第11話 愛と真奈

 俺は随分と実家に帰っていない。真奈の家から登校し、授業を受けて、学校が終わったら真奈の家に帰宅する。それが俺の日課だ。


 俺の両親へは真奈から連絡してある。両親は俺と真奈が結婚することを望んでいるのだ。国に反逆するよりも、真奈と結婚する道に進んだ方がずっと安泰で、ずっと楽で、ずっと平穏に暮らせる。どこの親だって、子供に危険な目には遭って欲しくない。だから両親の気持ちはわかる。


 真奈が仕事が休みの日。俺は真奈の家に帰ったら、まず真奈に愛の言葉を囁かなければならない。もちろん定型文ではダメだ。一生懸命考えた自分だけの言葉で真奈を満足させなければならない。


「ただいま。真奈。今日も素敵だね。今日も一日中真奈のことだけを考えていたよ。ずっと真奈に会いたかった」


「うんうん。私も伊吹くんに会いたかったよ」


 本心からの言葉ではない。俺は、いつかこの状況から抜け出してやると密かに思っている。けれど、心にもない言葉でも毎日言い続けていると、それが段々真実かのように錯覚してくる。俺が本当に好きなのは真奈なのではないか。と。


 事実、俺は愛の次に好きな女性が真奈だった。AIが選出しただけあって、俺の好みに合致しているのだ。いっそのこと、愛の方から俺をフッてくれないだろうか。そうしたら、俺はなんの後腐れもなく真奈の方にいける。その道が一番幸せな道なのではないかと。そんな卑怯で臆病な思考が俺の中に芽生え始めた。


 その時だった。ピンポーンとチャイムが鳴った。


「伊吹くん。ちょっと待っててね」


 真奈は玄関の方に向かった。そして、扉を開けると聞き覚えのある声が聞こえてきた。


「こんにちは。真奈さん。初めましてだったかな? 私は楪 愛と申します。よろしくお願いしますね」


 愛!? どうして、愛がここに来たんだ。


「初めまして。愛さん。伊吹くんの婚約者の有村 真奈です」


 婚約者という文言を強調して言う真奈。愛に対する牽制だろうか。


「愛さん。私、貴女にウチの住所教えてないよね? どうして、私の住所を知っているのかしら?」


 確かに。真奈の家は俺たちの住んでいる地区から数駅離れている。教えてもらわなきゃ、まず住所がわからないはずだ。


「そんなことはどうでもいいじゃないですか。それより、伊吹がいるんですよね? 彼を解放してもらえませんか?」


 愛は俺を解放するためにここに来てくれたのか? 俺のために……俺は愛を裏切るようなことを考えていたことを恥じた。俺が、心を真奈色に染められそうになっている時でも、愛は俺のことを想ってくれていたんだ。


「伊吹くんならここにはいませんよ?」


「嘘です。伊吹の両親が真奈さんの家に行ってるって言ってました」


「まだ帰って来てないの。今日のところは帰ってくれる?」


「いいえ! 私は見ました。伊吹がこの家に入るところを!」


「ふ、ふふふ。そういうこと。なんで家の住所がわかったのかと思ったら、伊吹くんを尾行してきたんだ。あなた、とんでもないストーカー女ね」


「盗聴器とGPSを付けるような貴女に言われたくありません!」


 俺は真奈につけられていたのか。全く気付かなかった。俺は、毎日満員電車に揺られるサラリーマンのように死んだ心でここまで来ていた。だから、周囲に気を配るような余裕はなかった。


「伊吹! いるんでしょ! 私が来たよ! 一緒に帰ろう!」


 真奈が叫んでいる。俺はその叫び声に心が震えた。


「人の家の前で叫ばないでくれる? 近所迷惑でしょ」


「伊吹を返してくれるまで帰りません」


「貴女。自分の立場が分かってるの? 私は伊吹くんと貴女の間柄を知っている。私がその気になれば、貴女たちはいつでも施設に送られることになるの」


「く……」


 そうだ。真奈には俺たちの会話を盗聴した音声を持っている。その音声がある限り、俺たちは真奈に勝つことはできない。俺たちの生殺与奪は真奈の気分次第だ。俺たちはお情けで真奈に生かされているだけに過ぎない。


「わかった? 施設に送られたくないなら、私の機嫌を損ねないうちに早く帰りなさい。子供は大人の言うことを聞くものなの。わかった? 小娘ちゃん」


 真奈はそれだけ言うと扉を閉めた。それから、インターホンを鳴らす音は聞こえなくなった。愛は諦めて帰ったのだろうか。


「全く。邪魔が入ったね。伊吹くん。それじゃあ、お姉さんと一緒に愛を確かめあおうか」


 真奈が俺の制服のボタンに手をかける。器用な指使いが俺の制服のボタンを1つ1つ丁寧に外していく。俺はこの指に逆らえない。ごめん……愛。本当にごめん。俺はただ、心の中で愛に謝り続けることしかできなかった。目頭が熱くなる。俺の頬を液体が伝う。


「あら。伊吹くん。泣いてるの? 可愛い。大丈夫。怖くないから」


 俺は蜘蛛の巣にかかった蝶のように身動きが取れないまま、あるいは蛇に睨まれたカエルのように、ただ身を任せることしかできなかった。



 シングルサイズのベッド。通常2人で寝るように設計されていないものの上で俺と真奈は身を寄せ合って寝ていた。別に一緒に寝るのは初めてではない。最初は女性と一緒に寝ることに抵抗があったけれど、今では普通に眠れる。ちょっとだけ狭いのが気になるけれど。


 ダブルサイズのベッドも買おうという話も出て来たけれど、真奈が今のままの方がお互い密着できていい。という理由で、そのままにしてある。


 真奈の寝息が聞こえる。彼女は眠っているのだろうか。俺もそろそろ眠るか。俺が目を閉じた瞬間――


「ひっぐ……えっぐ……」


 俺の胸で真奈がすすり泣いていた。


「伊吹くん。いかないで……やだよ。もう1人はやだよ……」


 真奈の方に目をやると真奈は目を閉じている。これは寝言か? 嫌な夢でも見ているのだろうか。


「私は欠陥品じゃない。私だって、若い頃に恋愛してみたかったのに」


 これが真奈の本音なのだろうか。ここ最近の俺は、真奈を敵としてしか認識していなかった。俺の進路を妨害する障害。だけど、違う。真奈は……真奈も俺たちの仲間なんだ。


 真奈だって、アフロディーテ・プロジェクトがなければ、自由に恋愛して、自由に結婚して、幸せな家庭を築けていたんだ。こんな歳になって、ようやく高校生に手を出すなんてことをしなくて済んだんだ。


 俺は真奈も味方にしたい。真奈だって、この社会が生んだ犠牲者なんだ。それを理解してもらえれば、真奈だってきっと俺たちに力を貸してくれるはずだ。


 俺は真奈の頭を優しく撫でた。俺より年上のはずの真奈。でも、頭を撫でていると不思議と父性がくすぐられる。


 大丈夫。真奈はきっと結婚できる。それは俺以外の誰かになるのかもしれない。そして、それを見つけるのはAIじゃない。真奈自身の意思だ。真奈自身の行動、選択によって、相手を見つけ出さなくちゃいけない。AIに任せていたら、また真奈は1人になってしまう。


 恋愛をしたい男女が自由に恋愛できないのは間違っている。恋愛したいと心から望んでいた真奈をこんなになるまで放置したAIは許すことができない。


「真奈……キミのお陰で俺の進むべき道が見えたかもしれない」


 この国には、恋愛をしたくてもできない若者がいる。彼らはAIによって、パートナーを選ばれなかったものだ。真奈もその1人だ。


 そこが、完璧に見えたアフロディーテ・プロジェクトのほころびになる。彼らを味方に付ける。突破口はそこにある。


 彼らの指示を俺と愛と真奈が集める。そして、俺たちの主張の正当性を多数派のみんなに示すんだ。


 方針が固まってきたと思ったら、希望が湧いてきた。体の中から湧き上がる熱。それが、俺の心を奮い立たせる。明日、俺は大勝負にでなければならない。真奈の説得。それができれば、俺は大きな味方をつけることができるんだ。

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