第10話:帰りたくない場所には、いつも父親がいた
目を覚ますと、最上にとってすでに見慣れてしまった伊吹荘の自室の天井があった。
体が重く、温かいベッドと体が一体化してしまったような感じがする。
(まだ起きたくないな)
起きたら、西天と朧火と顔を合わせなくてはいけなくなる。寝返りをうとうとして、ベッドが妙に狭いことに気づく。
スースーと寝息が隣から。こんなに間近に人がいるのに気づけなかったのは、最上がまだ覚醒しきっていない証拠だった。
手で横の方をなぞると、触り慣れた波だった髪の感触がした。
「……ん、あ、おにぃ。ようやく起きた」
「近い」
大きな赤い瞳に吸い込まれてしまいそうだ。夏用のタオルケットの中にいる辺り、ソフィアは最上を看病していたわけでなく、確信犯的に潜り込んだのだろう。
「ボクはあの後貧血気味で一人だと寒かったんだよー」
よくあるシチュエーションで、おにぃがどんな反応するか試してみたかったしね、と余計な一言が加えられた。
「もう大丈夫でしょ。今は夏だよ、暑い」
「照れてるせいだよ」
彼女は最上の長髪に頬擦りして起き上がると、寝巻のまま部屋を出ていった。しばらくして戻ってきたと思ったら、西天と朧火を連れてきた。
(余計な事を……)
「起きたのね、よかったわ」
「出てけよ。僕はお前の顔を見たくない」
申し訳なさそうな西天の顔を見た瞬間、なりを潜めていた怒りが再び顔を現した。
「……学校が襲撃されたのは、私のミスよ。ごめんなさい」
「出てけ」
ソフィアはおろおろと、視線を最上と西天の間で行ったり来たりさせ、朧火は無表情のまま静観していた。
沈黙が部屋に降りてくる。ぐずぐずに腐ったクジラの胃の中にでもいるみたいな空気だ。その空気を作っているのは間違いなく最上だった。
けれど、最上にとってソフィアはかけがえのない存在で、だからこそそれを『ミス』で危険にさらされたことが許せない。
「ごめんなさい」
突然、西天はくるりと背を向けて部屋を出ていく。微かに震えていた肩を、最上の目は嫌でも捉えていた。
「ガキが。女を泣かすなよ」
そう吐き捨てた朧火が西天に続いて出ていく。
ガキが。
朧火の口から言われたのは二度目だ。
「なんだよ、好き勝手言いやがって」
「……おにぃ、ボク、悲しいな。みんなで仲良くできないの」
その日、最上はソフィア以外の誰にも会わないようにすごした。昼ごはんと夜ご飯は、ソフィアが部屋に運んできてくれた。
日付が変わりかけた頃、子供たちが多く騒がしい伊吹荘がようやく静まり返る。最上はこっそり部屋を抜け出て、風呂に入り、シャワーを浴びる。伊吹荘は洋風の館なのだけど、銭湯のような共用の大風呂があった。広い風呂場を最上だけが使う。
『ガキが。女を泣かすなよ』
最上は子ども扱いのくせして、西天は女、大人の扱い。
(西天さんのことを許せない僕を子供だって言いたいのか?)
体の傷はすっかり治っていて、体力も回復しているはずなのに、気分はひどく悪かった。
「大切な人を安く扱われて、簡単に許せるのが大人だって言うんなら、僕は子供でいいよ畜生!」
最上の声だけが風呂で響いてはすぐにかき消えた。
「気に食わない! 大人ぶりやがって、都合のいい言葉を並べるだけの人間が!」
胸に溜まった鬱憤を吐き出していたせいで、長い髪を洗うのにいつもの倍以上の時間がかかってしまう。風呂に入ってすっきりするつもりだったが、いっこうにもやもやが消えなかった。
廊下で人に会わないように細心の注意を払いながら自室に向かった。自室がある三階は、屋上を除いた最上階だ。二階から三階に上がるとき、三階の手前で人の気配を感じて立ち止まる。壁に背中を這わせ、一直線の廊下をのぞき込むようにして確認する。
一番奥、屋上へと続く出入り口が開いていて、月光が忍び込んでいた。
(……なんだ、ソフィアか)
月明かりに照らされる人の正体を確認して、最上はほっと胸をなで下ろす。パジャマ姿のソフィアに後ろから近づいた。
「なにしてるんだよ」
ビクッとソフィアの肩が揺れる。
妹はシー、シーと人差し指を口の前で立てて見せた。
(また覗き見盗み聞きの類かな)
あきれてため息をつきながらも、ソフィアが見ている物に興味があった。
一緒に出入り口に身をひそめるようにして、外の様子を覗う。
最上も予想はしていたが、屋上にいたのは、西天と朧火だった。
学校での一件を終え、二人はいったいどんなのろけ話をしているのか。
それが最上の気になるところだった。
(どうせ朧火が西天さんを慰めてるんだろうけど。朧火は西天さんの絶対の味方だしね。僕は悪者扱いだろう)
屋上の角っこの方に二人は座っているようで、ぎりぎり西天の下駄を履いていない左足が見える。
「虚構科学研究所の動きに気づけなかったのは、完全に……私の……ミスね」
「ああ、そうだろうな。監視は心の担当だったから、悪いのは心だ」
「ねぇ朧火くん。私、どうやったら最上くんに許してもらえるかな」
「穂野ノ坂学校が近隣の学校で一番安全だってのは、俺たちが一番よく知ってる。俺でもソフィアちゃんを預けるなら、そこを選ぶ」
それに、と朧火は続ける。
「テロへの対処、後始末を心はしっかりやった。失敗への責任は取ったんだ。悪いのは確かに心だが、その件を終えた今なら断言してもいい。心が謝って、それを許さない最上が悪い」
朧火の言葉に、最上の歯と歯がぎりぎりとこすれる。
「痛い、痛いっておにぃ」
最上の下でソフィアが小さく悲鳴を上げる。
「ご、ごめん」
ソフィアの肩に乗せていた手に、いつの間にか少し力がこもってしまっていた。ソフィアの注意が遅れていたら、痛いでは済まなかった。強すぎる力は制御を誤れば自分が守ろうとしている物まで壊してしまう。
最上が悪いと言う朧火は予想通りだった。それはむかついたが、最上の予想とは少し違う。朧火は西天もしっかり叱ってはいた。
「あいつは子ども扱いを嫌がるくせに、視野が狭いからな。やっぱりあいつはまだまだガキだ」
言葉の毒に反して、朧火はハハハと笑った。
「可愛いクソガキだよ。けど、あいつも馬鹿じゃないし、そのうち自分の間違えにも気づく。心は根気よく謝りながら待てばいい」
「……わかったわ」
「今は俺に慰められてたらどうだ?」
「そうしよう、かしらねぇ」
最上は屋上へ続く出入り口に背を向け、早足で自分の部屋に戻った。
「そうか――」
一人つぶやく。
心配そうな表情をしたソフィアがついてきた。最上はベッドに座り込み、うなじに見えない重しが乗せられているかのようにうなだれた。
「確かに、僕はクソガキだ」
朧火の言葉で気づいた。
見えていなかったことに。
西天に勧められた学校に、最上は何の疑いも抱かず、ソフィアを任せた。
『西天を信頼し、ソフィアを預けた』
こう言えば、確かに聞こえはよくて、最上は悪くないように思える。
だが、最上は西天にソフィアを守るという責任を丸投げした。こうも言えてしまうのだ。
実際の処、最終的には預けないといけなかったのだが、最上はソフィアを大事だと言いながら、その学校が本当に安全か、西天の言葉だけで判断していた。最上が安全かどうかを調べても、虚構科学研究所の行動を確認しても、今回の一件は起こっていたかもしれない。それはわからない。けれど、防げたかもしれないというのも事実だ。ソフィアを危険から、事前に守れていた。
朧火も言っていた。
確かに西天のミスなのだろうが――。
最上が本当にソフィアを大切に思っているなら――。
最上がやすやすと西天にソフィアを預けたのは、信頼ではなく、ただの最上の怠慢だ。西天だけを責めるのもおかしい。最上は、形はどうであれ、自身の責任を西天に渡したのだから。
「西天さん……どうして僕を責めなかったんだ……」
西天には、最上に反論する権利があった。最上が西天の立場にいたのなら、何も考えず大切な人を預けたやつを罵倒していた。
なのに、西天は自分の失敗の責任を、ただ負っただけでグチの一つももらさなかった。
「自己中心的だな、僕は」
「おにぃ、落ち込んでる?」
「そうだね。自分に嫌気がさしたんだよ」
「そうなんだ。なら、ボクに慰められたらどう?」
隣に座って、最上の頭をなではじめたソフィアに、思わず苦笑いを漏らす。
「ソフィアさ、ほんとに影響を受けやすいよね」
「あこがれてるんだよ。お父さんとお母さんに。あーゆー関係におにぃとなりたいなー」
「おにぃなんて言ってるやつとは勘弁だよ」
「かなた」
最上の脳天から背骨にかけて、奇妙な寒気のような、電流のような感覚が伝う。
「かなた」
もう一度ソフィアの口が最上の名前を呼んだ。
ずざざざざ、と最上はソフィアから距離を取る。
「あ、逃げた。照れない照れない」
「照れてないって」
最上の心臓は、部屋に響かないか心配なくらい脈を打っていた。
「初心なんだから、かわいーなーかなたは!」
「いやいや、ソフィアも顔真っ赤だから。僕は全然、これっぽっちも恥ずかしくないけど、照れてるなんてかわいいなぁ!」
「いや、かなたの方が照れてるよかわいい!」
「絶対ソフィアの方が照れてるソフィアかわいい!」
「うわー声大きくして誤魔化そうとしてるかなたかわいい!」
「こっち見て言ってみろよ。照れてるソフィアかわいい!」
相手を子ども扱いしたくて、かわいいかわいいと連呼する最上とソフィア。
「お前らさぁ、愛情表現ってのはもうちょっとロマンチックにやるもんだぞ。聞いてる俺の方が全身むずかゆくてたまらん」
開いていた窓の外から朧火の声がした。
よくよく考えれば、屋上には朧火と西天がいる。
恥ずかしくて死にそうになった最上とソフィアは各々のベッドでタオルケットを頭から被ったのだった。
翌日には、西天に謝りに行こうと最上は決めていた。さんさんと輝く太陽が窓から差し込んできている。夏の朝にしては涼しく、空気が澄んでいた。
最事務室に行って、最上は西天に向かって深々と頭を下げた。
「ごめんなさい」
「え? ど、どうして最上くんが謝るの?」
「僕は、西天さんに責任を押し付けて、一方的にに怒ってた。ごめんなさい」
「い、いや、いいわ。私の失敗だもの。私こそ、ごめんなさい」
二人して頭のつむじを突き合わせる。それがおかしくって、最上と西天は笑った。
「お互い、同じ失敗をしないように気を付けましょう」
「そうだね。僕ももうちょっと自分の行動に責任を持たないとね」
微笑ましそうに、西天は最上を見ていた。
「なに?」
「いいえ、なんでもないわ」
無事、最上は西天との仲直りを果たせて、胸にのしかかっていた重りが取れた。
晴れ晴れしい気持ちで、廊下に出ると、壁に背中を預ける格好で朧火が立っていた。
「なんだよ、また盗み聞きしてたの?」
「盗み聞きはお互い様だろ」
マフラーの下でにやにやと笑う朧火に、悪口を言いそうになったが、その前に朧火が言葉を発した。
「お前に言っとかないといけないことがある。秋月さんがぜひテレビ局に入ってくれだとよ。電話口から唾が飛んできそうなほどの勢いで頼まれた」
「僕、彼女に気に入られるようなことした覚えはないんだけど」
「あー理由な。『坊やは大きいネタ抱えてるな! 他のテレビ局が勘付く前に私がいただく! 他の誰にも渡さん!』だってよ。お前、Dマンってことばれただろ。秋月さんが持ってる、虚構科学研究所に関する黒いネタからお前の正体を察したんだろ」
「……なんて嫌な理由」
「ま、秋月さんの行動理由なんてそんなもんだ。けど、秋月さんは仲間内の人間に無理やりネタを吐かせるようなことはする人じゃない。お前が話したくないっていうなら、俺の家族ってことだし強要はしないさ。というか、俺もあんまり話してほしくないんだが。で、これを聞いたうえでどうする? 有名プロデューサーの下働きなんてレアな仕事はなかなかできないぞ」
こんな時に動画中毒者であるソフィアの顔が最上の脳裏をよぎった。
(……依存してるってことになるかもしれないけど、今は、いっか)
最上は頷いて、「受けるよ」と言った。
「そうか。なら、秋月さんに言っとくぞ。人使い荒い女だが、せいぜい頑張れ」
「わかった」
「俺からの話は以上だ」
朧火は最上に背を向けるとスタスタと廊下を歩いていく。
最上は――朧火がどれだけ気に食わなくても言わなければならない言葉がある。
「朧火――」
「なんだ?」
「その……悪かったね。迷惑かけてごめん」
「ま、ガキの世話も親の務めだからな。仕方ない」
『ガキ』と言われるのは気に食わないがその通りなので甘んじて受け入れた。
「まぁ、いい経験にはなっただろ。人間は失敗することが大事なんだ」
「父親気取りかよ」
「実際、父親だからな」
「だから僕はお前の子供になった覚えはない」
結局、朧火は西天を一方的に責めた最上を怒らなかった。裏では色々と手を焼いたのだろうが、それについて嫌味を言うこともない。ただマフラーの上からでもわかる、にやにやとした笑みを浮かべて朧火は廊下を歩いて行った。
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