第77話 2部エピローグ

「貴様ぁー! 彩葉様にまで!」


 誰かが走り寄る足音。

 

 気づいた時にはすぐ傍に、外套を羽織ったまま雨を滴らせて立つノヴァスがいた。

 振りかぶった頭上にあるのは、抜き身の片手半剣バスタードソード

 

「え?」

 

 状況が理解できない様子の彩葉。

 

「――この痴漢男め!」

 

 ノヴァスが剣を振り下ろす。

 

「ぐっ」

 

 左頬に焼けつくような熱い感触。

 峰打ちのつもりだったようだが、興奮していたのだろう。

 左頬、そして肩を浅く斬られた。

 

「――きゃあ!?」


「たいしたことはない」

 

 俺は即座に言った。


 傷は浅く、手で押さえるまでもなかった。

 

「やめてノヴァス! 私が望んでしたことなのです!」

 

 そこで彩葉が両手を広げて背を向け、俺の前に立ちはだかった。

 

「えっ……? そんな訳……」

 

 彩葉の予想外の動きに、ノヴァスが硬直した。

 

「ノヴァス、本当です。だから剣を下ろしなさい。それ以上はあなたでも許しません」

 

 彩葉の肩当てが小さく震えていた。

 

 その間にも、俺の足元には、赤いものがゆっくりと広がっていた。

 それに気づいてはっとした彩葉が、蒼い顔で俺に振り返る。

 

「じっとしていて」


 唇を震わせながら、すぐ回復魔法ヒールを唱え始めたようだった。

 だが詠唱が繰り返されるごとに、彩葉の顔が血の気を失っていく。

 

「な、なぜ?  回復魔法ヒールが効かないわ……どうしよう!」

 

 あの彩葉が、慌てふためいていた。

 

「ああ、大丈夫。呪いのせいなんだ」

 

「カミュさん! どうしよう……わ、私、治せません! 私のせいなのに!」

 

 彩葉が可憐な顔を歪めて、涙をぽろぽろとこぼし始めた。

 こんなに狼狽する彼女を見たのは、初めてだった。

 

「か、カミュ……?」

 

 息を呑むノヴァス。

 

 俺は平穏のマントを一枚取り出すと、信じられないほど取り乱している彩葉の背にかけてやる。

 

「……あ……」


 驚いた彩葉だったが、マントの効果を受けて、青白かった表情がゆっくりと彩りを取り戻していく。このアイテムは心を落ち着かせる〈平静心サニティ〉の魔法効果があるのだ。

 

「それより彩葉さん済まない、とんだことを」

 

「違うのです! あれは私が……」

 

 流れる血を厭わず、彩葉が俺に抱きついてくる。

 その様子をノヴァスが呆然と眺めながら、ぽつりと言った。

 

「彩葉様、今……こいつのことを、なんと……?」

 

 ノヴァスが瞬きを忘れている。

 彩葉が俺に抱きついたまま、顔だけをノヴァスに向けた。

 

「……ノヴァス。あなたを愛して下さったのは他でもない、【剪断の手】カミュ様ですよ」

 

「えっ……!?」

 

 石の塔の内にガラン、という乾いた金属音が響き渡った。

 ノヴァスが、片手半剣バスタードソードを落としていた。

 

「こ、こいつが……カミュ……?」

 

 ノヴァスが驚きを隠せない。

 

「その通りです。第一回全サーバー統合PVP対人戦大会の覇者でもあります」

 

「……うそだ」


 ノヴァスが凍りついた。


「ノヴァス」

 

 彩葉が静かに言葉を続ける。

 

「この方は単身で私を【女教皇】から守り、とどめを刺してくださいました。今もまた、あなたが馬に潰されるのを身を挺して助けたところです。落ち着いて考えてごらんなさい。この方のどこが、臆病者だというのですか」

 

 彩葉は先程のノヴァスの言葉を引き合いに出して言った。


「………」

 

 ノヴァスが落とした剣を拾うことも忘れ、立ち尽くしている。

 その外套から、ぽたり、ぽたりと雨の滴が落ち、静かに石畳を濡らしていた。

 

「彩葉さん」

 

 俺は自分のことより、これ以上ノヴァスが追い込まれる方が心配だった。

 

「ごめんなさい。内緒に、できなくて……」

 

 彩葉が俺の胸元にしがみつく手に力を込めた。

 

「すみませんが、いろいろあって広まっては困ります。ここだけの秘密にしてください」

 

 俺は彩葉に離れてもらう方法がわからず、とりあえず頭を撫でていた。

 

「もうひとつごめんなさい。私……カミュさんがノヴァスばかり見ているの、悔しくて……ヤキモチで、形だけだなんて嘘を」

 

 彩葉が俺にだけ聞こえるように背伸びして耳元で囁くと、血が流れている頬に構わず小さなキスを残した。

 彩葉の涙が俺の首元に落ちたのがわかった。

 

「私、あれから誰と会っていても、何をしていても、カミュさんのことが頭から離れないのです。まるで病気みたいに」

 

「彩葉さん……」


 俺はここでやっと、キスから始まった彩葉の大人の告白に気付いた。

 

 彩葉は、俺に好感は持ってくれこそすれど、好意を寄せてくれているとは思わなかった。

 内心、積極的な人だとは気付いていたが、ここまでするような人だとも、思っていなかった。

 

「こんな俺にもったいない言葉を」

 

「カミュさんを見てしまったら、もうだめです。やっぱり離れたくない」

 

 彩葉がさらに身体をピッタリと寄せ、潤んだ目で俺を見つめた。

 

 二度とないだろうなと思った。

 こんな素敵な女性に、こんな心に残る告白を受けるなんて。

 

「彩葉さん。申し訳ありません」

 

「………!」

 

 意味は伝わったと思う。

 それを聞いた彩葉が肩をピクンと揺らしたから。

 

 しかし俺の胸に顔を埋めると、イヤイヤをするように首を振り、離れようとしない。


「ノヴァスさん、気にしないでください。私にはちょうどいい薬でした。ではどうぞお元気で」

 

「………」

 

 ノヴァスはまだ、焦点があっていない。

 

「だ、駄目です! せめてその傷の治療を」

 

 引き止める彩葉の頭を、俺はもう一度優しく撫でた。

 

 愛した人が引き止めるのであれば、別れのキスぐらいしてあげれば良いのだろうが、今は愛した人が遠くから置物のように眺めていて、その友人が俺に抱きついて引き止めているという構図。

 

「またすぐお会いできますよ」

 

 俺は四本腕をうまく使って彩葉をそっと身体から引き離す。

 

「お詫びにそのマントは差し上げましょう。ハーピー狩り、お気をつけて。それでは」

 

「い、いや、駄目! 行かないで!」

 

 なおも引き留めようとする彩葉に手を振って、俺は土砂降りの中に身を躍らせた。

 相変わらず目を開けていられないほど、雨粒が打ち付けてくる。

 

 リピドーは可哀想なので一旦しまい、そのまま走り去る。

 

「カミュさん! 私――」

 

 彩葉が最後に何か叫んでいたが、雨音で掻き消え、聞こえなかった。

 

 東の空に、朝日が昇ろうとしている。

 相変わらず真上に雲はない。


 この激しい雨は、一体いつまで続くのだろう。


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