黒くふわふわであたたかい

ゴマフノザラシ

できれば入りたくない穴NO1こと虎穴

完全に失敗した。

近所のおばさんに食べられる野草を教えてもらって、浮かれてしまった。

最近は手持ちの現金がほとんどなかったから、カッチカチになったパンのかけらで凌いでいたのだ。

野草があれば、スープが食える。

そう思ったまでは、賢明だったと思う。

しかし腹が減りすぎて何も考えていなかった私は、もう夕方も近いのに森に入るという愚行を犯した。

街からは離れないから、大丈夫。

そんな油断はあっという間に、刻一刻と日の傾きで表情を変える森へと呑み込まれてた。

気づいた時には、自分がどの方角から歩いて来たのか少しもわからなくなってしまったのだ。


背後から、獣の荒い息遣いが聞こえる。

森狼だ。

縄張りから離れ迷った間抜けな獲物わたしを、美味しい晩ご飯にしようと追ってきているのだ。

真後ろにいるのとは別に、左右の木々の間からも影が見えた。

小柄ながらもチームワークに優れた彼らは、もうすぐおよそ50キロの食事にありつくことができるだろう。

骨は食べられないことを考えると、もう少し量は減るかもしれないが。

痛いだろうか。

痛いんだろうな。

必死で走り続けたせいで、喉がひゅうひゅうと鳴る。

少しでも気を抜けば、そのまま咽せてしまいそうだ。


木々のあちらこちらから、吠え声が聞こえる。

多分、仲間とどうやって仕留めるかの相談をしているのだろう。

武器もろくに持っていない人間如きが、勝てる相手ではないのはわかっていた。

それでも足が動いたのは、多分本能の暴発みたいなものだったんだろう。

こんなに怖い時間を過ごしたあげく、身体を引き裂かれる痛みとともにこの世から去ることになるなんて。

ただでさえついていない人生だったのに、こんなところで終わるのか。

じゃあせめて最後の晩餐として、露店で売ってるから揚げめいたやつを食べたかった。

便宜上から揚げと呼んでいるものの、私の日常食にするには少し高価な上に色が赤すぎて手を出すのをためらった、あのから揚げ。

美味しそうな香りが、通るたび私を呼んだ。


脚がもつれる。

私を追う獣たちが、歓喜の声を上げた。

こんな状況でも、まだ死にたくない。

たった数秒だったとしても、長らえたかった。

周囲を見る。

何かないか。

なにか、なにか、何か。


ふと、いく先に洞窟が見えた。

夜闇の中でぽっかりと口を開けたそれの、喉奥は暗くて少しも見えない。

多分、行き止まりのない森を走るよりも愚かな選択だったと思う。

走り続けていたせいで、頭に酸素が回っていなかったんじゃないだろうか。

とにかく私は、やぶれかぶれな気分でその洞窟に走り込んだ。


草地だった足元が、いきなり剥き出しの土になる。

反射的に手を前には出したものの、勢いよく転んでしまった。

洞窟の中は月の微かな明かりすら届かなくて、一層暗い。

流石に、これでおしまいか。

そう思ったが、どういうわけが追跡者たちが飛びかかってくる気配がない。

洞窟の内部に向かって転んだまま、恐る恐る外へを視線を向けた。


狼たちは、草地の方から私を見ていた。

ざっとみて五頭ほどの彼らは、何度か洞窟の中に入ろうと前足を上げるものの、まるでそこにはっきりとした境界線があるかのように、進むのを躊躇っている。

頻繁にキュンキュンと鳴いて、困惑を隠そうともしない。

これが人に飼われている犬なら、可愛さに負けて近寄ってしまったかも。

先ほどの命がけの追いかけっこのせいで、そんな気は微塵も起こらないが。

それにしたって、どうして狼たちは足を止めたのか。

ずっと望んでいた状況であるのに、本能は警鐘を鳴らすことをやめない。

何かがおかしい。

何かを、見落としている。


そう考えた瞬間、洞窟の奥の方から気配がした。

不規則だが一度一度が長い、明らかに大型の生物が行う呼吸。

威嚇であろう低い唸り声を聞けば、狼と同じかそれ以上に厄介な生き物がいるのだと、簡単に予想することができた。

しまった、ここは何かの巣だったのか。

だから森狼は、入ってくることができなかったのだ。


ここまでくると、やけくそである。

ろくなことにならないと確信しつつも、私は洞窟の奥へと目を凝らした。

暗闇に慣れ始めたのもあって、その生物のぼんやりとした輪郭が見える。

まず、森狼より明らかにでかい。

黒い被毛のせいで全体が掴みにくいが、その白く尖った牙を見れば、猛獣のたぐいであることは一目瞭然だった。

シルエット的には、おそらくネコ科。

ムチのように長いの尻尾が、苛立たしげに地面を叩いた。

事態は加速度的に、悪くなっている模様。


洞窟を出れば、狼。ここに止まれば、大型ネコ科。

どちらにせよ私程度では太刀打ちのしようがない生き物たちに挟まれて、にっちもさっちも行かなくなってしまった。

全門のネコ科、後門の森狼。

そこで、ふと不自然なことに気づく。

私など爪の一振りで無力化できるであろう猛獣は、こちらを忌々しげに睨んだまま動こうとしない。

よくよく観察してみれば、その呼吸はかなり苦しそうだ。

妙に膨らんだ腹が、小さく上下している。


「…………」


もはや、安全な場所などどこにもない。

ならばと思って、じりじりと尻を地面につけたまま移動する。

猛獣の刺すような視線を受けながら腹に回ったところで、が現在とんでもない窮地に陥っていることを理解した。


——最初の一匹は、うまく行ったのだろう。

暗闇の中ぼんやりと、明るい毛色の小さな生き物が震えている。

両手のひらに乗るような大きさの、全体的に湿った命。

黒い彼女の腹に沿って、乳を探しているようだ。

言わずもがな、このネコ科が今しがた産んだのだろう。

全部で何匹産むつもりかは知らないが、二匹目で何かトラブルがあったのか。

それとも、これが彼女らにとっての平常の出産なのか。

私には判断できるよしもないが、とにかく彼女は酷く苦しんでいた。

出産という命がけの仕事中に、間抜けな人間が敵を連れて転がり込んできたのだ。

さぞかし迷惑だったろう。

しかし、気を遣って出て行こうにも狼たちは私を諦めきれないようで、洞窟の外でまだこちらの様子を伺っている。


全員にとってストレスフルなこの状況を、どうすればいいのだろうか。

思わず考え込んでしまったが、世界は私の思考が整うのを待ってくれはしない。

敵意をあらわに私を睨んでいたネコ科は、突如苦しげな声をあげた。

下半身を見ると、半ばまで出た子供がぐったりと後ろ足を下げている。

ええとこの場合、どっちから出ていると逆子なんだ。

どちらにせよ彼女の苦しみようを見るに、出産はうまく行っていないようだった。

このまま放置していれば、いずれ力尽きるかもしれない。

ほんの少し光明が見えた気がしたが、すぐに外には狼がいることを思い出す。

厄介な競争相手が息絶えれば、彼らは沢山の食糧を手に入れることができる。

きっとこのまま諦めて去るなんて間抜けは、やらないだろう。

このネコ科に、今死なれるわけにはいかない。

彼女が回復すれば、今度は新たな脅威になるだけだと知っていても。

一秒でも長く。

私の本能が、まだ生きていたいと足掻いている。


「……近寄るね」


動物に触れるときは、まずこちらの存在を知らせてから。

いつだったか動物園のふれあいコーナーで教えてもらった話を思い出しながら、ゆっくりと彼女の背後に回る。

明らかに私に対する威嚇として、唸り声が上がった。

嫌なのはわかる。

しかし君が生きていてくれないと、私の死期が早まるのだ。

私の腕よりも若干太い後ろ足に、蹴られればどんな痛みが走るだろうか。

それは狼にハラワタを食い破られるのと、どっちが辛いんだろう。


「ちょっと手伝うだけだから」


滑稽なほど震えている自分の声が、耳に響く。

君に、死なないで欲しいだけなんだ。

どうかわかってほしい。

必死で祈りながら、頭を残し四本の足が出た赤子に手を伸ばす。

湿っている。

外気のせいか、少し冷たい。

触れた時点で殺される可能性も視野に入れていたが、彼女の方ももう余裕はないらしい。

ただ唸り声が上がるだけで、食い殺される気配はない。

私の方を睨みつけながら、耳は洞窟の外へ向いている。

狼たちに隙を見せるのを躊躇った結果、この無力な人間の方は様子見ということになったのだろうか。


闇雲に引っ張って大丈夫とは、思えなかった。

両手を子供に添えて、出産のために開いた内臓へと指を入れる。

手を洗ってないことは後ろめたいが、緊急事態なのだ。

許してほしい。

そっと中を探ると、赤子の頭に触れた気配がした。

これなら、少し手伝えば無事出産することができるだろう。


「頑張って…」


「グルルル……」


母親の方は、いまだに私に敵意で満ちた唸り声を上げている。

これが終わったら、そのまま八つ裂きにされるんではないだろうか。

無理やりになってしまわないよう、慎重に赤子を引っ張る。

元々あと一押しで出てくる塩梅だったのか、新たな命はさほど抵抗することなくずるりとその姿を現した。

多分、まだ生きている。

しかしその弱々しい首には、へその緒が巻きついていた。


「ねえ、これ…っ」


どうしようと思って声をかけた瞬間、さっきまで寝そべっていたネコ科が体を起こす。

反射的に尻餅をついて逃げたが、彼女がこちらに牙を向けることはなかった。

後ろ足を上げて、生まれた子供に顔を近づける。

早々にへその緒を噛みちぎったあと、生まれたての黒い赤子を自分の前足の間にくわえて持っていった。

ちょっと乱暴なくらいの勢いで舐めている。

多分、出産の時に赤子を包んでいた膜を、それで破っているのだ。

あの作業が一通り終わったら、私はとうとう殺されるんだろうか。

念のため洞窟の奥を見つめてみるが、そこには何かの骨の残骸しかない。

人間のものではないことはわかるものの、慰めにはならなかった。

この洞窟がどこか別の場所に繋がっていれば、もう少し逃げ延びることもできただろうに。


目の前で、母親とそっくりの黒い赤子が弱々しく動き出す。

おぼつかない足取りで、這いずるようにして、彼女のお腹を目指し動いている。

お乳の匂いが、わかるんだろうか。


「にゃあ」


「えっ」


いわゆる家猫のものとは違う。

しかしめちゃくちゃ可愛い声が、目の前のネコ科から発された。

金の目が、私を見据えている。

恐怖におかしくなった私の幻覚でなければ、さっきまで彼女に満ちていた敵意が薄れていた。

もしかして。

黒いネコ科は、再び身体を横に倒して楽な姿勢を取る。

直感的に、まだ出産は続いているのだと理解した。

太い後ろ足の間を注視して、固唾を飲み見守る。

今度は明るい色の小さな身体が、膜に包まれた状態で出てきた。


「にゃあ」


「あっはい」


どうしてか、要求が分かる。

自力で産めるなら産んだ方がいいと思うのだが、どうやらこの巨大な捕食者は間抜けな人間に手伝わせることに決めたらしい。

先ほどと同じく、半分くらい出てきた体に手を添わせる。

今度は、頭から出てきた。

さっきのが逆子なのか、今こそ逆子なのか。

結局よくわからない。


とにかく彼女がいきむのに合わせて、私は慎重に赤子の身体を引き出した。

双方合意の上だったからなのか、かなりスムーズに済んだ。

先ほどと同じく、完全に体外に出た子供にネコ科が顔を近づける。

いくら敵意を感じないとは言え、そんな場所で安穏としてはいられない。

思いっきり体を引き逃げると、ネコ科は私の方を一瞥したあとフンと鼻を鳴らした。

え、何。

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