第36話 ノヴァスの謝罪



「じゃあ出るぜ」


「うん」


 支払いを終え、カジカと詩織はそっと店を出ようとした。

 だが立ち上がった巨体は当然のように、他人の目に留まる。


「……か、カジカさん?」


「お前! 生きていたのか!」


 驚愕の色に染まった彩葉とノヴァスの声が店内に響いた。


 カジカと呼ばれた男はそれを無視し、詩織という名の少女を連れ、店の出口へと急ぐ。


「待て!」


 それを目にして真っ先に動いたのは、ノヴァスだった。


「おや、いけない人だ」


 しかし立ち上がろうとしたノヴァスの左手を、隣に座っていた男がぐいと掴んだ。


「僕と言う男がありながら、他の男のもとへ行こうなんて」


 そのまま抱き寄せようと、男は自分の方へ引っ張る。

 男は酒に酔い、すこぶる調子に乗っていた。

 

 次の瞬間、パーンと乾いた音。


 ノヴァスが掴まれた手で、その男の横顔を平手打ちしたのだった。

 打たれた男は軽く吹き飛び、椅子を倒して後ろに倒れ込んだ。


「な、なんで……?」


 男はすぐに立ち上がったものの、頬をおさえたまま呆然としている。


 ノヴァスは言葉も返さずにその男に背を向けると、カジカに向かって真っ直ぐ歩く。


 脚で椅子をひっかけ、玉つくように揺れたテーブルから空いていた皿が落ちた。

 明らかに割れたとわかる陶器の音が響いても、ノヴァスはカジカから目を離さなかった。


「……なんだあのでかいの?」


「おい……あいつ初期村で乞食していた白豚じゃねぇ?」


「つーか、なんでノヴァスさんがそっち行くんだよ」


 口説いていた男たちが不思議そうにノヴァスを見ている。


「カジカ……」


 ノヴァスはカジカの前まで来ると、ふっと目元を緩ませた。


「弱いから死んだかと思っていたぞ」


「………」


 ノヴァスの第一声に詩織は顔を強張らせ、カジカは呆れた表情になる。


「だがちょうどよかった。お前に話したいことが……え?」


 二人はノヴァスを無視し、店から出ていった。


「カジカ!」


 ノヴァスは慌てて後を追いかけようと扉に手をかける。


「あ、開かない!?」


 しかし扉は音を立てるのみで開かなかった。

 鍵がかかっていないにもかかわらず。


 このわずかな時間で、詩織が細工したのである。

 鍵穴に小さな金属を挟むことで 十五秒間扉が開かなくなる【一時施錠テンポラリーロック】であった。


 ドンドンと扉を叩く音を背に、カジカと詩織は歩き出した。


「今夜は寒いな」


「ええ」


 二人は毛皮を羽織り、雑踏に紛れたが。


「隠れられてないわ」


「やっぱりか」


「カジカ! ずっと探していたんだ!」


 苦笑する二人の背後から、予想していた通りにノヴァスの力のこもった声が響く。


「………」


 カジカにはその言葉の意味など届いていなかった。


 唯一届いたのは、かつて自分を高笑いした声の主だということだけだった。


「待ってくれ!」


 ノヴァスは人と派手にぶつかりながらも、なりふり構わずに駆け寄る。


「カジカ、聞いてくれ!」


 カジカの前に来たノヴァスは、黒のノースリーブからすらりと出た両腕を大きく横に広げ、とうせんぼした。


 ノヴァスは何も羽織っていなかった。


「聞いてくれ……私の話を」

 

 ノヴァスの吐息は白く煌めいている。


 面白い痴話喧嘩だと思ったのか、人垣がカジカたちを取り囲み始めた。


「――友達か何かのつもりか?」


 カジカが吐き捨てた。


「え……?」


 ノヴァスは戸惑いを隠せなくなる。


「た、ただ、お前に謝りたかったのだ。それに渡したいものも……」


 「関心がない。消えろ」


 カジカはノヴァスの横を通り過ぎる。


「か、カジカ……? 怒っているのだな?」


 あられもない返答に、ノヴァスはひどく狼狽していた。


 カジカの後ろを、詩織が無言でついていく。


「待ってくれ」


 ノヴァスがカジカの右腕を掴む。

 カジカはその白い腕を不快そうに見下ろした。


 その時だった。


「カジカさん! お願い、ノヴァスの言葉を聞いてあげて」


 その声に周りがざわりとどよめいた。


 声を発したのは彩葉だった。

 ノヴァスに遅れてやって来ていたのである。


「………」


「カジカさん、私からもお願いします」


「………」


 カジカは小さく舌打ちすると、ゆっくりとノヴァスの方に向き直った。


「……これっきりだ」


「感謝する」


 やっと会話が成り立つと知り、ノヴァスは安堵した表情を浮かべた。


「カジカ」


 ノヴァスは居住まいを正すと、深く頭を下げた。


「ずっと後悔していたんだ。お前のこと、笑ったりして本当に済まなかった」


「………」


 カジカは無言のまま、その深く頭を下げた姿を眺めている。


「許してほしい」


 ノヴァスは頭を下げたまま繰り返した。


「あの時は、さすがにお前にまで笑われるとは思わなかった」


 カジカの言葉に、ノヴァスはハッとして顔を上げる。


「確かにショックだったことは認めよう。あの時の俺はお前みたいな奴ですら、頼らねばならなかったからな」


「……カジカ……」


「だが気にすることはない。俺はもうお前を必要としていない」


「……えっ」


 ノヴァスが呆然とする。


「話は終わりだ――」


「――ま、待て、行くな」


 歩き出したカジカの腕を、ノヴァスが再び掴む。


「カジカ。気が済むまで、皆の前で私を打て」


 そう言うと、ノヴァスはカジカの右手をそっと両手で握り、自分のほおに添えた。


 カジカが、目を細めた。


「私が悪かった。本当に、済まなかった。さあ……好きにやるがいい。どうなっても恨まないと約束しよう」


 ノヴァスが穏やかに微笑んだ。


「……お、おい、ノヴァスさんが白豚野郎にあんなことさせてるぜ!」


「あの触らせない女が自分から……どういうことだよ、おい」


 まわりがざわめく。


「毒気を抜くようなことをするな」


 カジカが舌打ちし、ノヴァスの頬から手を離し、横を向く。

 その顔にはわずかに戸惑いが浮かんでいる。


「いつも人を傷つけてから気づくのだ」


 ノヴァスは回って、カジカの前に再び立つと、もう一度カジカの大きな手を両手で握った。


「でもこれほどに後悔したことはなかった。どうか、許して――」


 だがノヴァスはそれ以上続けることができなかった。

 

「――お止めになってくださらない? それ」


 カジカの手を握っていたノヴァスの両手を、ぴしゃりと払った者がいたからである。

 詩織だった。

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