猫、二日見れど全くの未知

「ああ、可愛い猫ちゃんだねえ。いいよ、うちの子の乳でいいなら吸わせていきな」


「ありがとうございます」


ろくな睡眠もとってないせいで頭が回らないながらも、そう言って頭を下げた。

生まれて間もない子猫の授乳は、急務である。

普通の哺乳類と一緒なら、この黒い毛玉はほとんど一日中乳を飲む必要があるのだ。


鷹揚に笑って見せる恰幅のいいおじさんは、狩猟ギルドの古株だ。

膝を痛めて以来第一線は退しりぞいたものの、今でもいろんな人に慕われている。

森で子猫を拾った私は、とりあえず最初にセリカさんに相談した。

生まれてこの方、生き物を育てたことなんかないのだ。

どうしていいのかなんて、さっぱりわからなかった。


人のいいセリカさんは、すぐにツテを紹介してくれた。

つまり目の前にいる、狩猟ギルドのおじさんことカッソさんだ。

彼は森での狩猟を引退して以来、猟犬の育成をしているらしい。

強くて賢い犬を多く輩出することから、たまに王都の貴族が買いに来たりもするそうな。

今年の春も、カッソさんは六匹のコロコロした仔犬をベテランの母犬と共に育てている。

タイミングよく、授乳期の子犬たちを。

玄関先でセリカさんから事情を聞いたカッソさんは、私と子猫を犬たちの過ごす一室へと通してくれた。

乱雑に古いタオルが置かれた、家具のない部屋だ。

毎年ここに犬の親子を入れるから、もう通年家具は置いていないらしい。

中には一頭の大きな犬と、まるまると肥えた子犬たちがいた。

母犬の方はお腹をさらして横たわり、ちょうど食事中の子犬が群がっている。


「さ、リズよ頼めるかい」


カッソさんが凛々しく耳の立ったリズ氏のお腹、子犬たちの群れに黒い子猫を混ぜる。

彼女が胡散臭げに子猫を見たあと、不快げに鼻を鳴らしながらそっぽを向いた。

しかし子猫が乳首に吸い付くのを止めたりはしない。

カッソさん直々の頼みだから、受け入れてくれたのだろう。

少し離れて一連の流れを見ていた私は、静かに息を吐いた。

ひとまず、生後一日で餓死はまぬがれそうだ。


「いやあ、キャスパの赤ん坊なんか初めて見たよ。よく親に殺されなかったね」


「はい」


私もめちゃくちゃ不思議なんですよ。

完全に偶然とパニックの結果、どうしてかこんなことになりました。

そんな説明が出来たらいいのだが、私はまだこの世界の言葉をちゃんと習得できていない。

聞き取りはなんとかできるものの、発音が難しい。

単純な会話くらいは可能だが、込み入った話になるとどんどん声が小さくなってしまうのだ。

幸いにして、街の人たちはそんな私のことを理解してくれている。

転移三ヶ月の異世界人なんか、こんなものだということを。


「この子、初乳は飲んだのかい?」


「ショニュウ?」


「基本的にね、一番最初に母親が授乳するときの乳が一番濃厚なんだ。これにいろんな免疫やら栄養やらが入ってるから、可能なら絶対に飲ませた方がいい」


「飲んでます…ました」


「大丈夫、通じてるよ。それならよかった、犬もキャスパも食べるものは似たり寄ったりだ。必要な成分もほとんど一緒だろう。粉ミルクを分けてあげよう、ああ、お下がりでいいなら哺乳瓶も。結構古いが、まだまだ使える」


「ありがとうございます」


ありがたすぎる。

正直、自分の生活にも苦しんでいたのでかなり助かる。


「この子がどれくらいで乳離れするかは分からないから、作り方もメモしよう。いいかい、歯が生え始めたら離乳食の配分を増やしていくんだ。その時にはやり方を教えるからまたここに来てくれ。俺もこの子には育ってほしい、いつでも歓迎するよ」


「ありがとうございます」


本当にありがたい。

感謝を伝える表現をワンフレーズしか知らないために、同じ返答しかできないことが心苦しいくらいに。

家に帰ったら、辞書を引こう。

異世界からの迷い人向けのやつに、中級編に何かあったはずだ。


私が即席産婆として子供を取り上げたあのネコ科の名前は、キャスパと言うらしい。

森に住んでいる大型肉食獣の一種で、気配を殺すのが得意で人間の家畜も時々やられるのだとか。

はっきり言って害獣だが、殺せとは誰にも言われなかった。

私がちゃんと世話をする限り、ペットや家畜の一種として扱われるらしい。

とはいえ、時には人間を食うような猛獣の子供だ。

どう躾ければ安全な子に育つのか、皆目検討もつかない。

かと言って、死ぬのをわかっていて手放すにはちょっと遅かった。

命懸けであの母キャスパを手伝ったのだ、もうすっかり情が湧いている。

ともかく今は生き延びてもらい、その後のことは育てながら考えるしかないだろう。

最悪、手に負えなくなったら一緒に人のいない森に住むのもありだ。

餌を自分で取れるように訓練すれば、野生に返すのだって不可能ではないと思うし。


「しばらくは排泄も手伝話ないとな。濡れた柔らかい布かなんかで、尻を母猫になったつもりで拭ってやれ。タイミングが合ってれば、それで出るはずだ」


生き物の世話なんか、小学校の時教室の後ろで飼っていたザリガニ以来だ。

ザリガニは水を変えて売ってる餌をやればなんとかなっていたが、どうやらキャスパはもっと大幅に手間がかかるらしい。

いきなり貧乏な上に知識もない異世界人に引き取られた子猫は、自分の状況を知らないようで懸命によその母犬の乳を吸っている。

いいぞ、できるだけ沢山飲め。

私が黒い毛玉を見つめている間に、カッソさんは譲ってくれるものを一纏めにしてくれた。


「布袋は何かのついでに返してくれりゃいい、幸運を祈るよ」


そう言ってカッソさんが、母犬リズから黒い毛玉を回収する。

まだ吸い足りていないようでもがいているものの、リズ氏の方は急にきたよそ者が離れたことに喜んで控えめに尻尾を振っていた。

差し出した両手に、ちょっとだけ体積が増えた気のする毛玉が返却された。


「お腹いっぱい?」


「ヂ……」


毛玉は歯の生えていない小さな口を、ぱくぱくして私に応じる。

ピンクの薄い舌で何度も自分の上顎を舐めた。

この様子だと、腹にはまだ余裕がありそうだ。

家に戻ったら早速、ミルクを作ってみよう。


「生まれたての生き物は大体寒さに弱いから、とにかく冷えないように気をつけてやってくれ」


「はい」


カッソさんのありがたい指導を頂いてから、私はほとんど徹夜明けの気分で家路についた。

まずはこいつをお腹いっぱいにして、それから寝よう。

そして頭がスッキリしたら、今後の生活とこいつの名前について考えるんだ。

未だにおっぱいを探してジタバタする子猫…いや、子キャスパを抱きながら、私はそう決意するのだった。

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