まかない飯は栄養が偏るので注意
この世界に来たのは、三ヶ月ほど前のことだった。
私は当時大学生で、手応えのない就職活動に苦しんでいた。
履歴書は何回書いても綺麗にできないし、面接に行けば五回に三回は圧迫。
お祈りメールが届くたび、自分にはなんの価値もないのだと肩を落とした。
つまり、かなり追い詰められていたのだ。
合計三十社目の面接で緊張する様子を面接官に鼻で笑われたあと、今回も駄目だったことを悟り落ち込むより先に苛立ちを覚えた時。
面接室の中で、目を開けてられないほどの風が吹いた。
そして次の瞬間にはもう、知らない場所にいたのだ。
面接用のパイプ椅子と共に。
「えっ?」
思わず声が出た。
先ほどの面接室とは全く違う、強いていえば西洋っぽい石造りの大部屋。
全体的にグレーと茶色の間の寒々しい光景の中に、私はポツンと座っていた。
事態を飲み込めないまま座っていると、しばらくして見知らぬ男がやってきて言ったのだ。
「わ、今回は人間か。リクスーだし、韓国人?日本人?日本語はわかってるんだよね、よしよし。すいませーん!今回人間ですーー!」
すいません以降は、当時聞き取れなかった。
私が知っている言語に、異世界公用言語なんてものはなかったからだ。
その後最初の男以外の人間もドヤドヤとやって来て、別室へと通された。
十年ほど前にこの世界に来たという男から、ここが異世界だということを説明され、お決まりのようにドッキリを疑い、あたり周辺を散歩したのちに魔術師から簡単な魔法を見せてもらい、私はとうとう異世界にいることを認めた。
どうやらこの世界には割と頻繁に、地球から人がやってくるらしい。
なんの保証も説明もないまま放置すると反社会勢力になってしまう例がそれなりに合ったようで、今は出現ポイントを政府が管理しているそうだ。
異世界だから当然身寄りがない。
頼るあてのない私は、最初に会った日本人男性佐藤氏を窓口として王都から少し離れた、自然豊かな小さな街の古い一軒家を与えられた。
以来、その街の総合ギルドで単発の仕事を受けながらその日暮らしをしている。
難しい言葉も使えない、身体能力も現代人の平均の私にできる事は、そう多くはないのだけれど。
しかし働かねば、そのわずかな収入すら途絶えてしまうのだ。
今日も今日とて、私は総合ギルドのカウンターへと足を運ぶ。
「おはようメリーちゃん。顔色悪いけど大丈夫?」
人口はさほどに多くない街なので、ギルドの受付はほとんど固定みたいなものである。
毎日顔を出すせいで親しくなったコトさんに、顔を出すなり心配されてしまった。
「ちょっと昨日からあんまり寝れてなくて」
「聞いたよ、森で迷ったんだって?無事でよかったけど、無理しない方がいいんじゃないか」
「そうもいかないんです」
「なんで、一日くらい休んでもやっていけるだろ……その大荷物、何?」
私の装備がいつもと違うことに気づいたコトさんが、怪訝な顔をする。
今までは、持っていたとして小さなナイフとか水筒がせいぜいだった。
しかし、今日は近所で仕事するだけにしては少し大きい肩掛け鞄を下げている。
家中探してみると、ちょうどいいサイズのものがあってよかった。
中身は下層にミルク調剤セット、上層に例の子猫だ。
蓋をめくってそれを見せると、コトさんが小さく歓声をあげる。
「可愛い!猫拾ったの?ちょっとガッチリしてるかな、大きい子になるだろうねえ」
「キャスパの子供、もらっちゃって」
「は?もらった?誰から」
「キャスパ」
あれは、もらったと言って差し支えない状況だったと思う。
当時の成り行きをたどたどしくも説明すると、コトさんはへええと気の抜けたような相槌を打った。
「キャスパから託児される人間なんて、初めて見たよ。やっぱりあれかな、異世界人は特別なのかな」
関係ないと思う。
ともかく、こいつのおかげで私は自分の食い扶持さえ確保してればひとまずOKという感じではなくなってしまった。
昨日カッソさんの家から帰る道すがら粉ミルクの原料の値段を見てきたが、計算すると私の食費と大体一緒くらいだった。
ちなみに昨晩からずっと、数時間おきに子猫が鳴くたび授乳している。
もらった粉ミルクは、加速度的に消費されているのだ。
早急に収入を増やさないとヤバイ。
「一気に儲かる仕事、ないですか」
「ヤバイよそれ身を滅ぼす奴の言うことだよ。………そうだなぁ、まかないが出る仕事はどう?」
「動物連れて行けます?」
「事情を説明した紙用意したげる。それ持って行きな」
コトさんは——というか、この街の人はみんな親切だ。
受付の向かいにある掲示板から教えてもらった仕事の紙をちぎり取って、コトさんの書き付けと一緒に仕事場へと行く。
鞄の中で、チィとくぐもった声が聞こえた。
向こうで挨拶をする前に、一通り済ました方がいいか。
道の端っこの、ちょっとした石の段差に座る。
人通りの少ない午前中は、石畳の上も綺麗なものだ。
夕方になってまだ体力が残っていたら、清掃の仕事も請負ってみようか。
カバンを開けて、中の子猫を確認する。
目は開かないままでも、気配のことはわかるらしい。
「ヂ……」
「ちょっと待ってね」
懐に入れていた水筒を出して、粉を入れた状態の哺乳瓶に入れる。
人肌である程度温まったそれを、思い切りシェイクした。
これであっという間に、ミルクの完成だ。
まだ小さいから少量で問題ないが、そのうちもっとたっぷり作らなければいけなくなるんだろう。
ああ恐ろしい。
「はい、ご飯だよ」
小さな口元に哺乳瓶を近づけると、子猫は心得たように飲み始める。
食い意地が張っているのか、犬の乳でも粉ミルクでもなんでもたくさん飲む。
黒毛をミルクで汚しながらも、子猫は結構な勢いでミルクを飲んだ。
「ヂィイ」
哺乳瓶が空になったので離すと、子猫が抗議の鳴き声を上げる。
短い手足で
「もういいでしょ、お腹ぽんぽんじゃん」
残った水滴を、生垣の根元に瓶を振って捨てる。
できれば一度きれいに洗いたいが、出先ではそうもいかない。
軽く後始末をしてから、鞄のフタを閉めた。
それからまたしばらく歩いて、地図に書いてあった場所に向かう。
その古びた建物には、少し真新しい看板がかかっていた。
文字に添えて書かれた絵によると、ここはレストランのようだ。
「き、ぎ、と……もめ亭?」
「木々とカモメ亭だよ、あんたが今日の手伝い?」
メモを片手に看板を見上げていると、裏口から出てきたらしい荷物を持った熟年女性にそう声をかけられた。
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