第7話 この国を変えていくために

「母さん。ちょっといいかな?」


「ん? なあに伊吹」


 洗い物をしている母さんに話しかける。母さんは手を止めることはなかった。


「俺、塾に行きたい」


「え!」


 俺のその言葉に流石に母さんも衝撃を受けたのだろう。洗い物をしている手が止まった。


「どうしたの伊吹? あなた勉強嫌いだったじゃない」


 確かに俺は成績がいい割には勉強が嫌いだ。授業で1度聞いたことは大概覚えている。今までのテストだって90点代を下回ったことがない。でも、それで満足していたらダメなんだ。


「母さん。俺T大に行くよ」


「あ、あんた本気なの?」


 T大。日本で一番ランクが高い大学だ。この大学に入るためには、入学試験で1問も間違えてはいけない。なぜなら、毎年満点を取る人数が定員より多いからだ。満点を取るのは最低ライン。そこから、高校生活での素行、周囲の評価。所持している資格。その他、賞やコンクール、部活動での大会などの実績などが考慮される。


 もちろん、アフロディーテ・プロジェクトが発足されるまではこのような状態じゃなかった。普通に試験の点数が高い者から取っていく方式だ。だが、アフロディーテ・プロジェクトのお陰で子供の学力が飛躍的に上昇したことにより、上位層も満点で当たり前という地獄のような状況に陥ったのだ。


「ああ。俺は、T大に入る。そして、この国を動かす人間になる」


「う、動かすって……」


 官僚、政治家、なんだっていい。この国の政策に意見を言える人間にならなければならない。そのためにはT大を出ることが必須なのだ。俺はこの国を内側から変えてやる。自由恋愛を禁止するこの国の法律ぶち壊してやるんだ。


「とにかく、お願いだ。母さん。俺を塾に行かせてくれ」


「伊吹の学力なら、がんばらなくても、地元でもそれなりの大学に行けるし、就職だっていい所にいけるのに。どうしてそんなにがんばろうとするの?」


「それは言えない……けれど、これは俺が幸せになるために必要なことなんだ」


 その言葉で母さんはなにかを察したようだ。そして、ため息をついた。


「お金は出せません」


「な、なんで!」


「伊吹。あなた、まだ幼稚園の頃の約束を覚えているんでしょ?」


 やはり、母さんにはお見通しのようだった。俺が、国の法律を変えて、自由恋愛を解禁しようとしていること。そして、愛と結婚したいと未だに思っていることを。


「あなたにはもう素敵なパートナーがいるじゃない。真奈さんと付き合って、素敵な家庭を作ることになんの不満があると言うの?」


「でも、俺が本当に好きなのは」


「黙りなさい!」


 母さんが食い気味で語気を強める。こんなに怒った表情をした母さんを見るのは初めてだ。


「それ以上言ったら、ウチからたたき出します」


「た、たたき出すって……」


「私は本気。もし、あなたのその気持ちが周りの人間にバレたら。国にバレたら、あなたは路上生活するよりも辛い生活を送ることになるの」


 AIが認めたパートナー以外に恋心を抱く者。それは施設に送られて人格を矯正される。


「伊吹。どうしてわかってくれないの? 私はあなたに幸せになって欲しい。何の疑問も持たずに、AIの見つけた相手と愛を育んでいくのが私たち人間の幸せなの。そこに逆らったところで、辛い運命しか待ってないの」


 母さんの目が潤んできた。本当に俺を心配してくれていて、俺がわからずやなことを言っているから色々と感情が込み上げてきているのだろう。


「ねえ、伊吹。あなたが必死にがんばって国を変えようとしたところで何になるの? あなたが仮に官僚や政治家になったとしても、新人がそこまで大きな力を持てない。法律に影響を及ぼすほど力を持つようになるまで何十年もかかる。その間、真奈さんはどうなるの? あなたがいる限り真奈さんはあなたに縛られ続ける。結婚もできず、他に恋人も作れず歳を取るだけ。そして適齢期からすぎて、子供が生めなくなる年齢になる。あなたのやろうとしていることは、確実に人を1人不幸にするの」


 どれだけ医療が発達したとしても、女性が子供を生める年齢には限りがある。俺と真奈には歳の差がある。だから、真奈のことを考えると俺が高校を卒業したらすぐに結婚するのが理想的だ。だけど、俺のやろうとしていることは、真奈と結婚もせず、大学に行き権力が付くまで仕事に没頭する。そういう人生だ。俺が法律を変える頃には、真奈はもう新しい恋人を見つけるのが難しい歳になるだろう。


「それに、それだけのことをやっても法律を変えられず終わることもある。その時、やっぱり真奈さんと結婚しておけば良かったと後悔するのは、あなたになるかもしれない。だから、伊吹。やめておきなさい」


 もし、俺にパートナーがいなかったら、話はここまで難しくならなかっただろう。だけど、俺には真奈というパートナーがいる。俺は……彼女も不幸にしたくない。そのせいで、話がややこしくなってしまう。


「あなたは高校を卒業したら真奈さんと結婚する。進学するか就職するか、それはあなたの判断に任せます。それがあなたが幸せになるたった一つの道なのですから」


 母さんの言うことも一理ある。母さんの言っていることは真っ当で正しい。流石、長いことを生きている大人なだけのことはある。だけど……


「わかったよ母さん……俺、塾には行かない」


「伊吹……わかってくれてありがとう」


「塾には行かず、自力で勉強をする」


「伊吹!」


 母さんが鬼のような形相で俺を睨む。俺は思わず怯みそうになるが、話を続ける。


「チャンスを1回だけくれ! もし、自力で勉強してT大に合格できなかったら、全てを諦める。もう2度と国を変えるだなんてことを言わない。真奈とも結婚する。だけど、もし、T大に合格したら……俺の夢を叶えさせて欲しいんだ。俺の幼稚園の頃だった夢を。幼馴染との約束を果たす!」


「はあ……わかったわ。それでいいよ。自力の勉強には限界がある。塾にも行ってない子がT大に合格したなんて話は聞いたことないもの。それで綺麗さっぱり諦めてくれるなら1度だけ挑戦を認めてあげる」


「ありがとう母さん!」


「はあ……私も嫌な母親になったわね。子供の不合格を願うようになるなんて」


 それだけ言うと母さんは洗い物を再開した。母さんの表情は見えない。けれど背中が物悲しさを語っていた。


 俺は親不孝者かもしれない。母さんは俺と愛が結婚することを望んでいない。それは小さい頃からそうだった。昔、俺と愛が結婚の約束をしたと話した時も怒られたっけ。


 俺は親の意向に逆らっている。高校生にして初の反抗期だ。ごめん母さん。でも、俺は愛への想いを貫きたいんだ。だから、俺は努力する。この国を変えるために! みんながみんな好きな相手と付き合い結婚できる自由恋愛の権利を掴み取るために!


 明日から……いや、今から勉強するんだ。T大に入るために! 学校の勉強だけじゃない。色んな資格を取り、賞やコンクールにも挑戦して受賞する。そうした実績がなければ、T大に入ることはできない。これはいばらの道だ。けれど、踏破不可能な道じゃない。俺はやってやるんだ。


 拳を握りしめて、俺は自室へと向かった。そして、長年座ってなくて誇り被っている勉強机に座る。鞄から教科書を取り出して、読む。数秒後、飽きた。なんだこれ。既に授業で読んだ範囲をもう1度読むって退屈すぎない? え? T大の受験生みんなこんなことやってるの?


 そうだ。ノートを見よう。ノートになにか大切なことが書いてあるかもしれない。そう思って、俺はノートを開いた。そこには落書きしか書いていないしょうもないノートしかなかった。


 あ、そっか。俺まともにノート取ったことなかったや。


 え? 自主学習の仕方がわからない。勉強ってどうやってやるの?


 やばい。早速挫折しそうだ……くそ、誰か、勉強の仕方知っている人いないかな? こう、努力の天才的な人。その人に師事したい……あ、いた。努力でウチの進学校に入った俺の幼馴染……愛!

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