第5話 獅子王の焦燥と葛藤

麒麟公からの伝令の言葉に獅子王は眉を顰めずにはいられなかった。

人間との共存も人間との争いも、獣人にとっては考えられないことだった。なぜならば、圧倒的に能力の差と寿命の違い。なぜこの世界にこれほどまでに違うものが生きているのか獅子王は不思議に思っていた。

決して人間が劣っているとは思わない。彼らには知恵があり技術があり、そして子孫を増やす力がある。種として強いのであろう。

「法皇はこのことは知っているのか?」

愚問である。愚問と知りながらも問わずにいられない。

「おそらく」伝令はそれだけ答えた。

「境界近くにいる白龍が静観している以上、我々が何をするということはないが、緑龍に対してのことは落とし前はつけてもらわないといけない」

人間の手によって聖なる神龍が傷つけられたという事実は、協定違反どころの騒ぎではない。聖龍の力はこの国だけでなく人間の住む国々にも恩恵をもたらしている。「間違えた」「聖龍と気付かなかった」は通用しない。

紅龍も火山を境に人間の住む国の近くにいるがなかなか人間が紅龍の棲む場所の近くに来ることはないし、紅龍も魔導院に飛来する以外はあまり住処を離れることはない。同じく青龍も他方まで飛ぶことはない。しかし海に潜っての移動は広範囲に及ぶと見られている。白龍は人間の国との境界を常に監視するかのように西の台地を住処にしている。しかも転生したばかりである。緑龍は聖龍たちの中での伝令のようにあちこちに姿を現す。おそらく転生して日の浅い白龍を心配して西の台地へ向かう途中にでも襲われたのだろう。

何故人は聖龍と知りながら矢を放ったのだろう?

「そういえば」

緑龍が怪我をしたということは、その痛みを法皇は感じているはず。

「魔導院からの使いは来ていないのか?」

今はまだ祈りの時間。いつも祈りの時間の後に法皇である白き黒豹は獅子王の城を訪れる。

「いえ、見えておりません」

ならば緑龍の怪我は、伝えられたように大したことはないのだろうか?ともあれ法皇に会うまでは落ち着いて考えることすらできない。

獅子王は玉座に座り、法皇が来るのを待った。

魔導院に繋がる扉は、王の間のすぐそばにある。

法皇がなるべく人に会わないためでもあった。本当ならば法皇は魔導院から出ることはない。

「祈りの時間はまだ終わらぬか」

側近に訊く。

「まだです」

昔は祈りの時間の間は、たとえ王であっても口を聞くことも許されなかった。先代の法皇が自らの祈りを研究し、人々に邪心がなければ何をしていても問題はない。むしろ邪心を持つ者が祈りの時間にその邪心に突き動かされ、何かを行ったとしたら、龍たちの逆鱗に触れ滅びる。そう説いた。

それ以来、人々は祈りの時間も普通に生活を営んでいる。いやむしろ、己の中の邪心に蓋をするかのように慎重にその時を過ごす。

「邪心をこれっぽっちも持たない者などこの世にはいない」

先代法皇はそうも人々に説いた。

人にも獣にもそして、神にさえ邪な心はある。「欲」は純粋だが、純粋だからといってそこに「悪意」がないわけではない。

「生きるというのは常に自分との闘い、葛藤なんです」

先代法皇の口癖だった。

現法皇はあまり多くを語らない。

「人々が間違った方向に進みそうになったら注意はする。それでも、人々がそっちへ進むというならば仕方がない。世界を終わらせるたいというのなら、それも仕方のないことだ」

いつか獅子王に言った。

「世界が終わってもいいと?」

「世界が続いてほしいと願う人々を新しい世界へ導くよ」

獅子王の問いの答えになっていない。

「獅子王が世界の終わりを願うなら、それさえも僕はしないけどね。僕はいつでも獅子王と共にいるから」

何故かそういう法皇はとても悲しそうに見えた。

いつか、自分が世界の終わりを願う日が来るのだろうか?白き黒豹にはその日が見えているのではないか?獅子王は怖くなった。

「蘇芳」

法皇が小さく呼ぶその名は獅子王の幼名だった。

「大丈夫。君は正しい未来に人々を導く王だ。だからこそ、僕は君と共にいるんだ」

耳元で小さな声が言った。

その言葉を信じることで、自分は今日もこうして玉座にいる。本当は不安で今にも逃げ出したいと思っている。

毎日、法皇と共にいるのは、体の弱い法皇を思ってのことも確かだが、彼が今日も自分の傍にいることで、自分は間違った道を歩んでいないと思えるからでもあった。

先頭を走る獅子王の重圧は計り知れない。


何の前触れもなく扉が開いた。

「ごめん。遅くなった」

黒い法衣のフードまでしっかりと被っている小さな体を抱きしめる。

「待っていた」

「痛いよ」

腕の中で小さな体が身じろぐも、いまだにフードを被ったままである。

「顔を見せてくれ」

緑龍の怪我は左目だと聞いた。

「怒らない?」

「あぁ」

いや、すでに十分怒っているのだけれども。獅子王はそっとフードを外すと法皇の顔を覗き込んだ。

左の瞼が少し腫れているように思える。

「大丈夫か?」

瞼にそっと触れる。

「麒麟公が抜いてくれたから随分楽になったけど、薬が塗ってあったようなんだ」

「毒か?」

法皇はこくりと頷く。

「朝早くにスフェーンに起こされた。怪我は大丈夫だと。麒麟公には薬のことは伝えないで、と」

明け方の突風は緑龍だったのか、と獅子王は思った。距離が離れていても通じることができるのにわざわざ顔を見せに来たのは律儀というべきなのだろう。

「毒はもう吸い出したし、特に後には残らない。今は森で寝ているよ」

「そうか」

「ただ、ムーンのことが心配」

ムーン、ムーンストーンと呼ばれる白龍は最近転生を終えたばかりだ。もともと慎重な性格だが、五大龍の中で一番優しく、何事も受け入れてしまう。

「しばらくは西の台地から降りないとは言っているけど、どうしたらいいのか」

西の国の人間たちが何を思って聖龍に矢を放ったのか?それも毒の矢だ。

ふぅっと腕の中の溜息が聞こえた。

「休もう。疲れたろう」

法皇は「うん」と頷いた。

黒い法衣を脱がせ寝衣に着替える。いつもは「仮眠だから」と法衣のマントを外すだけの法皇が今日は寝衣に着替えるということはダメージが大きいのかもしれない。獅子王は心配になる。

「瑠璃、大丈夫か?」

公式の場でない限りは獅子王は相手を幼名で呼ぶ。

「大丈夫」

お気に入りのぬいぐるみを抱きしめ法皇は答える。

「午後には厄介な客が来るから、今のうちに眠っておくよ」

そう言って法皇は目を閉じた。

獅子王は法皇の深く青い瞳が好きだ。だがこうして眠る顔はお互いを幼名で呼び合っていた頃となんら変わらない。初代法皇・魔王を凌ぐ力を持っている者とは思えないあどけない寝顔だった。


「確かに厄介な客だ」

窓の外。黒々とした雷雲と共に現れたのは龍の王・黒龍だった。

黒龍の現れる少し前に目覚めた法皇は、さっさと黒い法衣に着替えた。

そして王の間の窓際に立った。

瞬く間に雷鳴が轟き、稲妻の中から黒い大きな龍が現れた。

俯いていた法皇が顔を上げる。

青い瞳が今は黒龍と同じ黒い光を放つ。

「久方ぶりだな獅子王」

法皇は言う。しかし、その声は少し掠れた声音の高い法皇の声ではなかった。低く、全ての空を震わせる声。黒龍が憑依している。

聖龍の声は耳で聞くものではない。その声を聞くことができるのは麒麟公爵家の一部のみ。法皇は心を通わせる。そして、現法皇はその身体を依代として、聖龍たちの言葉を人に伝えることができる。

「緑龍の話は既に伝わっているだろう?」

獅子王は頷く。声は出さない。

黒龍は常に一方的だった。こちらが何を言おうがお構いなしに自分の意思を伝えてくる。

「白龍はしばらく私の庇護下とする。心配は要らない」

それは実に心強い。

「巨人を起こそうと思う」

「起こす?」

思わず声が漏れた。消えた巨人は存在しているというのだろうか?

この国の成り立ちと歴史が書かれてある「古の書」とは別に、龍と獣人の国ができる遥か前、国という形を持たぬ頃の記録には巨人も獣人たちと共に龍の加護を受けていたとあった。この国の中に巨人のいた形跡はほとんどない。だが、龍の加護を受けていたとしたら、黒龍は巨人らを知っているのは納得できる。

「巨人から派生した人間たちを、巨人は捨てて眠りについた。形が似ているだけで、巨人と人間は全く違う。むしろ、巨人は獣人に近い存在。能力も心も」

獅子王が生まれる前に既に巨人の姿は地上にはなくなっていた。巨人は「世界の書」の中にだけ存在するものだった。

巨人から派生したと言われる人間。彼らは何故誕生したのだろう?巨人はある程度成長するとそこからはほとんど変化することなく終焉を迎える。その亡骸は瞬く間に土塊となり、その塊は龍の炎に焼かれて崩れ、新たな命を生み出す土壌となる。巨人の誕生は書物にはない。

「土に還るものは土から生まれる」

先代法皇の言葉だ。

「人から生まれたものは人に還るのですか?」

そう訊ねたのは幼い瑠璃だった。

「還るのではなく人の心に残るものだ。そして再び形を得て生まれてくる。だがな、人間は違う」

前法皇は幼い瑠璃と蘇芳、そして麒麟公・白亜に向かって言った。

「肉体だけでなく魂も常に真新しいものが生まれて消える。彼らは自分たちとは全く違う時間を生きている。だから、人間との約束などあてにはできない。古の約束など彼らには無に等しい」

ゆえに、人間の住む国との境には人が通れぬ結界と、自然の壁ー西の大きく深く流れの激しい川と南の活動を続ける険しく高い山脈ーがあるのだという。

「なぁ、獅子王」

窓の向こうに覗く大きな赤い左目がこちらを見ている。

「もしも、人間が越えられぬ結界を越えて、おまえに助けを求めてきたらどうする?」

その声を放つ法皇の左目も赤く光る。

どんな空よりも美しい青色の瞳は今は右目にすらない。黒龍の右目の青は限りなく闇色に近い青だった。

「何から助けろと?」

獅子王は夕日のような瞳を眇める。

「そうだな」

黒龍の赤い瞳が笑う。

「例えば、人間同士の争いから逃げて来たものだったらどうする?」

「それは我々が介入すべきものではない」

獅子王は即答した。

法皇が笑う。いや、実際に笑っているのは黒龍だ。

「例えば、巨人から逃げて来たものだったら?」

「巨人とて、我らとは違う世界で生きているもの。そもそも人間とは時の流れすら違うものなのに、たとえ助けたとて、共存は無理だ。人間は人間のいるべき場所によっているのが当然。人間とて、こちらの国、世界に介入することはできない」

獅子王はそう答えながらも、何故人間が緑龍に矢を放ったのかが気になった。そして、その矢が何故緑龍に当たったのか?

「どういうことだ?」

互いは互いに干渉し合わない、いや干渉し合えない生き物ではなかったか?

「世界の書」にはどうあった?獅子王は思い出す。

巨人の世界と龍の世界はもともと全く違う場所にあり、お互いの存在を知ることもなかった。それぞれがそれぞれの世界で新しい生命を創り出す。その生命が持つチカラによって、双方の世界がいつしか同一の線上に並んだ。龍たちは人=獣人によってその力をより強力なものにしていった。そして巨人は逆に人間が増えるとともにその力を弱めていった。そして、ある日、ついに眠りに就く。本来巨人の眠りとともに人間の住む世界はバランスを崩して崩壊するはずだったが、巨人たちは龍に世界の保持を願った。いつか自分たちが眠りから覚める時まで。そしてもしも、人間たちが自分たちの力だけで世界が成り立っていると思うほど、人間以外のものを蔑むようになった時には、この世界を再び分断しても構わない。しかし、世界の主である巨人がいない、眠ったままの状態で世界を分断しては、人間の世界はその存在を保つことができない。

「龍と巨人は、再び世界が自然に離れていくまでの隣人でしかないのだから、互いは互いに干渉し合うべきではない。そうですよね」

バランスが崩れている。もしくは巨人が恐れていた事態になりつつあるのだろうか?

「世界を分けるのは簡単だ」黒龍が言う。

「でも、巨人が眠ったままでは少し不公平だと思わないか?」

ようやく獅子王は気がついた。

黒龍が本当に怒りを向けている相手は人間ではない。眠り続けている巨人たちに黒龍は腹を立てているのだ。

「この国を、この世界を守るため、法皇の力はこれまで以上に必要になる。次の法皇の誕生もまだ気配すらない。この状況、どう思う?」

それはどういうことだろう?獅子王には黒龍の問うた意味がわからなかった。

一見、穏やかに見えるこの国だが、ひょっとして悪しき方向へ向かっているとでもいうのだろうか?「古の書」にある滅びの時を迎えようとしているのであろうか?

「違うよ」

その声は法皇のものだった。見ると法皇は目を閉じている。

「それは違うよ。獅子王。今は滅びの時じゃない。黒龍も獅子王に意地悪しないでよ」

瞼を閉じたまま、法皇は言う。

「大したものだ。私と同調していても自我を保てるとは」

目を開いた法皇は黒龍の言葉を告げた。

黒龍の目が獅子王を見る。同調している法皇の目も相変わらず血の赤色と闇の青色をしている。窓の外に見える黒龍の目は赤く燃えているようにも見える。

「嵐が来る。嵐は避けられないが、耐えてやり過ごすことは可能だ。法皇が今は滅びの時ではないと言うなら、きっとやり過ごせるのだろう」

窓の外の黒龍の目が笑ったようだった。

「ともかく、巨人を起こす。それだけは覚えておくがいい。今までにない嵐が来る。それを乗り越えられることを我々は願っている」

窓の外の黒龍の赤い目が閉じられる。

ふらりと法皇の体が揺れた。

獅子王はサッと駆け寄ると、倒れる前にその体を抱くことができた。

色を失った法皇の唇が獅子王の額に触れる。

「法皇が目覚めたら、話を聞くがいい」

黒龍の言葉が頭の中に直接響いた。

唇が離れ、大きく空気が揺れた。風が起こり、黒龍は高く舞い上がる。法皇はそのまま獅子王の腕の中でくったりと力を失った。


獅子王は、法皇を抱く自分の腕が震えていることに気がついた。腕だけではなく体全体が震えている。その理由が何なのか?獅子王にはわからなかった。

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遠い国の物語 達吉 @tatsukichi

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