第5話 気まずい雰囲気
討論の授業が終わった後、俺は愛の近くに行き話しかけようとした。
「愛……」
俺が愛を呼ぶが、愛は返事をしない。そのまま、俺の存在などなかったかのように教室から出て廊下に向かう。
「ま、待ってくれ愛……」
俺はなぜ愛と話がしたいんだろう。自分でもわからない。愛は幼馴染で昔、結婚しようと約束をした相手。だが、その約束は法律のせいで果たされることはない。俺には、将来結婚する相手がいて、彼女以外の女子に好かれる必要はない。なのに、なんで俺は愛の気を引きたいんだろう。
愛は早歩きで廊下を歩いていく。女子にしては速いスピードだ。俺も追いかけようとしているけれど中々追いつけない。
「愛!」
愛は立ち止まり、そして、ある空間に入って行った。そこは俺が決して立ち入れない場所。俺だけじゃない。どんな聖人君子でも偉人でも1/2の確率で立ち入ることが許されない場所。その名は――
「女子トイレ……」
女子トイレに逃げ込まれてしまってはもうどうしようもない。まさか、女子トイレの前でずっと張っているわけにもいかない。それはただの変態だ。仕方ない。教室に戻るか。
愛はトイレを我慢していたというわけではないだろう。ただ、俺と話をしたくなくて、それで女子トイレに駆け込んだ。その事実で俺の心が少し痛む。やはり、俺が愛の味方をしてやれなかったのが悪いのだろうか。
俺は愛の事情を知っている。愛は本気で両親が自由恋愛の果てに結婚したカップルであることを誇りに思っている。小学校に上がる前から、愛は自分の両親がお互い愛し合って結婚したことを嬉しそうに語っていた。みんなは愛の両親に否定的な目を向けていたけれど、俺は愛の両親を肯定していた。
その俺が討論会で自由恋愛を否定する発言をしたんだ。愛が怒るのも無理はない。俺は愛と2人きりの時だけは、自由恋愛もいいものだと言っていたのに。みんなの前だと吊るし上げられるのが怖くて、自分の本当の気持ちを言えなかった。
俺だって、自由恋愛を否定したくない。俺が世界で一番好きな女子は愛なんだ。本音を言えば、愛と恋人になり、結婚して、子供もできて……と言った将来を望んでいる。
だけど、こんなこと言えるわけがない。この想いを口にしたら、叶えたら、実現したら、俺は施設に送られてしまう。
結局、その日は愛と会話しないまま放課後を迎えた。俺は落ち込み、俯いたまま下校した。校門に行くと見慣れた車が止まっていた。赤の軽自動車。真奈の車だ。
真奈は俺に気づくと車のウィンドウを開けて、手を振ってきた。今日の真奈の髪型はカチューシャで前髪を上げて額を見せているスタイルだ。この髪型の真奈は頭が良さそうに見えて結構好きだ。
「やっほー。伊吹くん。たまたまこっちに来る用事があったから、来ちゃった」
「そうなんだ」
「伊吹くん? 元気ないね。どうしたの?」
真奈は心配そうに俺の顔を覗き込んだ。やっぱり俺はお姉さん的な雰囲気の女性に弱い。AIもそれを承知の上で俺と真奈をマッチングさせたのだろう。
「いや。なんでもない」
「ねえ。乗ってく? 家まで送ってあげようか?」
「ありがとう真奈。お願いします」
特に断る理由もなかった俺は、真奈にお礼を言い助手席に乗った。
「学校懐かしいなあ。私も10年くらい前までは高校に通ってたし」
「そうだね」
真奈の言葉に改めて、俺と真奈の間にそれなりに歳の差があることを思い知らされた。実に一回りくらい違う。俺が10歳以上年下の子に手を出したら、間違いなく犯罪だろう。
「真奈はさ……自由恋愛をしてみたいって思ったことはないの?」
「どうしたの急に?」
「今日、学校でさ。討論会があったんだ。テーマは自由恋愛に賛成か、反対かってね」
「私は――伊吹くんに出会う前だったら、自由恋愛でもなんでもいいから恋愛してみたかったかもね。ほら、私って中々パートナー見つからなかったじゃない? 周りがどんどんAIによってパートナーを割り当てられていく中、私だけ恋愛経験がないまま歳を取っていくのが凄く怖かった」
真奈の声のトーンが下がる。当時のことを思い出して、気分が落ち込んでいるのかもしれない。
「AIは遺伝子に問題がある……次世代に悪影響を及ぼす遺伝子を持つ個体にパートナーを割り当てないって言うでしょ? 私は過去に犯罪歴もないし、経歴だって問題はないはず。なのに、パートナーが誰も現れない。これって、私が淘汰される存在だと思って不安になったんだ」
若くしてパートナーが見つかった俺には真奈がどれだけ不安な思いをしたのかわからない。AIは複雑な計算を何度も何度も行って、最も適したパートナーを決定する。この最も適した組み合わせというのが中々に曲者で、第2候補、第3候補に選ばれる人物は全くお声がかからないのだ。真奈と相性がいい相手には、他にもっと相性のいい女性がいた。だから、2番手3番手の真奈に声が中々かからなかったと俺は見ている。
「でも、今はアフロディーテ・プロジェクトがあって良かったと思っている。変な男に引っかかることもないし、伊吹くんとも出会えたからね。私と伊吹くんは本来だったら出会うはずがない2人なんだよ? 歳は離れているし、同じ県内に住んでいるけど市は違う。普通に生活していたら絶対に出会うことがない2人。それが出会って結ばれる。これって結構ロマンチックだと思わない?」
「ある意味そうかもね」
膨大な量のデータを組み合わせて計算して出会うはずのなかった2人が出会う。数字が生んだ奇跡と言っていいかもしれない。
「もし、自由恋愛だけしていたら、私は伊吹くんを選ばなかったと思う。高校生を恋愛対象にするだなんて普通じゃ考えられないもの。そう言った常識を取っ払ってくれたAIには感謝しているの」
俺も……もし、自由恋愛をしていたら真奈と出会うことはなかった。自由恋愛の市場では、高校生は高校生同士と恋愛するという意識があった。その意識がある状態なら、俺は同じ高校生で幼馴染の愛に真っ先に告白していたと思う。
「伊吹くんは? 自由恋愛とかしてみたかった?」
「なに言ってるんだよ真奈。こんな素敵な彼女がいるのに他の女に浮気するわけないだろ」
嘘偽りある言葉。だけれど、こうでも言っておかないと真奈は機嫌が悪くなる。真奈は独占欲が強い。真奈の境遇や環境を考えれば仕方のないことだと思う。俺と真奈では意識の差がどうしてもある。俺は、真奈ともし破局したとしても次がある可能性が圧倒的に高い。けれど、真奈は俺を逃したら、もう2度と誰とも恋愛できなくなるかもしれない。それだけ長い間、真奈は待たされ続けたのだ。
愛に気持ちが傾いている俺が言えたことじゃないかもしれないけれど……俺は、真奈にも幸せになって欲しいと思う。
「ふふ。ありがとう。伊吹くん」
真奈は上機嫌に笑った。俺は一瞬ホっとした。だが――
「例え、嘘だったとしても私のためについてくれた嘘なら嬉しいよ」
その言葉で俺は少し寒気がした。俺が嘘をついたことがバレている? まさか、俺が本心では別の女の子が好きだってことに感づいているのか?
「なーんてね。あはは。びっくりした?」
真奈はまた笑い出した。先程の凍えるほど冷たい表情と声とは違う。温かみのある表情になった。
「伊吹くんが嘘つきじゃないって信じてるから」
最後に釘を刺された。有村 真奈。俺が思っている以上にこの女は曲者かもしれない。
「さあ、着いたよ。伊吹くん」
真奈が車を停める。窓ガラス越しに俺の家が見える。築13年の何の変哲もない一軒家だ。
「ああ。ありがとう真奈」
俺が車を下りようとすると、真奈が目を瞑って唇を少し前に突き出す仕草を見せる。これは所謂キス待ち顔というやつだ。ここまで送ったお礼にキスをしろと無言の圧力を俺にかけてくる。
俺は無言で真奈と唇を合わせた。俺の唇に柔らかい感触が伝わってくる。軽く触れた後、俺はすぐに唇を離した。
「ふふ。これで明日からも頑張れそうだよ。伊吹くん。またね」
「ああ。またな」
俺は真奈の車から降りた。まだ、唇に感触が残っている。キスをするのはこれが初めてというわけではない。ただ、俺のファーストキスの相手は真奈だ。そして、当たり前のように真奈以外の女性とはキスをしたことがない。
俺はもう、真奈以外の女性とキスをすることはないのか。そう思うと少し物悲しくなった。
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