第19話 夕焼け
翌日。
今日は一日戴冠式の準備だ。
朝からメイドも騎士も大忙しで、その中心には俺とお母様が居る。
「ナナリー様。お料理の確認をお願いします」
「殿下。こちらは明日の式の参列者一覧です。今一度ご確認下さい」
「ナナリー様。戴冠式の式場の準備が
「殿下。騎士の配置の確認をお願いします」
こういった感じでとても忙しい。
というのも、この式の総責任者はお母様なのだ。メイドや役人の中から責任者を選出してその人に任せてもいいと思うのだが、お母様は式の運営に携わりたいらしい。
「お母様。やはり急な式の準備は大変ですね」
「そうね。ライオノールのときも忙しかったわね。でも、これは仕方のないことだから」
「そうですか」
「それに、こうしてランスと一緒に仕事をしているの楽しいわ」
「そうですね。俺もこの時間がとても楽しいです」
けれど、忙しいのは確かだ。譲位の制度はこの国にないのだろうか。
前世でも、天皇が上皇になるなんて話もあったからな。特に、中世はそういうことが多かった。後鳥羽上皇や後白河上皇といった歴史上の人物はとても有名だし、最近では数百年ぶりに上皇に即位されたという報道もあったくらいだ。この国にも譲位の制度を作ってもいいと思う。
後鳥羽天皇や後白河天皇が上皇に即位し院政を行ったと小学生の頃に学んだが、「そこまでして国政に携わりたいのなら退位する必要がないのでは?」というのが最初に抱いた疑問だった。まぁ、後鳥羽上皇も後白河上皇も政治的駆け引きの末に上皇に即位することになったので別にいいが。
話が少し
忙しく仕事しているといつの間にか12時を過ぎていた。
「ランス。そろそろお昼にしましょう」
「そうですね、お母様」
働いているメイドや騎士に昼食を摂りに行くことを知らせ、俺とお母様はソフィアを呼んで食卓へ向かった。
* * *
「お母様。明日の準備はどのくらい終えたのですか?」
「かなり終わったわよ。もう2,3時間もすれば終わるはずよ」
「そうなのですか?! お疲れ様です」
「ありがとう」
「お兄様もお疲れ様です」
「ありがとう、ソフィア」
そっか。あと2,3時間もすれば終わるのか。作業に集中するあまりいつ終わるのか考えていなかった。
「それなら、遅くても5時くらいにはソフィアと空を飛べるね」
「お兄様。空を飛べるのですか?!」
「うん。昨日約束したからね」
「ありがとうございます! 5時までにやるべきことを終わらせておきますね」
「ソフィアも頑張ってね」
「はい! お母様も一緒にどうですか?!」
「そうね。昨日もランスと一緒に空を飛べたけど、今日は3人で飛んでみたいわね。一緒に訓練場に行きましょう」
「訓練場もいいのですが、今日は晴れているので外で飛んでみませんか?」
「ソフィアの考えもいいわね。じゃあ、5時に私とランスでソフィアを迎えに行くわね」
「わかりました」
* * *
昼食の後は引き続き準備に取り掛かり、5時前には準備が完了した。
というわけで、俺は今お母様と一緒にソフィアを迎えに行っている。
「そういえば、ランスの魔力ってどのくらいあるの?」
「そうですね。おそらくこの国で一番多くの魔力を持っていると思いますよ」
「サラよりも?」
「はい」
「リカエルよりも?」
「はい」
「ガリルよりも?」
「はい」
リカエルは王国魔法師団団長で、ガリルは王国魔術師団団長である。
我が国には近衛騎士団、近衛魔法師団、王国騎士団、王国魔法師団、王国魔術師団があり、近衛騎士団と近衛魔法師団の主な業務は城の警備と王族の護衛、残りの3つの団の主な業務は王国内の治安維持で、有事の際は戦場に赴くことである。近衛魔術師団が無い理由は護衛目的での魔術師の勝手が悪いからである。魔術師が術を行使するには陣が描かれたスクロールが必要で、それが無ければ丸腰になってしまうからである。魔法師は詠唱さえ唱えれば魔法を行使できるので、相対的に護衛に向いているのである。
まぁ、魔法師も
少し話が
「すごいわ! ランス」
「ありがとうございます」
「ランスはこの国の人相手に負けなしだね!」
「そんなことないですよ。剣術・体術の腕はまだまだ低いので、騎士には歯が立たないでしょう」
「その剣術や体術も上達しているのよね?」
「講師にそのように褒められてはいますが、剣を振るようになったのはつい最近のことですので、剣の腕はまだまだです。体術もまだまだ未熟で、授業中講師に何度も足払いされて転んでいます」
「でも、何度も転んでも練習を続けるランスが
「ありがとうございます。お母様」
こうしてお母様と一緒に廊下を歩き、角を曲がるとソフィアの部屋が見えた。
しかし、部屋の前にはソフィアが立っていたのだ。
「お母様、お兄様。遅いです!」
「ごめんね、ソフィア。ランスとの話がつい盛り上がってしまったの」
「ひどいです! 私を待たせておきながら話に花を咲かせるなんて!」
「悪かったって。ソフィアのお願い聞いてあげるから許してちょうだい。ね?」
「それじゃあ、今夜一緒に寝てください!」
えっ!
添い寝を要求するの?
ソフィアは妹なので欲情することはないのだが、犯罪臭がしてならない。
「そっ、それはちょっと……」
「何でも聞いてくれるのではなかったのですか?」
「わかったよ」
「お母様も一緒に寝てくれませんか?」
「いいわよ。今日は3人で寝ましょう。3人で寝るのは初めてのことかしら?」
「そうですよ。これまでは私とお父様とお母様の3人で寝ることやお兄様とお父様とお母様の3人で寝ることはあっても、私とお母様とお兄様の3人で寝ることはありませんでしたね」
お母様とソフィアが嬉しそうに微笑んでいるのを見ると、添い寝を断るのが馬鹿馬鹿しく思えてきた。
前世では、一人部屋を与えられてからは添い寝なんてすることはなかった。あるとするなら、旅館へ行った時くらいで、小学校低学年の頃は母さんにくっついて寝ていたりしていたが、それ以降は気恥ずかしさのあまりくっついて寝ることはなかった。
中身はおっさんの俺がソフィアやお母様と一緒に寝てしまっていいのだろうかと悩んでいたが、2人が喜んでくれるのなら一緒に寝たいと思った。
そういうわけで、俺は夜を楽しみにすることにしたのだ。
「ソフィアはさっきまで何をしていたの?」
「文学の授業の予習をしておりました」
「そうなのか。何の本を読んでいたの?」
「『小さな王子様』を読んでいました」
『小さな王子様』は道に迷った主人公と突如この世界に放り出された王子の2人のお話。サン=テグジュペリの『星の王子様』に似ており、フランス語のタイトルが『Le Petit Prince(小さな王子様)』であることを考えると何かしらの因果関係を感じてしまう。しかし、登場人物がこの世界ならではの生き物であるので断定はできかねるのだ。
「あれは俺のお気に入りの話なんだ。特に、王子がファックスに会う場面が好きだな」
「私もその場面がとても好きです。大切なものがどういったものなのか考え直させられるとても好きな場面です」
ファックスとは狐に似た動物だ。「狐ならfox(フォックス)だろ!」というのが最初にファックスを見た時の感想だ。
「ランスもソフィアも、そういう話は歩きながらしましょう。早く外に向かわないと日が暮れてしまいますよ」
ソフィアともっと語り合いたかったが、日が暮れるということで中庭に向かうことにしたのだ。
「お母様。今日は昨日よりも高く飛びたいですか?」
「
「それなら、一度着替えた方がいいと思います。スカートですと大変でしょうし……」
「そうね。ランスの言うとおりだわ。私とソフィアは着替えてくるわね」
そう言って、お母様とソフィアは着替えに行ったのだった。
* * *
お母様とソフィアが着替えを終えると一緒に7階にある中庭に向かった。
お母様とソフィアは普段スカートを身につけているため、パンツ姿は新鮮だ。
お母様はピンクを基調とした上下に、ところどころ白の布地が使われている。ピンクのトータルコーディネートが似合う女性はなかなかいないと思うのだが、お母様はその服を着こなしているのだ。お母様の高スペックっぷりに今一度驚いた。
ソフィアは白を基調とした上着と黒のパンツを身につけている。上着にはところどころ青の布地が使われており、ソフィアにとても似合っている。
さらに、お母様もソフィアも後髪を一つに
中庭に着くとそこには騎士が2人いただけで、他には誰もいなかった。
中庭には沢山の花々が植えられており、中心には何もない。普段はそこにテーブルが置かれており、家族でお茶を嗜みながら談笑している。今日は中庭で空を飛ぶということで撤去してくれたようだ。
「お兄様! 早く空を飛びましょう!」
「わかったよ。けれど、俺ができるのはソフィアを浮かせるだけで、自由に空を飛ぶことはできないよ」
「そうなのですか?!」
ソフィアは驚いた顔をしたが、すぐに何かを考える表情に変わった。
「お兄様が一人で空を飛ぶとき、自由に飛ぶことができるのですか?」
「あぁ。できるとも」
「それなら、私はお兄様に
「その方法があったか! それじゃあ、ソフィア。掴まって」
そう言うと、ソフィアは俺に正面から抱き着いた。
「これじゃあ危ないね。俺がソフィアを抱えよう」
「まっ、待ってください……」
ソフィアが拒絶するが、俺はソフィアの言うことを無視して体の前で抱きかかえた。
「おっ、お兄様。恥ずかしいです……」
「けど、こうでないとソフィアが危ないぞ」
「そうですけど……」
ソフィアは恥ずかしがりながらも、まんざらでもない表情をしている。
きっと、お姫様抱っこは初めてだろう。恥ずかしがるソフィアを近くで見ることができて得した気分だ。
「それじゃあ、飛ぶぞ。首に掴まって」
俺は詠唱を唱え始めた。
『
俺は早馬よりも少し遅い速さで上昇した。
「お兄様! すごいです!」
ソフィアは無邪気にはしゃいでいる。
5歳の子供が楽しそうにはしゃぐ様子はいつ見ても心を
前世でも、会社帰りに保育園の前を通ると、子供たちが外の遊具で楽しそうにはしゃぎながら遊んでおり、それを見ると心が和み、辛い日常を少しの間忘れることができた。保育園の前で園児を見つめながら立っていると不審者と思われかねないので数秒だけ見るとすぐに立ち去ることにしていたのだが、この時間に俺がどれだけ救われたのか言葉では言い尽くせない。
城の中庭から飛び出し、白の周りを1周した。西から沈む夕陽が強く差しており、王都がレモンティーのようにきれいなオレンジ色に染まっている。
「とても綺麗ですね」
「あぁ」
俺の私室は東向きのため、夕陽を見るのは初めてのことだ。あまりの美しさに言葉を失ってしまった。
この王国はこんなにも綺麗だったのか。これから何が起こるか分からないけど、何としてでもこの王国を守ろうと思った。
1分ほど夕焼けを見ると中庭に戻って行った。
「お母様。とてもきれいな夕陽を見ることができました!」
「そうなの? 私も見たかったわ。私もソフィアと同じように抱き上げてくれるかしら?」
「そっ、それはちょっと……」
ソフィアは5歳なので抱き上げることができたが、8歳の俺がお母様を抱き上げることができるとは思えない。無属性の身体強化魔法を使えばいいと思うかもしれないが、魔法の並列行使は詠唱が必要なためできないのだ。
それなら、身体強化の魔術を使った後に重力魔法を使えばいいだろと思うかもしれないが、それも無理な話だ。魔術は行使するには陣に少量の魔力を流し込めばいいのだが、行使している最中は魔法と同じように魔力操作をしなければならないのだ。これまで魔法と魔術を同時に行使できたものはおらず、俺も試してみたのだができなかったのだ。
「そうよね。ランスはまだ8歳だもの。私を抱き上げるのは難しいよね」
そう言うと、お母様は落ち込んだ様子を見せたが、すぐに顔が明るくなった。
「それなら、私がランスを抱きかかえるから、ランスが私を空に飛ばしてちょうだい」
「おっ、お母様。それは……」
すると、お母様は有無を言わさず俺を抱きかかえた。
8歳にもなってお母様にお姫様抱っこされるなんて、恥ずかしすぎる。
「あら、ランスったら照れちゃって」
「
「わかったわ。それじゃあ、私を空に飛ばして」
「わかりました」
俺は詠唱を始めた。
『
するとお母様の体が宙に浮き、静止した。
「それじゃあ、中庭の外に連れて行ってくれるかしら?」
「わかりました」
俺はソフィアの時より慎重に魔力操作をした。
というのも、空を飛ばしているのはお母様なのだ。魔力の制御を誤ってお母様が変化に対応しきれず地に落ちてしまう可能性を考慮しなければならない。
そいういうわけで、ソフィアの時よりゆっくりとした速さで上昇している。
中庭を抜け、王都を見渡した。
しかし、そこに夕陽はなく、
「なんて綺麗なのかしら」
「そうですね。山の向こうから溢れ出る陽光がとても美しいです」
ソフィアと見た夕陽も綺麗だったが、この誰そ彼時の空もとても綺麗だった。
太陽が山に隠れたのか、それとも既に地平線に隠れてしまったのかは分からないが、山の向こうから漏れ出すオレンジ色の光がとても美しい。
王都にまでその陽光はなかなか届いていないが、お店や家庭から光が漏れており、そこには夜の景色が広がり始めていた。
お母様と1分ほど綺麗な空と王都を眺めると、中庭に降り立った。
「お母様。夕陽を見ることはできましたか?」
「いいえ。残念ながら夕陽を見ることはできなかったわ。けれど、誰そ彼時の空を見ることができたわ。山の向こうから溢れんばかりの光が漏れ出ていて、とても綺麗だったわ」
「そうなのですか?! 私も見たかったです」
戴冠式前日に綺麗な夕焼けを見るのはとても良かった。これまでお父様が頑張って作ってこられたこの国の日没を眺め、お父様の治世が終わってしまったのだと実感することができた。明日からは俺がこの国を治めなければならない。そう考えると、より一層身が引き締まった。
その後3人で夕食を摂ったのだった。
* * *
夕食の後、俺とソフィアはお母様に連れられ、お母様の私室に入った。
「今日はランスの王太子最後の日ね」
「お兄様は明日から国王になってしまいますものね」
「それはそうですけど、改めてそのようなことを言わないで下さい。緊張で眠れなくなります」
明日から国王になってしまうのか。国王が務まるのか心配になってきた。
「大丈夫ですよ。いつも私が側にいますから」
「そうですよ。私はずっとお兄様の側にいます」
お母様に頭を撫でられ、ソフィアには手を握ってもらった。
「ありがとうございます。お母様、ソフィア」
「ランスの肩の荷が下りたのを見て安心したわ。さぁ、今日は早く寝ましょう。明日は朝から忙しいのだから」
そうして3人で川の字になって寝たのだった。
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