の巨鳥。家屋と並ぶ巨躯、影色に包まれた猛禽の脚。そして、刃のように鋭い異形の翼。その凶々しい相貌から微かに感じ取った妖力の色に、私は思わず息を飲む。

「…そんな、嘘でしょ…。黒羽…君…?」

「本来は処置済の教諭を使う予定だったのですが、処分された為に代用品として使用しています。即席の試供品ですが、とくとご堪能下さいませ」

 獄落ごくらくの鳥は翼を向ける。害悪に連なる退魔士による絶望の宣告を受けてに飛び立つ怪物は、剛力を以て蛇を喰らわんと妖力を籠めて。

「…殺してやる、殺してやるわ!『一手揚々シングルアクト飛蛇トビヘビ〉』―」

「暴霊獣よ、錆鉄を斬り伏せなさい」

『…キュイアアアアアアアアアア!』

 ―その翼は速く、そして正確だった。手車ヨーヨーを電柱に巻き付けて天高く飛び上がった瞬間を見据え、翼の刃を瞬時に振るい斬撃を放つ。鎌鼬と呼ぶには巨大過ぎる風の斬撃は、魔獣の嘶きと共に隼の如き速度で迫りくる。この速度では返す手車の一閃も、回避や防御さえ間に合わない。形無いモノは魔眼でさえも止められない。錆鉄の乙女はただ、自らの死と直面し。

「…あ、終わった―――」




「―――終わる訳無いだろ、こんな所で!」

 ―けれど、迫る終末は消え去った。かの怪鳥が放った一撃は乙女に届く事無く、空舞う鋼の一閃で霧散する。私の前に立ち塞がった一閃の主は、嫌悪と共に外敵を睨む。

「………え」

「…抱えますね、羽生さん。なるべく揺れないようにはしますけど」

「………何故、何故です!?貴方は暴霊獣の核として呑まれた筈なのに………!?」

「…あぁもぉ煩い。…はい、着地っと」

 苛立ちながら錆鉄の乙女をお姫様のように抱えて地面に降り立ち、無事を確認して荷を降ろす声の主。何が起こったのか未だ把握出来ない乙女とスーツの外敵、そして滞空を続ける怪鳥の前に立つ影は、静かに燃ゆる怒りを抱いて戦地に立つ。

「馬鹿な…!ありえない、暴走薬ブースターを打たれた妖が暴走する自身の妖力から逃れられる筈が…!」

「暴走したとこから切り離せばいい。ね、簡単でしょ?」

 言ってその少女姿は私の方を振り向いて、無理に作った笑顔で微笑んで。月下に照らされる深紫の髪、風に靡く翡翠のマフラー。久々に見せた彼女の笑顔は、知らぬ間に私にも伝播した。

「…それ出来るの貴女だけだからね。…まったくもう、どれだけ心配したと思ってるのよ、黒羽君!」

「…可能なら自分の心配もしてくれると。バケモノ退治、残ってるんですから」

「アレ、黒羽君の妖力から出てきた暴霊獣でしょう?自分のお尻くらい自分で拭きなさい」

「ですよねー。…それじゃ、あっちの退魔士は任せます」

 言って、黒羽と呼んだ少女姿の悪食鴉は再び怪鳥の暴霊獣と向き直る。先刻の攻撃の様子から察するに、あの暴霊獣は襖とかいう退魔士の命令を受けて動いている。それが事実であれば、襖はきっとあの巨躯を制御するのに手一杯の筈。以前交戦した発電機の暴霊獣ような無秩序な暴れ方をしていない点と退魔士の魔力の消耗速度を結び付ければ、その推測は確信へと変えられる。

「…あまり調子に乗らないで下さい…!さぁ征け―」

「ちょっと黙ってろヒステリ退魔士!」

 ならば私が為すべき事はただ一つ、命令の阻害。私が持つ魔眼は目を見た対象を停止させる。効果時間は『目を離してから五秒経過まで』、即ち魔眼を向けている間は常に停止している。時間と魔力が許す限り、私の魔眼は意識ごと外敵を止められる。

「今よ!一撃で仕留めなさい!」

「―御注文オーダー、承りました」

 応え、黒羽は地面を蹴って跳び上がる。アスファルトさえ砕く脚力で、高度二〇メートルで滞空する影色の怪鳥の頭上まで一気に跳び上がる。翼のようにはためくマフラー、夜闇に広がる深紫の長髪。暴霊獣から放たれる無数の斬撃を短刀で防ぎながら月光を背に空舞う姿に、鴉の夜叉を錯覚する。

『スキュアアアアアアアアアア!』

「…ごめんね、僕は、わたしは強くないから。手段なんて選べないんだ」

 百数十と向けられた弾幕を全て捌き切り、翼の化生を見据えて宙を蹴り飛ばす。悪意によって生み落とされた悲劇の怪物に慈悲の刃を贈る為、猛攻を掻い潜って鴉は刃を振り抜いた。

「…終われ、『風斬羽カザキリバネ』!」

 鴉の一閃、音より速く。半月のように縦に割れる怪鳥の絶叫を背に、まがつ鴉は息を刃を収めて舞い降りる。膨れ上がった妖力は、千羽の夜空に消えてゆく。

『―――スキュ、ナ、ギュア―――』

「………これで、少しは役に立てたかな」

 ―鴉天狗の半妖、黒羽 凪。空中という戦場に於いて、かの鴉に能うもの無し。


「―暴霊獣よ、その剛力…で…」

「あ、やっと動いた。もう終わってるわよ、黒幕サマ」

 停止の魔眼から解放された退魔士の視界に映ったのは、全てが終わった戦場跡。先刻まで操っていた筈の暴霊獣の姿は其処になく、ただ眼前でニヤリと嗤う魔眼の退魔士だけが映る。その恐怖に思わず後退りしようとして、再び自分の身体が止まる感覚に襲われる。

「逃がすワケないでしょ、ちゃんと電柱に私の手車ヨーヨーで縛っておいたわ。紐は女郎蜘蛛の糸を編み込んでるから力技どころか並の刃物でも切れないわよ」

「…愚かですね。この程度の拘束で捕らえたつもっ」

 そして再び沈黙。暴霊獣を生み出した黒幕の戯言は、錆鉄の乙女が怒り混じりに繰り出した腹部への蹴りによって意識と共に中断された。

「…わぁ、痛そう…」

「…そういえば、黒羽君。一つ聞きたかったのだけど」

「…え、今の流れで聞くんです…?まさか質問拒否したら暴行…」

「痛いの好きなら構わないけど。…コホン。大事な話よ」

 襖と名乗った退魔士に括り付けた手車を解きながら、息も途切れ途切れの黒羽に語り掛ける。

 そう、まだ全てが解決した訳ではない。黒羽 凪の討伐依頼は未だ撤回されていない以上、このまま彼女を放置する訳にもいかない。依頼者である卯野か蛇神に討伐依頼を撤回させるか、せめて白部の承諾を取り消さない限りは何も解決はしないのだ。

「…コイツが蛇神の関係者って事は、この討伐依頼自体裏があるのは確定。けれど、黒羽君。元はと言えば貴女が濁川…あの体育教師の腕を落としたのが発端、っていうのは判るかしら」

「………その、確かに今はやり過ぎたとは思うんですけど。あの時の濁川、さっきの鳥みたいな気配がして」

「………え、それって」

「…ごめんなさい。ちょっと、眠い、かも…」

「ちょ、ちょっと黒羽君!?」

 そこまで言って、半妖は瞼を閉じて倒れ込む。アスファルトに頭を打ち付ける前に支えた為に大事は無いようだが、念の為に私の上着をマット代わりにして道脇にそっと寝かせておく。

 しかし、鳥のような気配という事は暴霊獣の気配という事だろうか。そう言えば最初にこの襖とかいう退魔士が何か言っていたような。確か、本来は処置済の教諭を使う予定だったが処分された為に黒羽を代用したとか。処置済、教諭、処分。まさかとは思うが、黒羽が腕を落とした理由は。

「―――はい。先刻、濁川という男から暴走薬の使用痕を確認しました」

「………ッ!?誰―」

 途端、意識外からの声に手車を抱えて振り返る。黒羽は休眠中、敵襲であれば私であれど守り抜く自信は無い。そう至り魔力を迸らせるが、其処に居たのは見覚えのある少女だった。

「…あー、驚かせちゃいました?私です、白部 響です。安心してください、討伐依頼は間もなく取り下げられますから」

「…良かった、白部さんか。…えっと、取り下げって」

「…私、耳がいいので。ちゃんと聴こえてましたよ、そこの退魔士の自白。…蛇神が出した討伐依頼で蛇神の関係者が悪事を働いた以上、依頼の承認は撤回です。…私達をダシにするなんて、卯野家と蛇神家に抗議しないと」

 倒れる退魔士に視線を向けながら話す獣耳の姫に、私はそっと胸を撫で下ろす。成程、白部組の跡取である彼女が討伐依頼を取り下げてくれるのなら安心だ。黒羽が逃亡生活を送るような状況にならなくて本当に良かった。

「…あ、でも。黒羽君、濁川の腕を…」

「…えぇ、普通なら過剰防衛ですが。蛇神の絡む依頼って事でちゃんと調べたら案の定でした。暴走薬を使用されていた以上、この件は正当防衛と判断します。…それに、そこの夜叉鴉…黒羽さん、でしたか。彼女は―」

「…それ以上は言わないで。この子の為にも」

「………わかりました。この件は内密、という事で。…貴女達はこの町を、濁川をも救ったのですね」




 ―――違う。彼等の成果は、何かを救ったと呼ぶには程遠い。それは一つの問題を乗り越えただけ。蛇神と例の魔獣との関係性が確実となっただけで、進展と呼べるような進展は殆ど無い。あの魔獣のなり損ないを一匹打ち倒した程度で、この町を救ったなどと呼べるものか。

「…何もしなくても滅ぶんじゃねェか、この町」

 彼等はきっと見逃している。暴霊獣とかいう魔獣が持つ本当の脅威を、あの襖とかいうスーツの退魔士が抱えている真っ黒な邪念を。もし町を救ったなどと胸を張りたいなら、それは本当の意味で町を救った時に。

「…ま、俺には関係無ェ話か。あの鴉が気付いてんなら大丈夫だろ」


 ―――胸を張りたいなら、滅ぶ千羽を救った時に。

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