電光石火託児

三匹目の出産を終えたあと、ネコ科は苦しげに息をするのをやめた。

おそらくはこれで、打ち止めなのだろう。

すでに毛の生えそろったコロコロとした生き物たちは、何も見えていないなりに一生懸命母親のお腹を探っている。

まだ兄弟がいるという意識はないのか、たまに他の子に乗り上げたりもしているようだ。

夜なのではっきりとはわからないが、毛色は明るいのが二匹、暗いのが一匹。

暗いやつは他よりも少し体力がないのか、兄弟たちに踏まれまくっている。

まあ、全員軽いので大丈夫なんだろう。

母親の方はお産を終えた満足感からか、さっきまでの張り詰めた感じはなくなっている。

武器もない人間など恐るるに足らないようで、こちらには一瞥もくれず外の森狼を睨み付けている。

わけはわからないが、私の死期はまだ先らしい。

踏ん張りの効かない足で乳を探し、毛玉たちがころころと争っている。


「あ、そっちじゃないよ……」


兄弟たちの勢いに負けたのか、色の暗い毛玉が母親の腹を乗り越えて背中側に行ってしまう。

誰もいない場所で満足げにちゅっちゅと毛皮を吸おうとするものだから、思わず声をかけてしまった。

発声した私に母親が一瞥をくれるが、そのまま狼の方へと視線を戻す。

ようやっと乳首の場所を探し当てたらしい他の毛玉たちは、それぞれのポジションで人生最初の食事を始めている。

このままでは、色の黒い毛玉だけが食いっぱぐれてしまう。

野生の掟といえばそれまでなのかもしれないけれど、どうにも気の毒だ。

少しの逡巡の後、ゆっくりと母親に近づく。

彼女はまた私を見たが、やはり威嚇する素振そぶりはない。

刺激しないようにゆっくりと動いて、彼女の向こう側に行ってしまった暗い毛玉を掴んだ。


「プェ」


「ごめんて」


突如知らない人間に掴まれた子猫が、不満の声らしきものを漏らす。

母親が怒らないのを確認してから、毛玉を彼女のお腹がわに戻した。

兄弟たちが必死に吸っている乳首の、すぐそばに。


「ほら、多分そこ…頑張れ…」


毛色の黒いもこもこは、しばらく彼女のお腹でもがいた後、ようやっと一つの乳首にありつけた。

ほっとしたので、そのままゆっくりと後ろに下がる。

洞窟の家に背中を預けて、たった今結成された親子をぼんやりと眺めた。

母親が外への警戒こそ怠っていないものの、かなり空気は和らいでいる。

赤子の乳を吸う音をBGMに聴きながら、いつしか私の意識は夜に溶けて行った。



まさか、昨夜を生き延びることができるとは思わなかった。

一切のクッション無く寝たせいでバキバキになった全身を感じながら、朝の日差しに目を開ける。

ネコ科一家は一塊になり、すやすやと寝ていた。

いや、母親だけは私が起きて数秒でこちらに顔を向けてきた。

金色の目に敵意は感じないからか、ヒヤリとすべき場面でもあまり感情が動かない。

ただ、彼女が元気そうなことが喜ばしい。

明るくなってから見ると、ネコ科はかなりヒョウに似た生き物であることがわかった。

ダークグレーの柔らかそうな被毛に、特徴的な斑点模様。

子供たちはもう少し、模様が圧縮されてはいるが。

モノトーンであるという決まりはないのか、色は様々だ。

オレンジ、ウグイス色、真っ黒。

黒い子だけは、模様がよくわからない。

いずれもぽんこりんのお腹が上下していて、みんな生きていることがわかる。

経緯を知らない誰かに見せれば、猫だと思われるかもしれない。

しかし針金みたいな貧相な二本の尻尾が、そうではないことをはっきりと示している。

猫又ねこまたにしては、成体が大きすぎる。

この生き物は、一体なんなんだろうか。

もし無事に家に帰れたら、市民館で本を探してみよう。

図書館と言うほど立派ではないが、この辺りで生きていくのに必要な本がひとあたり揃っている。

多分、森にいる危険動物の本もあるだろう。

——家。そう、家だ。

一度帰宅のことを考えると、むくむくと里心が湧く。

洞窟の外からは、狼の気配が消えていた。

どっちの方向に行けば帰れるのかはわからないが、ともかくまだ諦めるには早そうだ。

平和を体現している一家…特に母親を刺激しないようにゆっくりと立ち上がる。

彼女は私が動くことを、別段とがめもせずに見守った。

完全に立ち上がったあたりで、母親の方も立ち上がる。

お腹に乗って寝息を立てていた毛玉たちが、地面に落ちてあまり可愛くない鳴き声を上げた。

あんなに雑に扱って、大丈夫なんだろうか。

予想外に大きく動いた母親に、多少危機感が復活する。

今更、ちょうどいいご飯として食われてしまうのだろうか。

出産を手伝った仲とはいえ、十分にあり得る結末だ。

何しろ私は武器もないし足も遅い。

出産で疲れた母親が、ちょっと体力をつけるためにはかなりいい食料だろう。

にわかに身体を固くしていると、母親は私を視界に入れながら足元にいた毛玉を一匹加える。

ウグイス色の子だ。

さっきまでその辺で踏ん張ろうと頑張っていたその子は、首をくわえられた途端全身の力を抜いてだらりとおとなしくなる。

子供をくわえたまま、獲物を襲う生き物はそんなにいない気がする。

私を殺すつもりではないんだろうか。

様子を伺っていると、母親は洞窟の唯一の出入り口に横向きに立った。

彼女の間合いを通らなければ、脱出は叶わない。

いい加減多少見慣れてきた金の目は、静かだ。

私が何かするのを、待っている。

しかしお互いに共通言語を持たない状態では、何をすべきなのかいまいちわからない。

足元で、いきなり母の温もりを失った毛玉たちが哀れっぽく鳴いた。

まだ目が開いていない上に、ろくに歩きもできない命。

母親がここから一匹を連れて去れば、あっという間に他の野生に食い散らかされてしまうのではないだろうか。

そこまで考えて、何か閃くものがあった。


「あの、みんな連れて行きたいの……?」


もちろん、彼女にそんな風に話しかけたって無意味だ。

私は激昂されないことをただ祈りながら、ゆっくりとしゃがんでまずオレンジ君に触れる。

母親は静かに、それを見ている。

多分、これで合っているのだ。

片手で小さな身体を抱え込むと、オレンジ君は不満げにピィと鳴いた。

歯も生えていない赤子に怒られたって、少しも怖くない。

重要なのは、出入り口で私を見張っている彼女と敵対せずに済むことだ。

開いてない目で母親を探す黒色君も、同じように片手で持つ。

両脇にボールを抱えたラグビー選手みたいな風情だが、持っているのは生後一日の生物だ。

圧迫してしまわないよう、神経を使う。

私が二匹をちゃんと抱えたのを確認して、ダークグレーのヒョウもどきは尻尾をゆらりと揺らした。

そして、外に向かって歩き出す。

彼女の大事な子供を持った私が、それを追わないで許されるわけがない。

多少よろけつつも、ついて行く。

とりあえず、母親がそれを怒る気配はない。

奇妙な状況だけれど、猛獣と一緒に歩いてると他の猛獣に襲われる恐れがなくて助かる。

明るい森の中をしばらく歩くと、やがて大きな木の根本についた。

私が両腕を広げても腕が足りないような太さの、立派な大木だ。

たぶん、四人ぐらいで輪になったらギリギリ足りる。

その大木の中ほど、私の肩から上くらいの高さに、大きなウロがある。

母親は後ろ足で立ち上がってふんふんと木の匂いを嗅いだあと、子供をくわえた状態でそこにぴょんと入り込んで見せた。

巨体に似合わぬ跳躍力は、哺乳類の中でも白眉と言える。気がする。

数秒ウロの中で動く気配がして、母親が再び出てきた。

草地をほとんど鳴らすこともなく地面に降りたってから、微妙な距離感で私をじっと見つめている。


「こう……?」


黒い方の毛玉君を地面におろして、距離を取る。

母親は無言で、私の方を見続けた。

違うのか。

よくわからないままに、オレンジ君の方も地面に下ろす。

ふた塊の毛玉が、母親を求めてぴいぴい鳴いた。

もう一歩下がった私に一瞥をくれてから、彼女はオレンジ君をくわえてウロへと運び込む。


後から思えば、この瞬間に走って逃げるのも一つの選択肢だった。

しかし森の一晩で一方的に仲間意識が芽生えた、愚かな人間であるところの私は、黒い毛玉の行末がどうしても気になってしまったのだ。

母親は二匹を推定新居に納めてしまった後、黒い毛玉に近寄ることなく私を見続けている。


「この子はどうするの?」


聞いてみたところで、返事が返ってくるはずもない。

ゆっくりと腰を落として、黒い子猫を手で母親の方に押してみる。

彼女は私の動きに一切反応しない。

ただ金色の目で、こちらを見続けるだけだ。


「ねえ…ごめん」


もう少し向こうへと黒い毛玉を押し込もうとすると、彼女の太い鼻に明らかにしわが寄った。

彼女がなんのつもりかはわからないが、この行動は不正解であるらしい。

さっと手を引っ込めると、ぬくもりを追いかけてか黒い毛玉が私の方に寄ってくる。


「ぴ…」


「お母さんこっちじゃないよ」


お腹を土で汚しながら、黒い子猫が私の手に寄り添う。

もう一度押し返そうと思い両手で持ったところで、母親がずいっと私の方に近寄ってきた。

反射的に立ち上がって下がる。

黒い毛玉を、両手で持ったまま。


「え」


慌てて下ろそうと腰を曲げると、母親が小さく吠えた。

彼女にとっては少し脅したくらいなのだろうが、私の恐怖心には覿面に響く。

しゃがむと怒られるらしい。

では、どうすればいいのか。

母親はなおも歩を進め、私は同じだけ後退する。

そこからは、もう我々に先ほどあった緩い空気は霧散してしまっていた。


母親は私が子猫を返す素振りをするたびに吠え、そして決して追いつかない早さでついてくる。

森狼よりも大きい生物にそうされてしまえば、私にできることなんか何一つない。

ただ彼女が誘導する通りに、森の中を早足で歩く。

もしかすると、巣から離れたところで仕留めるつもりなのかもしれない。

死体の匂いがすれば、他の動物も寄ってくるから。

しかしだとしたら、この黒い子だけ持たされている意味はなんなのだ。


もうずいぶん、彼女の新居からは離れた。

不安の通りの展開なら、そろそろ背後の母親が駆け出して私の首を折ってもおかしくない。

自然と、息が荒くなる。

まるで背中に銃を突きつけられて、船の先端を歩かされている気分だ。

そんなことされた経験は、一切ないが。

不穏な時間が過ぎ去っていき、ふと目の前が明るくなる。

生茂る木々が途切れ、道に出た。

ここには見覚えがある。

左に五分ほど歩けば、文明のある街だ。


「メリーちゃん!」


遠くから、私を呼ぶ声が聞こえた。

突然街に来た新参者を気にかけてくれる、親切な町長の娘さんだ。

その後ろには、武器を持った護衛たち。

駆け寄ってきた彼女が、私を抱きしめてくれた。

腕の中の子猫を庇いつつ、その温かみを噛み締める。

帰ってきた。

護衛さんもいるから、ひとまず身の安全も確保される。


「森に行ったきり帰ってこないって、ダン夫妻が言うから心配してたのよ!」


「うん、ごめん。色々あって」


まさか生きて帰ってこれるとは思わなかった。

言葉通り本気で心配してくれていたらしい彼女の青い目には、薄らと涙が浮かんでいる。

悪いことをしてしまった。

今後は、夕方から森に入ることなど絶対にすまい。

抱きしめた時に私が腕の中の何かを庇ったことを感じて、彼女——町長の娘セリカさんが視線を下げる。

生後一日の黒い毛玉が、それを感じてか小さく鳴いた。


「あら、猫ちゃんを拾ったの?」


「ん、猫っていうか…」


そこで背後を振り返って気付く。

鬱蒼とした木々の向こうをどれだけ見ても、あのダークグレーの生き物がいる気配はない。


「メリーちゃん?」


不思議そうなセリカさんの声を聞きながら、私はここにきてようやっと理解した。


——押し付けられた。

理由は全然わからないが、このまだ目も開いていない生き物を。

瞬時に、頭の中で思考が奔流のような勢いで展開する。

餌は。ミルクでいいのか。

歯が生えたら肉を与えなければ。

そもそも、うちにこんな生き物を飼う余裕はない。

野草目当てに森に入るほど、食い詰めていたんだぞ。


腕の中で、ぬくもりがチィと鳴く。

口元に指を添えると、乳を求めてかちゅくちゅくと吸われた。

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