第74話 朝の静かな時間に
朝の静けさが心地よい。
空を見上げると夜明け前の東の空がうっすらと明るくなってきている。
今日は起きた時から、東に小さな入道雲が張り出してきていた。
俺は予定していた死者の森へ再度向かおうとしていた。
以前は亞夢を見つけた時点で撤収したので、他の未踏破エリアを探索するつもりだ。
その後は単身、ピーチメルバ王国の方へ向かう予定でいる。
王国に就職するふりをして紛れ込み、あの復讐相手を血祭りにあげるのも悪くない。
歩いていると土が割れるパリパリとした音がする。
見れば地に一面、霜が降りていた。
開店の早い店を見つけ、二銀貨で携行缶に二つ、シチューを入れてもらう。
湯気を上げて携行缶に注がれるシチューを見ていると、昼が待ち遠しくなった。
街の出口に近づくと、その左側には石造りの塔が立っていた。
すでに思い出深い、
ロバのリピドーを出した。
こいつで行けば、昼前には到着できるだろう。
「――アルマデルさん?」
跨ろうとした折、背後から透き通った声が俺の名前を呼んでいた。
振り返ると、馬に跨った人が二人、こちらを見ていた。
「やっぱりそうですね」
嬉しそうに微笑んでこちらに近づくのは、一昨日会ったばかりの彩葉だった。
いつもの名高い鎧にヘルラビットの毛皮を羽織り、いつぞやの立派な白馬に跨っている。
隣にはもう一人、付き添っている栗毛の馬に乗った人がいた。
はっとして、俺はその隣の人を食い入るように見た。
ノヴァスだった。
今日は兜を被ってはいないものの、B級の
昨日とは違い、いつもの外はねした髪型に戻っているが、彼女の表情は悲しくなるほどに硬かった。
「………」
胸が痛くなった。
昨日の今日で、諦められるはずもない。
俺の視線は声をかけてくれた彩葉を通り越して、ノヴァスに向いている。
一方で俺に気付いたノヴァスは、彩葉の後ろに隠れるように栗色の馬を動かした。
「もう会えないかと思っていました」
彩葉の吐いた息が、白くキラキラと輝いている。
頬に穏やかな笑みを浮かべて、彩葉は白馬に乗ったまま俺に近づいてきた。
名のある白馬に違いなかった。
ノヴァスの馬より一回り大きく、野性的な印象を受ける一方で、どこか気品が漂っている。
その白馬が彩葉を乗せて、俺と、そばにいる矮小なロバに寄り添ってくる。
「あら? どうしたのかしら」
予想通り彩葉の白馬が嘶き、あからさまに嫌悪の情を示している。
「ああ、彩葉さんすみません」
馬は俺たちアンデッドのことを、敏感に感じ取っているのだ。
俺はリピドーを彩葉たちから引き離し、石の塔の外側にある、形ばかりの屋根の付いている場所へ連れて、そこで待たせた。
「彩葉様、こいつを知っているのですか?」
戻ってきた俺を見て、ノヴァスが怪訝そうな表情で訊ねた。
「――アルカナダンジョンで、私を助けてくれた方なのです。アルマデルさん……ってノヴァスも知っているのですか?」
「い、いえ、こんな奴……知っているというほどのものでは、ありませんが」
「フューマントルコまでの旅路でしたかな?」
俺はその話に割り込み、話題を変えようとした。
「はい。しばらくはそちらに留まるつもりなのです。アルマデルさんはどちらに?」
馬上の彩葉は頬にかかる髪を耳にかけながら、俺に漆黒の瞳を向けた。
約束通り、アルマデルと呼んでくれているあたりがさすがだ。
「私はあてのない旅でしてね。とりたてて決めておりません」
白いミニスカートから出た彩葉の素脚が、視界の半分以上を占めている。
「このクズめ、彩葉様と対等に口を利くな!」
同じく馬上から、ノヴァスが俺に向かって怒鳴った。
俺はあいまいな表情でわかった、というふうに頷いたが、彩葉はノヴァスの豹変に当惑したようだった。
「ノヴァス。あなたの事情はわからないけれど、この方は命の恩人なのです。私が頭を下げて当然なのですが」
「ですが」
「ノヴァス」
まだ何か言おうとするノヴァスを彩葉がたしなめて、俺に振り返った。
「カ……いえ、アルマデルさん、もしよろしければ私たちとご同行願えませんか? フューマントルコ連合王国の街を襲っているハーピーを退治しに行くのです」
彩葉は嬉々とした表情を浮かべていた。
だがその背後では、物凄い形相でこちらを睨んでいる人がいる。
なぜだろう。心なしか、栗毛の馬の顔も怖い。
「『乙女の祈り』だけではやや荷が重くて……。お願いできませんか?」
そんなことなど露知らず、彩葉が重ねて頼んでくる。
「……お誘い光栄です。しかし大事な約束がありまして……」
「………」
彩葉の澄んだ表情が翳った。
「……そうですか……アルマデルさんがいれば、巣を攻めることもできそうですのに」
彩葉は心底残念そうな声を上げた。
「先に言っておく。彩葉様がお前を誘うのはただの社交辞令だ。本気にするな」
ノヴァスが割り込み、そのまま話を続ける。
「リンデルとともに、最大火力だったシルエラという魔術師が抜けたから、火力不足を彩葉様は心配されているのだ。お前が来たところで変わらないが」
「そうでしたか」
俺は名前に反応しないよう、短く答えた。
「……ノヴァス。違いますよ。私は本気です」
彩葉が馬をそのままに、身体だけでノヴァスに振り返る。
「彩葉様、こいつだけは絶対お連れしてはだめです。危険です。変質者ですから」
彩葉が、え? という顔をする。
俺は深呼吸して、深々と頭を下げた。
「ノヴァスさん……先日は本当に済まな――」
「――気安く私に声を掛けるな。彩葉様の目掛けがなければ貴様など、とうに叩き斬っている」
話の途中でノヴァスがぴしゃりと言い放つ。
「……ノヴァス、いったいどういうことなのですか?」
彩葉が温度差のあるノヴァスの応対に、とうとう疑問を呈した。
「彩葉様。この男はあろうことか、いきなり私の唇を奪ったのです」
「えっ!?」
彩葉が口元をおさえ、頬を赤くした。
そして俺と、ノヴァスの顔を交互に見る。
彩葉の白馬がヒヒン、と小さく嘶いた。
「本当……なんですか? アルマデルさん」
「事実です」
それを耳にした彩葉の目が小さく宙を泳いだ。
「……の、ノヴァスに恋をしている、ということですか」
珍しく彩葉が噛んでいた。
「――もう、諦めようと思っています」
正直に答えた。
そう。今さら言うまでもない。
俺はノヴァスが好きだった。
「そ、それはつまり、好きだったということですね?」
「良い判断だと誉めてやろう」
彩葉の言葉に、ノヴァスが遮るように口を挟む。
「お前など100年経っても願い下げだ。 大体、私は彩葉様のように強くて勇気のある人物を敬愛しているのだ! お前のように隙をついて唇を奪うような卑怯な奴など、私の相手になるわけがなかろう! このゴミめ!」
(強くて、勇気のある……)
ノヴァスの酷評の中で、思いもかけず好みを知った。
だがもう、そんなことはどうでもいい。
「……だからノヴァスは、カジカさんが好きなのですか?」
彩葉がノヴァスを振り返る。
「……えっ?」
「えっ?」
俺とノヴァスの声が重なった。
それを聞いたノヴァスが言葉に詰まると、急に耳まで赤くした。
「あ、あいつは……強くはないのですが……」
ノヴァスが俯いて言い淀むが、急に顔を上げた。
「あいつは、負けるのが分かっていても退かずに立ち向かいました。自分の尊厳を守るために。私にすら勝てないあの弱虫が、私より強いエブスに挑んだのです」
ノヴァスの頬が少しずつ朱に染まっていく。
「カジカは、引き留めようとした私に『こいつは逃げていい相手だと思うか』と逆に訊ね返してきました。私はそばであの男をずっと見てきた。弱虫だったあいつを。それだけに、あの一言が格好良かった……」
好きとかではなくて、その勇ましい心意気を尊敬しているだけです、と最後にノヴァスがつけ加えると、彩葉が、それは好きってことですよ、と笑った。
「だ、だから! 強くもないし、勇気とは程遠い、こそこそするだけの臆病者を、私が好きになることなど一生ない! 断じてありえない! 今すぐ消えろ!」
ノヴァスがカジカの話で照れたのか、強引にまとめた。
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