第73話 誤解とすれ違い
「だから、どこにあったのだ?」
ノヴァスが笑みを湛えたまま、首を傾げる。
「……うーん、どこで拾ったっけな。無人の村で逃げ込んだ家の、ベッドのところだったかな」
検証する間もなく、嘘を上塗りする。
隣の席の笑い声が、やけに耳についた。
「そうか。ありがとう」
ノヴァスは礼を言うと、疑うことなくスカートのポケットにしまった。
気づいていない。俺は内心ホッとしながら、そのまま静かに笑うだけにした。
それにしても、ハンカチをしまうのが随分遅い。それぐらい、ノヴァスは下を向いていた。
「ノヴァス? どうした?」
だが、顔を上げたノヴァスはいつもと変わらない微笑のまま、なんでもないことのようにその話を始めた。
「――今日、お前に会えて良かったよ」
「今日?」
俺は聞き返した。
「そうだ。お前を探して、もう少しこの街に残るつもりだった。だが元気なのが分かれば、もう用はないな。私も明日、発とう」
「………」
用はない?
言葉の意味が頭に染み込むと、急に寂しさが胸にこみ上げてきた。
ノヴァスはこれからも、俺のことを見ていてくれると勝手に思っていた。
「ちょうど分配も終わって明日、彩葉様たちが旅立つ日だ。やはり私もついていこうと思う。詩織殿もいるし、お前はこの街に留まるのか? しばらくお別れになるな」
何の未練もなく俺との別れを受け入れているノヴァスがいた。
「それは、『乙女の祈り』の活動か」
「まあな。フューマントルコ連合王国に数ヶ月は居残って、悪さしているハーピーの襲来を防ぐ予定だよ。もう大半の『乙女の祈り』は移動済みなのだ。私と彩葉様だけ寄り道した」
「そうか。お別れ、だな……」
「別に気にすることなどないさ。生きていればどこかでまた会える」
ノヴァスは先日、狭い路地で聞いたセリフをもう一度口にした。
「なぁ、ノヴァス」
「ん?」
「もう俺に、用はないよな」
「………」
聞かないでおこうと思った。
だが、言葉は勝手に口をついて出ていた。
あれを見ていなければ、俺もそのまま受け入れていただろう。
だが俺は見て知っていた。
石の塔の上で、俺のために涙を流してくれたノヴァスを。
アルマデルの姿で。
あれは本当に、ただの友人としての涙なのだろうか。
「……当たり前だ。私は『乙女の祈り』の活動を優先する。離れたらもうお前にかまってやる時間はない」
(確かに当たり前だな)
勘違いしていたようだ。
ノヴァスはただ、俺を心配して、姉のように支えてくれていただけなのだ。
「……カジカ?」
ノヴァスが戸惑ったような目でこちらを見ていた。
相当青い顔をしていたのかもしれない。
俺はいつものように、この姿だから、と言い訳しそうになった。
でも、そうじゃない。
姿形以前の問題だ。
心の在り方がどこか、彼女に甘えていた。
デスゲーム化してから、ドワーフと人の国、フューマントルコ連合王国はハーピーの襲来に悩まされていると聞く。
『乙女の祈り』はまた大きな救いの原点となることだろう。
ノヴァスはまた、そこでも大いに貢献するのだろう。
「わかった」
俺は大きく息を吐いた。
好きでもない俺なんかのためにここまで、時間を割いて傍に居てくれた。
それだけで十分だ。この人に感謝しよう。
そうやって考え込んでいると、唐突にノヴァスが顎に人差し指を当て、天井に向かって言った。
「でもさすがにエブスが来なかったとは知らなかったな。じゃ、じゃあ、あの約束は無しでいいことになる」
聞こえるように言うところがノヴァスらしい。
「……そうだな」
ノヴァスの独り言に、俺は頷いた。
あの時はエブスとともに嘲笑われた記憶を引きずっていて、ちょうどいい仕返しになると思っていた。
「えっ?」
ノヴァスが驚く。
頷くとは思っていなかったらしい。
俺はそれ以上言葉に出せず、笑ってみせた。
「……キス……無しで、いいのか?」
「そもそもエブスと戦っていない。ファーストキスをもらう権利がない」
「う、うん……そうか」
ノヴァスが急にあいまいな表情を浮かべて、視線を皿に落とした。
隣の席では、また詩織を呼び寄せるのに成功した男たちが喜悦の入った声を上げている。
だがそう思ったのもつかの間、ノヴァスは思いつめた表情を浮かべて顔を上げた。
「……いや、やっぱり言わせてくれ。実は――」
ノヴァスが持っていたスプーンをかちゃりとテーブルの端に置いた。
「言うな」
「えっ?」
「言わなくていい」
何を言おうとしているのか、わかっていた。
「いや……聞いてくれ。違う話だ」
「言わなくていい」
「……ごめん。謝らなければならないことなのだ!」
遮ったノヴァスの声が案外大きくなり、周りの席から何人かが振り返る。
詩織も足を止めて、こちらを見ていた。
謝らなければならないのは、俺のほうだ。
「それは相手が悪い。ノヴァスのせいじゃない」
「え?」
俺の言葉に、ノヴァスがあからさまに動揺した。
「ど、どうしてそれを……」
「ノヴァス、出よう」
俺は返事を待たずに立ち上がると、厨房の入り口にいた詩織の所へ行った。
詩織は、てきぱきと客の使った皿を厨房に下げている。
「……喧嘩、しちゃった?」
詩織が空気を読んで微笑む。
頭巾からぴょこんと出たポニーテールが揺れた。
俺もノヴァスも、浮かべている表情はさっきまでと違うのだろう。
「そうじゃないんだけどな。別れの挨拶にはなりそうだ」
「うそ……どうしたの」
詩織にはそれだけを言って、俺は毛皮を羽織り、古めかしい音のする扉を開けて外へ出た。
まだまだ夜は冷え込みが強い。
俺の地元ではこういうのをしばれる、と言う。
「……言わなくてもわかったのだな。済まない。赤の他人と……望まずそういうことになってしまった」
ノヴァスが一回り大きくなった俺の背中に、いつもとは違う、か細い声で言った。
向き合っていたとしても、俺は彼女の顔を見ることができなかったと思う。
「本当にただの事故で、ぶつかっただけで……そいつには何の感情もないのだ! 誤解しないでほしい」
今日のノヴァスはやけに、言い訳めいていた。
だが、そんなことまで言わせてしまっていることに、とてつもない罪悪感を感じた。
「謝らなくていい。ノヴァスも気にするな」
振り返らずに手をひらひらさせた。
「………」
俺はそのまま歩く。
「カジカ、ちょっと待て」
繁華街を抜けたあたりでノヴァスが言った。
「ん?」
立ち止まった俺の前に、ノヴァスが立つ。
以前の光景がふいに思い出された。
「おかしいだろう。お前はどうして私を慰めるだけで、気にしない? 私は勝手に約束を破ったのだぞ。お前の欲しがっていたファーストキスはもう無いのだ」
ノヴァスの吐く息がキラキラと白い。
「ファーストキスをくれって言ったのは、俺を嘲笑ったあんたへの仕返しのつもりだった。今はもうあんたへの憎しみはひとつも残ってない。仕返しをする意味もなくなった」
言わないだけだった。
俺の心は、もちろんそれだけじゃなかった。
「ただの、仕返し?」
「そうだ」
「……私と、したくないのか?」
「ああ。もうしたくない」
ノヴァスが、ため息をついた。
「私が他人とキスしたから、怒ってるのだろう」
「……違うさ」
次のキスこそ、俺なんかとではなく、相思相愛の人としてほしいと思うだけだ。
「カジカ。――お前、自分からした約束を反故にするつもりか?」
ノヴァスが俺の鼻先に指をさしながら言う。
その言い方に少し棘を感じた。
それも規律を重んじるこの人ゆえのことと思う。
「俺が間違っていた。キスは好きな者同士でするものだ。その時までとっておいたほうがいい」
「………」
ノヴァスが視線を足元に落とすと、結い上げた髪を振りほどいて頭を振った。
ふわりとボリュームのある金髪が肩に乱れ落ちる。
広がる柑橘の香りが最後かと思うと、急に寂しさがこみ上げた。
「……そんなこと……わかっている……」
俯いたノヴァスが、何か呟いたように聞こえた。
「……なに?」
「………」
しかし、ふいにノヴァスが何か思いついたように顔を上げると、笑みを浮かべた。
「……お前のファーストキスはまだなんだろ?」
やり返しているつもりだろうか。
今度はクスクス笑いながら、俺を見ている。
「当たり前のこと、聞くな」
「どうせずっと、そうなんだろ」
「……また喧嘩でも始めたいのか」
イラッときた様子を見て、ノヴァスが慌てて違う違うと両手を揺らした。
「ああ、済まない。つい、だ。ところでずっとこの街にいるのか?」
「ちょっと離れようと思ってる。サカキハヤテの方とか行ってみようかな。魚とか喰いたい」
ノヴァスが急に真顔になった。
「グラフェリアには行くな。噂では狂った王が民を捉えて拷問しているらしいからな」
グラフェリアはサカキハヤテ皇国の王族が住む城のある城下町である。
「そうか。気をつけるよ」
「さっきも言ったが私も彩葉様とともに、明日発つ。生きていればどこかでまた会えるだろう」
再三聞かれるノヴァスの口癖。
俺に関しては、それは正しくない。
「残念だが、俺とはもう会うこともないだろう」
リンデルを始末すれば、もうこの姿はいらなくなる。
もしどこかの街で次に会うことがあっても、俺はカジカであることはない。
「え……?」
ノヴァスが急に目を見開いた。
「何故だ? 死ぬ病気を抱えているわけでもなかろう?」
「説明は難しい」
リンデルはピーチメルバ王国にいて、サカキハヤテ皇国に工作をしていた。
居場所は掴めている。
あいつを探し、今度は逃さない。どんな手段を使ってでも、殺す。
あの生ぬるい笑みを浮かべた顔を思い出すだけで、胸の下に滾るものが蠢く。
「な、 何だそれは……わ、私に話してみろ。なにか手助けできるかもしれないぞ」
(またそんなことを言う)
胸の下が締め付けられるように痛い。
そもそも『乙女の祈り』に全てを打ち明けられるわけがない。
「……ノヴァス、あのな」
「なんだ」
ノヴァスがいつものように、俺に真摯な表情を向けていた。
「そうやって、気のない男にあんまり入れ込むな」
「私の勝手だろう」
「そうなんだけどな」
俺みたいに誤解する奴だって、いると思うんだ。
ノヴァスがそうする理由など、これだけ一緒にいてもわからなかった。
きっと俺には年単位でわからないのだろう。
「俺に関しては、もう十分してもらったさ。それじゃあお別れだ。元気でな」
ふい、と背を向けた。
「ま、待て!」
「ん?」
首だけを向ける。
「お、お前は本当に訳がわからない奴だ! 約束していたかと思えば、自分から反故にするし、もう会えないとか言うし」
ノヴァスの大きな声に、通りを歩いていた者たちがびっくりして振り返る。
「……わかった。じゃあ代わりに別な約束をしよう」
俺は振り返って、含み笑いをする。
「はぁ? また意味のわからないことを言うつもりか」
ノヴァスが眉をひそめた。
それでも、少しだけ笑みを浮かべたように見えた。
「今度はそんな非常識なことじゃないさ」
俺は肩をすくめて小さく笑った。
「次のキスは心から愛した相手としろ。そして、幸せになってくれ」
「………」
ノヴァスが唇を噛みしめる。
それが小さく震えたように見えた。
「聞こえたか? ノヴァス」
「……いいだろう。幸せになってやるさ」
ノヴァスは視線を足元に落とすと、短く、それだけを言った。
約束してくれたノヴァスに、本当は顔が歪んでしまうほど胸が痛んでいた。
ノヴァスがそういう人と結ばれているところなど、絶対に想像したくなかったから。
だから、顔が見られないように背を向けた。
「元気でな」
「それ以上太るなよ」
「………」
ノヴァスがわざと言い返させるようなことを言う。
だが俺はもう、答えなかった。
「……おい、返事をしろカジカ」
「………」
「まさかこれでお別れのつもりか」
ノヴァスの表情がどんなだったかは、もう知らない。
「これでお別れかと聞いているのだ! カジカ!」
「………」
ノヴァスの怒声にも俺は、振り返らなかった。
「おいカジカ! 次に私と会うまで誰ともキスするなよ! わかったか!」
「………」
俺は小さく笑った。
最後に何を意味の分からないことを。
言われなくても、カジカはキスなどできずに消えるのに。
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