第95話 お別れの日2
微かに窓を鳴らす風の音がする。
俺は意匠を凝らされた、目の前の木造りの扉をじっと眺めていた。
やがてシルエラの寝息が聞こえ始めた。
いつもは寝入りばなによく夜泣きが起きていたが、今日は大丈夫らしい。
「いくか」
決心を固めて腰を持ち上げ、階下に降りた。
従業員の前では、いつものようにシルエラの頼まれ事でもこなしに行く振りをして、外へ出る。
吹きつけた夜風が思ったより強かった。
空は満天の星空である。
「さてと」
ハッキの騎獣スフィアを取り出しておこうとアイテムボックスを開いた時、俺はやっと大事なものを置き忘れてきたのに気付いた。
「……あ、詩織からもらったハンカチ」
アイテムボックスを探すが、やはり持っていない。
シルエラに貸したままだったか?
気に入っていただけに、自分の迂闊さを呪った。
(……戻るか)
ホテルに入ると降りたばかりの階段を駆け上がり、見慣れたシルエラの部屋の扉の前まで来た。
耳を立ててシルエラの寝息を確認した俺は、鍵のかかっていない扉をそっと開けると、室内に滑るように入りこむ。
ハンカチは綺麗に畳まれて机の上に置いてあった。
(……良かった)
掴んで出て行こうとしたその時、すぐそばで声がした。
「……ひとりじゃ怖いの」
シルエラがベッドに入ったまま、こちらを見ていた。
(寝ぼけているのか)
様子を見ていると、シルエラが続ける。
「行かないで……」
折しも出て行こうとしていただけに、タイミングの良い言葉に、足が止まってしまう。
そうしているうちに、シルエラがベッドから起きて、カーテンを開けた。
大きな窓から取り込まれる月明かりが部屋を照らす。
「……え……」
「やっぱり……」
シルエラが呆然としている俺を見てニコッと笑う。
そのまま、たたた、と駆け寄ってきた。
俺に抱きつくと同時に、積んであった足元の本の山がばらばらと崩れた。
シルエラの柔らかさが薄い寝着を通して伝わってくる。
「しょうがないか。アルマー、リンデルの代わりをしようとしてくれただけだもんね」
俯いたままぽつりと言うシルエラ。
(気付いていたのか)
しかもリンデルの代わり、と言う時点で、ずっと俺だとわかっていたということか。
言葉の出ない俺に反して、シルエラが続けた。
「ごめんね。あの腕の傷も、気付かないうちにあたしがつけたんでしょ?」
「……いえ、違いますよ」
うそ、とシルエラが俺の鼻をつんと人差し指で叩いた。
「でもマジ嬉しかったー。あんな喚いているあたしに『ずっと傍にいる』って言ってくれたこと。リンデルじゃ絶対無理だから、すぐにわかっちゃった」
満面の笑みを見せるシルエラ。
昨日のことは、はっきり覚えているようだ。
「リンデル、夜のあたしには絶対近づかないんだ。失敗だったねぇ。知らなかったでしょ?」
シルエラが銀色の髪に指を通しながら、意地悪そうな目をしている。
ふわりと石鹸の香りがした。
「……」
唇は動かしたつもりだった。
だが、そうだったんだ、の一言が出ていなかった。
「……なにそれ」
唐突にシルエラが俯いた。
そしてしばらく無言になると、小さく肩を揺らし始めた。
月に雲がかかったのか、室内がすっと暗くなった。
「何よ……それ」
シルエラが同じ言葉を繰り返していた。
俺の手に、ぽつんと滴が落ちた。
「……知っていて来てくれてたの」
見上げたシルエラが涙を零していた。
シルエラの息が、俺の頬にかかった。
「知らなかった」
「嘘だ。……ずるい。優しすぎるじゃん……。好きになっちゃうよ。そんなことされたら」
潤んだ声で言いながら、シルエラが俺の手を握ってきた。
「誤解です。知りませんでした」
俺はもう一度言い直す。
「器、全然違うね。リンデルと」
続けて唇を重ねようと背伸びするシルエラを、俺は抱き寄せるようにして避けた。
「ねぇ、お願い。あたし……もうだめなの」
耳元で懇願するシルエラの息が、はぁはぁと乱れている。
誘うシルエラに乗じてしまえば、キス以上のことも許してくれるに違いなかった。
だが、俺にそんな気持ちはさらさらない。
「私、弱虫ですよ。一次転職したばかりですし」
気持ちを萎えさせようとした言葉だったが、シルエラは首を横に振った。
「確かにこれで強かったらサイコーだけど、別に弱くたっていい。あたしが守ってあげる」
シルエラが背伸びを繰り返す。
そしてついにシルエラがちゅ、と唇を重ねてきた。
「シルエラさん……」
「ふふ」
スッと離れたシルエラがニコリと笑うと、俺を指さした。
「じゃあ猶予をあげる。次に逢ったら、好きになるからね。その時は覚悟してね」
シルエラが悪戯っぽく笑った。
「今までありがとうアルマー。また逢えたら嬉しい。引き留めてごめんね。もう行っていいよ」
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