第29話 蛇の襲来



「はーい! おまたせですよ! 水牛のリブロースステーキです。熱いうちに召し上がってくださいね」


「ありがとうお嬢さん」


 心底、詩織に感謝した。

 実はリブロースは、俺が一番好きな肉部位だった。

 脂肪とのバランスが自分好みで、思いもかけぬ幸運に頬が緩んだ。


 料理から湯気が上がっている。

 からからに乾いていた口に、唾液が上がってくる。


 フォークで突き刺し、夢中で口に運ぶ。


「うまい……」


 やわらかい肉から、肉汁があふれる。

 そしてこの食欲をそそる香りは……。


(ローズマリーか)


 ドイツあたりで肉料理のスパイスとして用いられていると聞いたことがある。

 たしか抗菌作用もあって腐敗防止に好ましいんだったな。


 俺は肉を切り分けると、どんどん口の中に放り込んで頬張った。


 詩織はさらに卵料理にサラダ、ライ麦パン、最後に「サービスです」と言いながら大盛りのシチューを重そうにしながら運んで来てくれた。


 腹が減っているという俺の言葉を覚えていたのだろう。

 詩織は初対面でもこういう配慮を自然にできる人だった。


「あー食った」


 腹をさすって満足していると、クスクスと笑う詩織の楽しそうな声が聞こえてきた。


 眺めていると、詩織は人気者だった。

 ずいぶん忙しそうにしているのは、客が詩織を狙って呼び止めるからだ。

 もう一人のバイトの女性は仕事がなく、苦虫を噛み潰したような顔で、ただ爪の垢を落としている。


 詩織が厨房に引っ込んでしまうと、客が詩織を探してソワソワしだす。

 店には単独客が多く、中にはあからさまに詩織の尻に手を伸ばす輩もいた。


 会ってみると、キラキラ輝いて見える詩織。


 なんだか住んでいる世界がまるで違う気がした。

 そろそろ詩織に声をかけようと待つが、今度は詩織がなかなか厨房から出てこない。


(やれやれ)


 声をかけそびれた、と窓の外を眺めていると、ふと違和感を感じた。


(気のせいだろうか)


 俺は辺りを見渡し、違和感の正体を探した。

 一見見ただけでは、少々風が強い程度でいつもと変りない。


 秋風にざわめく木々。

 それを見て、俺はふと、音が足りないのだと気づいた。


 そう、夕方にはいつもうるさいくらいに聞こえる小鳥たちの鳴き声が、今日はない。


 嫌な予感がして見ていると、ぽつり、ぽつりと人が窓の前を通っていく。その表情は一様に歪んでいる。


 そして気づいた。

 西側に向かう人が一人もいないことに。


「何か、起きてるぞ」


 無意識に口走っていた。

 ライ麦酒を掴んだまま、俺は立ち上がっていた。


 直後、外から悲鳴のようなものも聞こえ始めた。

 厨房から出てきた詩織も、湯気の上がる料理を持ったまま足を止め、厳しい顔をしている。


「なんだぁ?」


 隣のテーブルにいた男が不思議そうな顔で立ち上がる。

 その時、入り口の木扉が壊れるかというほど乱暴に開けられた。


 開いた先には、二人の冒険者風の男女が厳しい表情で立っていた。


「おい、西からまた蛇の大群が来たぞ!」


「みんな逃げて! 蛇女もいるわ!」


 それだけを言って二人は急ぎ足で去っていった。


 それとほぼ同時に、ガシャン、という皿の落ちる音が響く。

 俺のそばのテーブルが倒され、そこにあった料理が一斉にぶちまけられたのだ。


「――じょ、冗談じゃねえ!」


 ぶちまけた男は料金も払わず店の外に出て行った。

 蛇がこのあたりの街を襲う話は聞いていたが、また同じようなことが起きたのだろうか。


「ツケでいいからすぐ逃げてくれ!」


 店主らしい男が厨房から出てきて叫ぶと、陽気に酔っ払っていた男たちも血相を変えて出て行った。


 そのまま店主たちもいずこかへと避難したようだ。


「………」


 フロアに残った客は、のそのそと扉へ向かう俺が一人。

 それを、詩織が見ている。


「……あなた、逃げないの?」


 詩織が、俺の背中に問いかける。

 いや、一応逃げているのだが。


「気にしないでくれ」

 

「お客さん、一緒にここの地下へ行きましょう。そこは食糧庫で固い扉があるからなんとかなると思う。前も大丈夫だったわ」

 

 そう言って詩織が駆け寄ると、俺の手を取って引いた。

 詩織の手は、温かかった。


「………」


 たったそれだけで、うかつにも、目頭が熱くなった。


 その温かさが、心にまで沁み込んできた。

 こんなふうに他人に触れられるなど、いつ以来だろう。


「……相変わらずだな」


 俺は振り返ることもできず、ただそれだけを言った。

 そして気づかれぬよう、反対の手で目元を拭う。


「え?」


「いや、ありがとう。そうさせてもらおうかな」


 そして詩織のほっそりとした手を握り返し、立ち上がった。

 

 何重にも殻を作って防衛していた心が、やっと力を緩めた気がした。

 この人なら、大丈夫だ。


 歩き出した俺の鈍足ぶりに詩織は驚いたようだったが、面倒なそぶりも見せず、むしろ歩きやすいようにテーブルをよけてくれたりした。


 地下へ降りる木の梯子は使い古されていて壊す自信があったので、二メートル近い高さをドスンと飛び降りた。

 もちろんダメージを受けたが、永久的なものではなかった。


 着地した俺を見て、詩織は無邪気にあははと笑っていた。

 同じ笑われるのでも、どうして詩織のは全く嫌味に感じないのだろう。


 下で待っていると、詩織が片手に燭台を持ちながら、トントントン、と梯子を降りてくる。

 茶色のワンピースから白い素足が太ももの裏まで覗かせていて、俺はすぐに目を逸らした。


「ここです」


 詩織は重い扉をうっすらと開けると、すでに中に人がいた。

 店主らしいひととその妻らしい人、子供二人。一人、離れて立っている中年の女性。


「詩織ちゃん! よかった」


 店主の妻が裏返った声を上げ、駆け寄ってくる。

 詩織がそれに笑顔で返していた、その時だった。


「――詩織!」


 俺はつい、その名を叫んでいた。

 階段の上から、どろりとした透明なものがぼたり、ぼたりと降ってきたのだ。

 詩織も、はっとする。


「閉めましょう!」


「――ああ! 急げ!」


  二人がかりで重い扉を閉めにかかる。


 閉じていく扉の隙間に、粘液を垂らしながらズルズルと這い降りてくる蛸足が幾本も見えた。


「おおお!」


 重い扉が恨めしい。

 俺は力を振り絞って、敵が来る前になんとか扉を閉めきった。

 閂をして大きく安堵の溜息をつく。


 その直後、扉に体当たりをするような大きな鈍い音が数回したが、すぐに何事もなかったように静かになった。


「あぁーあぶなかったぁ」


 そう言う詩織だったが、俺よりは余裕がありそうだ。


「やれやれ」


 汗を拭いて周りを見る。

 俺と詩織を合わせると7人がこの食糧庫に入ったことになる。


「あいつ……スキュラじゃないといいが」


 俺は詩織の背中に言った。

 詩織は驚いたようにこちらを見たが、厳しい眼をして頷いた。


「そうね……」


 スキュラはモンスターレベルが70で上半身の女性が古代語魔法を使い、下半身の6匹の大蛇が別々に物理攻撃を仕掛けてくる。


 さらに10本ものタコのような長い足。

 これが【拘束】攻撃を追加で仕掛けてくる厄介な相手だ。


 この異常な攻撃回数ゆえに、レベル70の冒険者6人でかかっても、全滅すらありえる相手だ。


(静かすぎる)

 

 扉の外は先ほどドンドンと鈍い音がしたきり、静かになっていた。


 さっきから扉の外側で部分的に虫やネズミの走る音がしない。

 たぶんアビリティ【索敵】を持つ詩織にも、それがわかっていたと思う。


 あの魔物はおそらく、扉に張り付くようにして、開くのを待っている。


「大丈夫よ。あたし実は四本腕の【剪断の手】と友達なの。連絡しておいたから彼がきっと助けに来てくれるよ」

 

 詩織はみんなに聞こえるように明るい声で言った。


 プレイヤー同士ではアイテム「以心伝心の石」を使って囁きを入れることができる。

 彼女が言った『連絡』とは、それだろう。

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