序説・救出劇のはじまり
001:角笛が鳴る時
———君と、君の血を継ぐ者たちに、この世界の人々を導く権利とその権威を授けよう……———
賢者の創った世界に、人という存在の歴史が時を刻み始める。
人間史の最初に、賢者はひとりの人間を選び、そしてその者に特別な権威を授けた。
“セスの権威”。
それは、セスという者に与えられた、この世界の指導者として人々の前を歩む権威のこと。
しかし、その権威を持った者には誰よりも大きな責務が生じる。
「いかなる時も、愛をもって人を導く」ことだ。
その賢者の意志に従うならば、その権威者の時代は大いに繁栄し、
逆に、その意志に反する権威者は賢者によって制裁を下されることとなっていた。
賢者は更に、“セスの権威”はセスの子孫が代々継いでいくようにと命じた。
「セスの子」と呼ばれたセスの子孫たちは非常に重い責任を担いながら、数々の政策によって世界を統制してきた。
流れゆく歴史の中で、世界を効率よく統べる為にひとつの世界帝国を建てたのも、その政策のひとつ。
それが“ファーティゲルマ大帝国”。セスの権威を継ぐ者が治める由緒正しき国家の名。
嘗てファーティゲルマの大地にセスの権威者の玉座を据えたセスの子のひとり賢王ソロモン。
彼の統治から暦を数えて1542年。―――ソロモン暦1542年。現在。
ファーティゲルマの帝都オーベロンでは例年よりも少しだけ暑さを増していた夏がようやく過ぎた。住人たちが恋焦がれていた涼し気な風を運ぶ秋を迎える。
この街が秋の訪れを喜ぶのは、自分たちと同じく夏の暑さを耐えてくれた数多くの薔薇の樹木がもうすぐ芽吹く事も関係している。
この街を、いや。この国を象徴するとされている薔薇の花は、夏の期間に生と死を分けるほどの忍耐を強いられる。
炎天下の熱に耐える薔薇に最適な手助けをする事で、薔薇は春よりも香り高い花を美しく開く。
春ほど数は無くとも、薔薇の都と呼ばれるこの街にその花が咲くというのは、この都に住む国民にとって誇らしい季節であり、喜びでもあった。
ぷっくりと膨らむ薔薇の蕾から、もう既に微かな香りを漂わせるせっかちな薔薇もいるようだ。
もう少しすれば、今にも綻びそうな蕾がたっぷりとした大輪を開いてその上品で優雅な香りを街いっぱいに漂わせるのだろう。
華やかでいて優しい香りが秋風と戯れるこの美しい都の白い丘の上に、威厳を放つ高雅な宮殿が街を優しく見下ろすように高く聳えている。
世界を統制する統治者が住むのを表すかのように、煌びやかで洗練された白と深縹の宮殿グウェンドリン。
宮殿の各所には、この国を表す紋章を描いた旗が立てられている。
国に咲き誇る薔薇の色と同じ赤を強調とするこの国の国旗に記された紋章の形は印象的な形をしており、人々はその紋章を抱く国こそ世界の心臓部を表すとして“ハート”と呼ぶようになった。
この国が「薔薇の国」「赤の国」のように「ハートの国」と呼ばれる由縁はここにある。
その紋章は、愛を意味する事もあるらしい。
まさに、賢者の世界を統べる者に相応しい国と言えよう。
秋の風が薔薇の香りを抱いて、ファーティゲルマの国旗を揺らしながら通り過ぎてゆく。
今日という日は、風に揺れる国旗の数がひときわ多いのだが、それには理由があるのだ。
国民が宮殿や宮殿前の広間に多く集まっている。
城下町の道通りにも人が集まり、それぞれが小さな国旗を手にし、今日の主役の姿が見えるその瞬間を今か、今かと待ちわびている。
浮足立った民の様子に、最近この城下町にやってきた異国の商人がその理由を尋ねてみた。
「師匠、知らないの?今日はアーサー様が初めての戦場に向かう出発の日なんだよ」
「ああ。そういや、客の騎士様がそんなこと言ってたかねぇ」
「アーサー様もついに公務に就かれるんだよ。エルヴィナ様もきっとお喜びになられてるわ!」
そう言って笑う少女の手には、皇族への出国の手向けと無事に帰ってきてくださるようにと願う2つの意味を表すための香り高い花びらをたくさん入れた白い籠が握られている。
これから戦場に赴く兵士たちに、そしてこの国の皇太子アーサー様に浴びせるための花びらだ。
その軍服に祖国の花の香りが染み込ませ、祖国に待つものが居ることを忘れぬようにと。
それは、ずっと前の時代から残っているこの国の風習なのだという。
商人は浮足立つこの国の民の背中を見つめながらそっと目を細め、多くの責任を担わされた皇太子を心持ちを思い小さく息を吐いた。
人々が手にする花びらの芳醇な香りの強さに噎せそうになり、商人は家の中へと戻っていった。
「(こんだけ香りが強けりゃ、宮殿の一番上の女帝様にも十分届いているだろうよ)」
商人の予想通り、花の匂いは風に運ばれ宮殿の玉座に座る女帝の元にも届いていた。
ほんのりと香りを乗せたそよ風が、女帝の蜜のように美しい長い髪を揺らすように撫でていく。
深海の穏やかさを思わせるような藍い碧眼はただぼんやりと空の色を見つめていた。
エルヴィナ・ユヒト・ジョヴィアン・ガーネット・アレキサンダー。
世界帝国ファーティゲルマ帝国皇族家ジョヴィアン朝第26代目皇帝。
現在のファーティゲルマ本国の若き皇帝であり、世界の統制者としてセスの権威の座に君臨している。
先代皇帝と皇妃の長女としてこの世に生を受け、父の代からのこの国の最盛期を継続させているこの女帝は、多くの者の心を掴んで離さぬ美しさを持ち、非常に慈愛に満ちた心の持ち主である。
まさに、賢者の意志である「愛による統制」を可能とできる、模範的な皇帝だと言えるだろう。
いつも美しい笑顔を絶やすことのない彼女は今、多くの人々が集う王座の間の、歴代の皇帝たちが座してきた伝統深き王座に座り、震える手を必死の思いで隠していた。
目を閉じ、己の心を説得し続けて何時間。…いや、何日経ったのだろうか。
エルヴィナにはそれほどまでに大いなる葛藤があった。
それでも、時間と、我々セスの子に背負わされた使命は待ってはくれない。
大理石で出来た宮殿内の玉座の間。
シャンデリアと同じ目線の高さまで高くそびえる玉座への階段の下で、アーサー皇太子の叙任式に集められた貴族たちは主役の登場を心待ちにしており、誰一人としてエルヴィナの心の葛藤に気づくこともない。
玉座へ続く長い、長い階段。
真っ赤な絨毯で繋がっているはずなのに、階段の下の世界に取り残されているように見えた。
そっと、陛下。と小さく声を掛けられる。
エルヴィナの後ろで彼女を護衛する聖なる騎士の団長がただ一人、エルヴィナの様子に気づき、心配そうに声を掛けたのだ。
エルヴィナは小さく首を振り、彼に笑いかける。
それでも心が、見えない寂しさで軋む音が聞こえようとしていた時、ざわついていた人々が一斉に口を閉じた。
これから行われる儀式の始まりを知らせる、けたたましいラッパの音が鳴り始めた。
「紳士淑女の皆様!ご静粛に。これより、我らが皇太子アーサー様の、ファーティゲルマ大帝国皇帝代行官叙任、并びにファーティゲルマ大帝国総司令官の叙任式を執り行います!」
この式の司会者の声が響き渡ると、再びラッパとドラムの音が鳴り響いた。
時は来た。
「アーサー皇太子、御入場!」
王座の間に集まっていた全ての人間が起立する。
重々しい扉が大きく音を立てながらゆっくりと開いていく。
扉の向こう側に居たのは、エルヴィナ女帝と同じく美しい金の髪を持ち、この国の軍服に身を包んだ第二皇太子アーサー。
皇族を守護する騎士団に前後を守られながら、拍手と歓声の中、アーサーは凛とした姿で歩く。
皇子の体型に合わせて新調した赤い軍服と黒いマントが光っているように見えた。まだ何にも汚れていないのだ。
皇太子は玉座に続く階段の前に立ち止まり、階段の前で一礼した。
エルヴィナの後ろで彼女を護衛していた騎士団の長が、アーサーを護衛していた騎士たちに手を掲げた。
護衛たちは後ろへと下がり、アーサーはひとり、皇帝の座る玉座へと階段を上がっていく。
エルヴィナは震える手で玉座の肘掛けを掴み、重い腰を上げた。
エルヴィナの前まで進み、アーサーは女帝への敬意を示して一礼する。
ひどく他人行儀に見えるその行為の後、アーサーは誰にも見えない角度でいつものようにひとつ笑ってみせた。
「危なかった…。もう少しで躓くところでした」
エルヴィナにしか届かない声でそう言うアーサーの姿に、エルヴィナは少しだけ心の荷が降りた気がした。
どうやらその様子が見えていたようで、騎士団長は小さく呆れたように、それでも優しい眼差しで息を吐いた。
アーサーはエルヴィナより数段下で跪き、頭を垂れた。
アーサーの方は準備は出来ている。後は、アーサーに祝福を告げ、の剣を託すエルヴィナがその肩に剣を沿わせるだけだ。
騎士団長が、王の剣をエルヴィナに差し出す。エルヴィナは白いレースの手袋に包まれた手で、その剣を手に取る。
かつて、この世界を救った英雄アレキサンダーの剣を鞘から抜き、白銀の剣の刃を何よりも愛する弟の背に沿わせ、大きく息を吸った。
「賢者の権威、セスの名の元に。ここにアーサー・クェスカ・ジョヴィアン・ペリドット・アレクサンダーをファーティゲルマ大帝国の正当なる騎士と承認す。心せよ。汝は忠誠、武勇、慈愛、公正を持って人を救う聖なる剣である事を。心せよ。汝は我がファーティゲルマの子らの命を預かりし大盾である事を。我らが父で在られる大いなる賢者よ。どうか新たなる騎士に祝福を」
“祝福を!”
エルヴィナの最後の言葉を、その場に参列していた者たちが一斉に叫んだ。破れんばかりの拍手と大歓声を聞きながら、エルヴィナは剣を一度アーサーから離し、鞘に収めてアーサーに与えた。
マントを翻し、背後に居る大勢の声援を受けながらアーサーは剣を振りかざした。
豪華な音楽と、いつまで経っても止みそうにない大歓声が宮殿内で鳴り響いている。
ビリビリとその振動を感じながらも、エルヴィナは目の前で起きている豪勢な儀式がどこか別の世界で起きている事のように感じていた。
◆◆◆◆◆
「姉上!」
式を終え廊下を歩いているエルヴィナの後ろから、愛しい弟の明るい声が聞こえた。
振り返ると、出発前のアーサーが軍帽も被った万全の姿で駆け寄ってくるのが見えた。
エルヴィナの後ろを歩いていた騎士団長や女中たちがさっと道を空ける。その間を抜け、アーサーはエルヴィナをぎゅっと抱きしめた。
真新しい軍服と卸したての革手袋の臭いがエルヴィナの鼻孔を刺激する。
「あはは。姉上、まだ力んでおられる」
ポンポンと、アーサーはエルヴィナの背中を優しく叩いた。その時初めて、エルヴィナは自身の全身が酷く強張っていたことに気づいた。優しく自身を抱きしめてくれる弟から、赤ん坊の時からずっと変わらぬ彼の頬の甘い香りを感じたのを合図に、エルヴィナの全身からスッと力が抜けた。ようやく少しの安心を感じて落ち着き、愛しい弟の背中に腕を回した。
「心配しなくて大丈夫。ハウエルもいるし、皆もいてくれるから。だから安心して待っていてください」
「…嗚呼アーサー。こんなにも不安な気持ちでどうにかなってしまいそうな日は戴冠式以来だわ。必ず無事に戻ってくるのですよ?」
「姉上も、どうぞ御自愛ください」
アーサーは数秒、そのまま姉の細い体を抱き止め、そっと腕を解いて姉の両手を優しく掬い上げるようにして手を取り、その白く美しい女帝の手の甲に口づけを落とした。
いつの間にか、騎士の振る舞いが様になるようになったのかとぼんやりと思いながら、エルヴィナは自身の代行の額にそっと口づけを与える。
数歩後ろへ下がり、礼儀正しく一礼してアーサーは踵を返して歩き出した。
ただ、歩いていってしまっているだけなのに、離れていく速度がとても速く感じた。
「…賢者様…、どうか、私の愛する弟をお守りください」
戦場へ赴く弟の背を見送りながら、エルヴィナは小さく呟くようにして祈る。手の震えは相変わらず抑えることは出来ないでいた。見送る弟の背中が、かつてそのまま帰らぬ人となった兄の背中によく似ていたから。
「アーサーを、どうか、どうか私の腕の中に帰してください…」
こらえていた涙が何物にもよらずに溢れ出てきた。
涙を止めることの出来ないエルヴィナを後ろで見ながら、騎士団長はただただ自身の紅いマントで彼女の泣き顔を隠すことしか出来ないでいた。
◆◆◆◆◆
「見えた!アーサー様よ!」
城下町に溢れたファーティゲルマの民たちは、戦場に赴く軍隊の行進を見て歓声を上げた。
目当ては勿論、今回が初陣であり自分たちの誇りそのものであるセスの子アーサーである。
赤で装飾された白馬に乗り、アーサーは笑顔で民に手を振っていた。
初めて身近で見た皇太子の姿に、民は目を輝かせながら手とファーティゲルマの旗を振った。
家の窓から身を乗り出す女たちは白い籠に手を入れ、この時のために用意しておいた香り高い花びらをアーサーや兵士たちにふりかける。
街中に花の香りが満ちていた。その香りと、人々の笑顔とを見てアーサーはこの国の美しさを愛おしいと感じていた。
ここが我が祖国。美しき花の街…帝都オーベロン。
宮殿の中で不安に駆られたエルヴィナとは対象的に、アーサーは非常に浮足立っていた。
その心情を理解していたアーサーの護衛役は、アーサーの後ろであからさまにため息を吐いたが、今のアーサーの耳には入らないようだった。
「殿下。あまり余所見をされていては、馬から落ちてしまいますよ」
護衛役の反対側に居た軍の参謀長である男が優しくアーサーに声をかける。アーサーは頭の後ろをかきながら、すまないカーライン。と彼に笑いかけた。
「だが楽しみで仕様がないのだ。初めての外国への旅だから…」
「そうでしたな。しかしながらこの度は戦争への進軍。どうぞ気を引き締めて」
「それはそうだな。ありがとうカーライン。うん、気を引き締めなければ…」
そういって前を見据えたアーサーであったが、どうしたって心は踊っていて仕方がなかった。
初めての外国の地、初めての異文化。初めての任務。
長い間、祖国の宮殿の敷地内で守られ続けていたアーサーが、完全な保護から解放される時が来たのだ。
しかしその解放がこれから先待ち望んでいるような生易しいものではない事を、アーサー自身は勿論他の多くの従者たちもまだ知らないでいた。
例えばそれは…。
親愛なる姉弟の絆を両断するような未来。
“勇敢なるスペルビアの民よ!時は来た!”
“報復せよ!悪しき国ファーティゲルマに!”
“セスの子アーサーの名において命ずる”
“全ての悪に鉄槌を!”
未来のアーサーが掲げるスペードの紋章の国。スペルビア。
アーサーの初陣の相手国は、その小さな従属国であった。
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