第4話 木兎侯爵の観測と憶測
木兎侯爵の毎日は基本規則正しい。
古くからの友人である兎公爵が訪ねて来るか呼び出されないかしなければ、1日のメニューは決まっている。食事すら毎日同じもので構わない。いや、むしろそれが好ましい。
ショートスリーパーの木兎侯爵の夜は早い。夜というより夕方には寝てしまう。そしてきっかり3時間後、空がすっかり暗くなった頃に目を覚ます。
そこから21時間、しっかりと仕事をする。もっとも時々仮眠を取る。10分程度の仮眠だが、食後に2回。兎公爵が来るとそれが崩れてしまうが、予め予定がわかっているとうまく調整をするからなんてことはない。
木兎侯爵に仕えている者たちは、皆、侯爵の生活のリズムを踏まえているし、木兎侯爵も彼らを自分の特殊な生活パターンに合わせさせるようなことはしない。
その日は急な使者殿が訪れる日だった。
先に来たのは麒麟公爵のメッセージを運ぶツバメだった。
脚に伝言を結びつけたツバメが窓から飛び込んできた。
「おやおや、タイミングがいいぞ」
朝食後の仮眠から起きたところだった。
「3日後の午後そちらに着く。例の西方の様子を聞かせてほしい」
寝起きのぼんやりとした頭が一気に覚める。
木兎侯爵の領土は国の西側の山岳地にあり、大河を挟んで西方にある隣国の様子を伺うことができた。
大昔は領土争いもあったようだが、この辺りの山々が天然の砦のように西国の人々の侵入を拒んだ。現在の関係は問題なく穏やかなものである。この国が聖龍・ドラゴンたちの国であるように、西方の国は巨人の国だった。
そう過去形である。
人々が領土争いを繰り広げていた時代とほぼ同時期に巨人の姿は消えてしまった。
守護するものがいない土地は滅びる。
現に西方の国の国土のほとんどは砂漠と化している。
人々の多くはドラゴンの大河の辺りに住んでいる。
それはこの国のドラゴンたちの守護によるものだった。川の水に混じったドラゴンの力が向こう岸にも及んでいる。
かつてはこの国同様、王の治める国だったが、今は「政治家」たちが国を動かしている。
彼らは生きていくためなら、この国の従国になってもいいといっているが、この国の獅子王は決してそれを認めなかった。
その理由のひとつは、西国は純粋な「人間」の国だったからである。
人間と獣人は寿命が全く違う。獣人の方が何倍もある。
「時の流れ方が違うものは区別されなければならない」
いつか獅子王が言っていた。
それでも隣人が滅んでしまうのを見ているだけではない。密かに援助をし続けている。
木兎侯爵は絶えず西方の国の様子を見ている。ちょうど人々の暮らす場所の中心部が木兎侯爵の館の展望台から見える。木兎侯爵の家には昔からある観測鏡があり、近年それに記録機を接続した。
先日、気になることがあった。西国の人間が何人か川を渡りこちらへ上陸しようとしたのだ。だが、それは叶わない。この国を取り囲む「龍の壁」と呼ばれる目に見えない結界が、この国に相応しくないと思うものを受け入れを拒む。川を渡っていた人間たちはそのまま元の岸へと押し戻された。たとえそれが虫や鳥、魚でさえも、害をなすとみなされたものはその結界を越えることはできない。それは西国の人々もわかっているはず。なのに何故?
逆に自分たちも、ドラゴンよりも高く飛ぶことのできぬ限りは他の国へ行くことができない。ならばどのようにして援助を?
それはドラゴンの御力が対岸に流れ着くのを黙認しているということだった。
「この国の守護者。真の主であるドラゴンがその力を他に与えることはない。何かの考えがあってのことだ」
以前、獅子王が話していた。
「もっとも、その理由を瑠璃は聞いていると思うがな」
法皇たる黒豹猊下はこのことについては何も語らない。
このことは魔導院に報告済みである。龍の結界は魔導院の管轄だった。もしもそこを越えたものがいたら、それはすぐさま王に伝えなくてはならない。
木兎侯爵の領地から北側に外れたところに「辺境台地」と呼ばれる場所がある。もともとはそこを見る為につけられたと言われている観測鏡だった。遠い先祖がその目の良さを買われ、観測者としてこの地と観測鏡を王より与えられたと聞く。
土地が異様なまでに隆起しているそこは誰も入ることができない場所だった。そしてそこは五大聖龍の中のムーンストーンと呼ばれる白龍がいる場所でもあった。
木兎侯爵はいつかそこに行きたいと思っている。友人の麒麟公爵は何度か訪れたことがある。翼竜に乗れないといけない場所だと言っていた。
「追伸 黄竜と行く。試してみる?」
伝言の最後にある文字を見て木兎侯爵は思わず「やった」と声を上げた。
翼竜乗りの麒麟公爵が「キミなら運動神経もいいから翼竜の速さにも耐えられると思う」と話していた。
「黄竜なら、僕以外を乗せても大丈夫だと思う。おおらかだからね。ただ、もう少し大きくならないとふたりは乗せられない」
そう言っていたのは去年のことだ。
「成長したのかな?」
木兎侯爵はいそいそとツバメの足に手紙を結び付ける。
「気をつけていらしてください」
難しい政治の話よりも、木兎侯爵に大事なのは辺境大地のことだった。
約束通りの3日後の昼食後の仮眠から目覚めたちょうど、館に使える袋鼠が侯爵の部屋のドアをノックした。
「はい。起きてるよ」
「それはようございました。麒麟公爵様がお見えです」
袋鼠は先代の侯爵の頃より館に使えるいわば長老で、木兎侯爵にとって一番信頼のおける者である。
「応接の間に御通ししてください。僕もすぐ行きます」
麒麟公爵に渡すデータを持つと、木兎侯爵は部屋を出た。
木兎侯爵にとって麒麟公爵は憧れの存在だった。
兎公爵や青鷺侯爵ほど近い存在ではない。獅子王や猊下のような到底手の届くことのない雲の上の存在でもない。
こうして自分に会いに来てくれるのはとても嬉しい。それがたとえ役目の話だとしても。
「久しぶりだね」
応接の間の扉を開けると、麒麟公爵が先に声を掛けた。
上着を脱いでソファに無造作に置いている。
「皺になってしまいます。掛けますよ」
「いや、大丈夫。それより、今から行けそう?」
「え?」
「黄竜が落ち着かないから、さっさと行っちゃおうかと思ってね」
「僕は構わないですが、あの、データはどうしましょう?」
「受け取って構わないなら、今もらっていくよ。君はいつもきちんとまとめているから、説明受けなくても大丈夫だし」
そう言ってもらえるのは嬉しい。
「ゆっくりはできないんですか?」
「黄竜が飛びたがって、落ち着かないんだ」
「僕が一緒でも大丈夫ですか?」
「それは大丈夫。白龍の気配を感じて会いたがっているだけだから。戻ってきたらゆっくりさせてもらうさ」
麒麟公爵はそう言うと、ソファに置いていた上着を手にした。
黄竜は蝙蝠のような膜の翼を持つ翼竜で、その体は黄色というより橙色に近い。広げた翼は日の光に透けて黄色い影を地上に映す。
麒麟公爵は長く旅をするときは黄竜よりも一回り大きく羽根の翼を持つ白竜と一緒だ。荷物も多く詰めるし、テントを張れないときは白竜の羽毛に埋もれて眠る。黄竜はまだ若く、スタミナの配分がうまくできない。しかし、スピードは翼竜の中でもトップクラスだった。
「この手綱の根本を掴むといいよ」
そう言って麒麟公爵は木兎侯爵の後ろから手綱を掴む。
「君たちは高度差は大丈夫だよね」
「はい」
「じゃあ一気に上まで行くよ」
麒麟公爵は黄竜の脇腹を撫でる。黄竜が翼を広げて二度三度羽ばたくと、その大きな体がふわりと浮いた。
「さぁ、行くんだ」
黄竜は甲高い声を発すると空高く一気に舞い上がった。
黄竜の周りには風を遮る役目をする光が生じる。
内側からだとその光はよくわからないが、外から見ると黄竜は金色の光でしかない。
この光の中だと風を受けず、気温が下がるのも気にならない。ただ、黄竜がリラックスできていないとうまくこの光を発することができない。黄竜がリラックスするためには乗り手もリラックス出来ていなくてはならない。
「青鷺だと神経質すぎるし、兎ははしゃぎすぎる」
麒麟公爵は言う。
「獅子王も兎同様張り切る」
「そうなんですか?」
「あいつはあれでいて子どもっぽいところがあるからな」
麒麟公爵は何かを思い出したのか「ふふふ」と笑った。
黒豹猊下は竜に乗ることがあるのだろうか?ふと木兎侯爵は思った。
大地は遥か下。木兎侯爵自慢の展望台もとても小さく見えた。
西の国との国境に大きく横たわる川-奈乃河-の「黒龍に似ている」と言われる姿を見ることができる。
黒龍には翼はない。空をうねるように飛ぶ。その姿に似ているという。西の国側の河岸にはみっしりと建物が並んでいる。一方こちら側は川に沿って森が続く。深い川の水は空の色を映している。そして川の中程がきらきらと輝いている。黒龍の背中の輝きにも似ているそれは、この国を守るドラゴンの結界だった。
それにしてもこの高さでないと見られない川の姿を誰が黒龍に例えたのだろう?と木兎侯爵は思った。
「僕の先祖かもしれないし、君の先祖かもしれない」
麒麟公爵が言う。
これだけ高く飛んでいるというのに、気流の乱れも感じることなくとても安定している。
「木兎、君、ひょっとして『ドラゴンの護り』を身につけている?」
麒麟公爵に問われ、胸元からネックレスにしていたドラゴンの護りを取り出した。
「猊下に頂いたんですが」
「どおりで黄竜が安定するわけだよ」
「そうなんですか?」
「黄竜はムーンストーンのことが大好きだからね。あぁ、瑠璃は綺麗に閉じ込めているね。流石だよ」
涙形の透明な水晶の中で羽のような白龍の鱗が揺れる。
「公爵もお持ちなんですか?ドラゴンの護り」
「そうだね。君たちが持っているのとは少し違う。僕が受け継いでいるのは五大龍全ての護りだから」
そうだこの人は自分たちとは違うのだった、と木兎侯爵は思った。
永遠の命を持つと言われるドラゴンたちの言葉を聞くことできる麒麟公やドラゴンの見聞きしていることドラゴンの思いをも共有できる法皇猊下にはこの世界はどのように映っているのだろう。
「麒麟公爵の持っていらっしゃるドラゴンの護りはやはり初代法皇が作ったものなんですか?」
木兎侯爵はふと思ったことを口にした。
「そう伝えられている」
と麒麟公爵の声が背中越しに聞こえる。
「でも、実際は違っているんだろうけどね」
「え?」
木兎侯爵は慌てて振り向いた。
「だって、初代法皇の時代に五大龍の転生の記録がないんだ。どうやって五大龍の鱗を手に入れたんだろうね」
そう言われると確かにそうだ。
「でもドラゴンの護りを作れるのは魔王だけと言いますよね。魔王以外の誰が作ったっていうんです」
「そこなんだ」
麒麟公爵は言う。
「この国の始まりからの全てを記していると言われるあの書には書かれていないことがあるんだと思う」
「書かれていないこと?」
「君も読んだことがあるだろう?」
木兎侯爵は頷いた。自分たちにとっては教科書よりも大事な書である。
「矛盾を感じたことはなかった?」
「わかりません」
これが正しいと言われたら迷いもなく信じる。それが木兎侯爵だった。
「偽りの言葉を綴っているのではなく、書かれていないことがある。僕はそう思っている」
麒麟公爵は言う。
この国の記録が綴られている史書の中でも、国の成り立ちと獅子王の一族が王となるまでのことが記されている「古の書」は国民の誰もが読むものだった。古の書の原書は魔導院の奥に保管されているが、原書そのままに現代語訳されたものはどの家にもあった。
「古の書に書かれていない何かを知りたいんだけどね。瑠璃はその辺も知っているはずだけど、あの子は聡いからね。何も言わない」
史書は代々の法皇が書いているという。
「黒豹猊下も書かれていらっしゃるんですか?」
「瑠璃はメモ魔だからな。なんでも書いてあるかもしれない。獅子王への愚痴とかも書いてあるかもしれないな」
麒麟公爵は愉快そうに言う。
しかし、史書は書き手の法皇の死後、魔導院の中に封印される前の僅かな間公開されるもので、その後は写しが出るまで見ることはできない。通常はその法皇と共に生きていたものがいなくなった頃、写しが出来上がる。もっとも、法皇でいる間が短かったり、あるいはあまり記されていなかったりすると写しの出るのが早い場合もある。
「瑠璃の大伯父に当たる先代法皇は在位期間が長かったからね。写しの作業はちっとも進んでいないようだよ」
家督は代々長男が受け継ぐ。だが、法皇と竜使いの麒麟公爵家は違う。
その時、一番能力の強い者が役目を継ぎ、二番目の者は子孫を残すために家督を継ぐ。
獣人である彼らは、男女で表面に現れる姿、能力が違う。だが、これまでの長い営みの中で様々な遺伝子が体の中に潜んでいる。必ずしも獅子王の長男が獅子とは限らない。麒麟公爵家でも木兎侯爵家でもそれは同じだった。だが、獅子王の家にしか獅子は生まれず、麒麟の家にのみ麒麟が生まれる。獅子の家に生まれながら黒豹の姿と力を持っていたのが、先代法皇である。麒麟の家から生まれた黒豹もいた。法皇になれば婚姻することはない。法皇にならなかった黒豹が子孫を残すか、古からの血が他の家で発現するかのどちらかなのである。
一族とは姿や能力が違う者が生まれた場合、姿が表す一族の子として育てられる。木兎侯爵は元は黒鶴子爵家に生まれた。母は木兎侯爵の出身だったためか木兎の特徴を持って生まれ、生まれて間もなく木兎侯爵家の長男となった。
兎公爵も青鷺侯爵もそれぞれの家の長男として誕生している。
獅子王も然り。麒麟公爵は男兄弟の末ながら、一番の能力を持っているが為「ドラゴンライダー」である。家督は今現在は長兄が継いでいる。公の場にはドラゴンライダーの称号を持つ者が「麒麟公爵」として出る。いわば家督を継ぎながらも影としての存在だが公爵家にとってはドラゴンライダーの血を繋ぐものとして重要な人物である。
この複雑さから麒麟公爵家ではたびたび血生臭い事件が古の書にある時代には起きたらしいが今は黒豹の一族と同等の聖なる一族として存在している。
現法皇である白き黒豹は実は出自が謎である。
父親が誰なのかわからない。
ある日、王の妹である鳳凰の姫が赤ん坊を身籠った。魔導院に使えし姫巫女の彼女が誰の子を宿したのか騒ぎになった。姫巫女にも覚えがないという。だが王の妹という立場から秘密のまま獅子王の城の奥にて臨月を迎えた。
その日は朝から五大龍が獅子王の城に飛来した。本来魔導院上空に現れるのが常の龍たちの登場に、城の内外では大変な騒ぎになった。
その騒ぎの中、白き黒豹は生まれた。
彼が生まれた瞬間、五大龍は地面に降り、頭を下げて新たな魔王に敬意を表したという。
その光景を目撃した者たちは皆畏怖に震えた。
ただならぬ何かが起きるのではと思った。
獅子王と麒麟公爵は、その日のことを幼心にもきちんと覚えていた。
何者かの声が聞こえ、白き黒豹を護れと言った。
黄竜はずっと上昇を続け、いつしか雲を下に見る高さまで来ていた。
「普段は雨雲でも突き抜けるヤツだけど、今日は木兎侯爵を乗せているから行儀良く雲を抜けずにここまで来たよ」
麒麟公爵は笑った。
やがて「ほら、見えてきた」と麒麟公爵が腕を伸ばして指さした。
木兎侯爵がその指差す方を見る。自分たちは雲の上の、かなりの高さを飛んでいるはずなのにそれよりも高いところまで伸びている、巨大な柱のような辺境大地の姿が見えた。
「一気に行くから、しっかり捕まっていて」
黄竜はその声を聞いていたかのように上昇ともに加速した。
「あぁ、やっぱりいた」
辺境大地の上空で麒麟公爵が言う。
白く煌めく体を持つ白龍の隣に寄り添うようにスフェーンと呼ばれる緑龍がいた。
「僕、こんな近くで五大龍を見るの初めてです。しかも自分が見下ろすなんて」
木兎侯爵は興奮を禁じ得ないという感じだった。
「たまにはいいだろう?」
二匹の龍が眠っているのか。
黄竜が高い位置で旋回する。
しばらくすると白龍が頭を上げた。
「よし、降りるぞ」
麒麟公爵が黄竜を撫でる。
黄竜は旋回しながら高度を下げる。
木兎侯爵の目にはもう、白龍の羽の一枚一枚も、そして緑龍の鱗の模様までも見えるようだった。
「すごい」
黄竜は白龍と緑龍の前に降り立った。
「また来たよ」
麒麟公爵は白龍に向かって言う。そして、緑龍を見る。
緑龍は普段は国の東側にある人のいない森の中にいるという。その森は獅子王の城にも繋がる広大な森で、その森からは様々な恩恵を受けている。緑龍の住処は麒麟公爵しか知る者はいない。森の向こうは海。この辺境大地の向こう、青龍が住む北の岩山の向こうも海である。他の国と隣接するのは、この西側と紅龍の住む火山帯のある南側で、火山帯が他の国のもの達を拒んでいる。
「ここで会うとは思わなかったよ」
麒麟公爵が緑龍に向かって言うと、緑龍はチラリと右目だけを開いた。
「機嫌悪いのか?」
と言いながら麒麟公爵は一歩緑龍に近づいた。
黄竜はいそいそというように白龍の側に行く。ふたりを乗せてきた黄竜だが、白龍たちに比べると随分小さく思えた。白龍は黄竜を労るようにチロリと赤い舌で黄竜の顔を撫でた。
木兎侯爵は黙ってそれを見ていた。目の前に五大龍がいる。それだけでも緊張するが、彼らに普通に接する麒麟公爵に驚いていた。
木兎侯爵は喉が渇いていることに気がついた。喉だけでなく口の中も渇いている。
「どうしたんだ?これ」
麒麟公爵が驚いたように声を上げた。
見ると左瞼の上に矢が刺さっている。
「誰がこんな」
木兎侯爵には緑龍が溜息をついたように見えた。
「木兎、こっちへ来てくれ」
呼ばれて慌てて近寄った。
麒麟公爵は緑龍の瞼の上の矢を抜いた。それを木兎侯爵に手渡した。
「どうしたら…僕らの薬が使えるのでしょうか」
「大丈夫。君が思っているほど痛みもないし、傷もほら」
木兎侯爵が見ている前で、矢を抜いた痕はみるみる塞がった。
「かなり、怒ってるようだね」
緑龍はゆっくりと両目を瞬かせた。
白龍はじっと緑龍を見ている。黄竜もそっと覗き見ている。
「奈乃河でやられたのか?」
ドラゴンたちは滅多に声を上げない。声のように聞こえるのは体の中の空気を吐き出す音で、飛ぶ瞬間や逆に地上に降りる際に、大きく息を吐いた時に聞こえる。言葉は別の形で相手に伝えるのだという。その声を聞くことができるのが麒麟であり、五大龍と同調できるのが法皇である。
「どういうつもりでドラゴンに矢を向けるんだ。だから巨人も消えるんだ」
麒麟公爵は忌々しげに言う。
「緑龍の怪我は瑠璃も感じている。緑龍はこうして平気な顔をしているが瑠璃は痛みを感じている。緑龍は僕らがここに来るのを知っていて矢を抜かずに待っていたんだ。事実を僕たちに見せるために」
「事実を?」
「その矢を使うのは西の国の人間たちだ」
「え?」
木兎侯爵は手にしている矢をまじまじと見た。
「大丈夫。戦争にはならないよ。それは約束する」
麒麟公爵は言う。白龍と緑龍がじっと木兎侯爵を見つめる。
「折角君のところでのんびりさせてもらおうかと思ったけれどもそうはいかなくなったようだ」
麒麟公爵は背負っていた鞄から布を取り出すと、木兎侯爵に持たせていた矢を包んだ。
「獅子王に報告しないと。それよりも瑠璃の様子も気になる。スフェーン」緑龍に向かって言う。
「おまえも怪我のないことをきちんと瑠璃に報告しろ。矢を抜いたからもう瑠璃にも痛みはないと思うが心配しているぞ」
緑龍は「わかったわかった」と言うように首を揺らした。
黄竜が名残惜しそうに白龍を見る。
白龍が何度も黄竜を舐める。
緑龍が静かに立ち上がる。黄竜に似た翼だが大きさはその比ではない。その羽を広げほとんど羽ばたくことなく空を行く。そして、青龍と共に泳ぐこともできる。
すっと緑龍の体が浮く。長い尾を揺らし、大きく翼を広げると一気に上空高く舞い上がった。
谷を渡る風のような音がした。それが緑龍の声だった。
木兎侯爵は口を開けてそれを見ていた。大きな体が見えなくなるまで時間はそう掛からなかった。
「さてと、僕たちも行くか」
矢を鞄に入れると木兎侯爵を促す。
木兎侯爵はこの国がこの世界が次のフェーズに移行していくような気がした。
自分たちが今の時代にいることにはきっと意味がある。
木兎侯爵は期待と不安で身震いする自分に気づいた。
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