偽白

福津 憂

偽白

 伸びた髪にハサミを入れられている間の会話は、僕の写真が貼られた図鑑の一ページを作られているようなものだ。幅広い年齢の子ども—例えば、漢字の読めない低学年や、草や花に興味のない子ども—にも手にとってもらえるよう、写真や漫画の多い図鑑だ。文字は少なく、簡単で表面的で端的な説明書きが数行並んでいる。散髪の間の僕は、その図鑑を作るために会話をする。

年いくつ?学校は?

ヒト。生後十九年。学生。


 僕と彼は一時間弱の暇を埋めるため、どうでも良いような会話を交わし始めた。そしてそれらは大抵、誰にでも当てはまる質問から始まる。<いつまでお休みですか?年末は何を?>僕は適当に、それらしい答えを言う。彼もそれらしく相槌を返す。彼らは誰にどの質問をすれば良いか、経験的に知っている。労働世代の中年には年末の仕事納めの日程を尋ねるし、十代の学生には部活のことやビデオゲームについて聞き出そうとする。それなりの年の人間は大抵働き、大抵の勤め人には仕事納めがあり、大抵の学生は部活かビデオゲームに打ち込んでいるからだ。そして彼らは時折、恋人について質問をする。カウボーイハットのようなつばの広い帽子を被った彼は、首元をタオルなり冷たいビニールなりで幾重にも巻かれた僕から、恋人について聞き出そうとした。それはやはり自然な流れでなされた質問であり、僕のような年代の人間には、恋人の一人や二人(倫理的な話は置いておいて)いることが自然なのだろう。


 その時の僕は、数日間部屋に引きこもって小説を読んでいたせいか、前日に観た映画—自らの本名を決して明かさず、質問にはひいきの野球チームの二塁手の名を答える男が主人公である—の影響か、気がついた時には嘘が口をついて出ていた。


 「せっかく帰省したんだから、地元の友達と遊ばなくっちゃね」金色に染まった髪の彼はそう言う。

「こっちの友達とは特に遊ぶ予定はなくて」何年も洞窟に篭っていた仙人のように、無秩序に髪の伸びた僕は答える。

「そっかー」彼は僕の髪を切り刻みながら呟く。「彼女はこっちにいるの?」僕が暇にならないよう気を回してくれたのか、彼はそう会話を続けた。

「いや、そうではないです」僕は素直に答える。

「じゃあ向こうで作ったの?」

「そんなようなものです」

「違うの?」

「いえ、そんな感じです」

僕は嘘をつく気はなかった。最初の否定の<いや>には、恋人なんていないという意味があった。けれど、恋人は向こうにいるのかと尋ねられた時、僕は不意に変な気を起こした。


 かつてから、僕はたまに考える時があった。髪を切られている間、僕らは自分の人生を語る。自分が何者であって、何を好み、何をしているのか。それは多くの場合、互いの理解を深めるためではなく、ただ時間をつぶすためだけに語られる。その話の内容に大した価値はない。近頃やりこんでいるゲームを聞かれた時、プレイをしたことのないタイトルを挙げることにどんな罪があるだろうか。僕は考えていた。その独白において、全てを偽ることは可能だろうか。例えば、通ってもいない大学の学生になり、やったこともないスポーツの地区大会に出場し、敗退することができるだろうか。ハサミの入るチャキチャキと言う音だけが響く椅子の上で、僕らは誰にだってなることができる。それが自然な人物である限り。


 僕は全身が映る大きな鏡を前にして、自分に恋人を与えた。心臓が微かに鼓動を早める。

「どれくらいなの?」彼はそう尋ねる。どれくらい、とは交際期間のことを言っているのだろう。

「それほど長くはないです。一年半くらい」僕は反射的に答える。それがまずかった。

 「君の中で一年半は『短い』部類に入るんだね」彼は驚いた様子でそう言った。一年と半分付き合えば、普通の人間は十分長続きだと感じるのか。僕はそのことを全く知らなかった。僕は焦り、ちぐはぐな回答をした。

「数ヶ月で別れるのはちょっと……僕はもっと、大学生活を一人に捧げて、思い返した時に懐かしむような……」

「いずれ別れる前提なんだね」

「……先のことはわからないので。ただ、すでに無くした物に関する小さな頃の記憶って綺麗じゃないですか」僕はそう答える。「それと同じようなものです」

僕の回答はあまりに自然ではなく、彼はその時点で違和感を抱いたかもしれない。

けれど、僕がそう言うと、彼は大きく笑い、君みたいな理由で恋愛をする人間は初めて見たと言った。そして、それは彼女には伝えない方がいい、と僕に忠告をした。


 「そうします」僕も彼にそう笑顔で返す。けれど、その日僕の中に作られたその女性は、そんなことを気にも留めない人間だった。僕も彼女も、日々を埋めるためではなく、埋めた日々を失うために互いを利用していた。僕らは、自分たちがやがて別れることを互いに暗黙の了解としていたし、彼女はむしろ僕のその思考について共感していた。川端康成に倣った彼女は、僕を植物園に連れて行き、目に入る草花の名前を全て僕に覚えさせた。あれが夾竹桃で、これがアベリア。彼岸花はどこ?それはあっち、と言うふうに。

僕らはやがて味わう孤独を最大限に鋭く研ぐために、互いに身を寄せ合っていた。


 「へーそうなんだ」彼はハサミを動かし続ける「出会いは?同じ学部?」

「いえ、学部は違います」

「じゃあサークル?」

「いえ、図書館であった、ボランティアみたいなものです」僕は必死に想像力を働かせ。架空の日々を作り上げた。


 僕らは積極的な人間じゃない。学部やサークルが被り、それなりの容姿と人間性を持った人間がなるべくしてなった関係ではない。僕らはもっと静かな場所で出会った。静かな場所、図書館だろう。けれど、『図書館で出会いました。ちょうどお互いが同じ棚の同じ本に手を伸ばして』なんて話はきっと信じてもらえない。いかに経験のない僕であっても、世界がそれほどに空想的な場所でないことは分かる。ならば、図書館でのボランティア活動にしよう。近隣の中学校へ行き、ビブリオバトルを教える。生徒たちに読書の素晴らしさを広める活動だ。僕らはそこで知り合った。同じ大学の、学部の違う、静かで穏やかな女性。そのころにはもう、彼女との日々の記憶は半分ほどが出来上がっていた。僕の虚しい創作活動によって蓄えられてきた偽りの記憶が、彼女の姿とぴったり重なっていった。


 「そうやって出会った彼女が、体を重ねる相手になったんだね」僕らの仮想的な出会いを聞いた彼はそう言った。実際のところはより直接的で、フランクな言葉遣いだった。

 「それはそうですけれど」僕は狼狽を隠しそう答える。目の前の鏡を見る。僕の顔は少し紅潮していた。それは思いがけない質問をされたからに他ならなかった。その日僕が作った彼女と僕は、性的欲求だとか、そう言った動物的な欲求とは少し違った関係性だったからだ。僕らの体が一度も触れ合わなかったわけではない。列車を待つ寒々としたホームで、缶コーヒーを握り、熱を帯びた彼女の手のひらが、僕の冷たい指先を包むことだってあった。けれどその先の現実的な彼女の姿は、僕には想像できないでいた。


 「悪かった。もう少し言葉を濁すべきだったな」彼はそう謝った。困った様子の僕を見て、うぶな人間だと思ったのかもしれないし、僕のそれが焦りであることに気づき、同時に僕の虚言をも見抜いたのかもしれなかった。そしてそれきり、彼は踏み入った話をしようとしなかった。


 「彼女に髪型のリクエストとかされたりする?」僕の頭はだいぶ小さくなり、彼は毛先を整えながらそう聞いた。

「いや、彼女はあまり僕の容姿に興味がなくて」僕は答える。「伸びてきたね、とか。ただその程度です」

彼女にとって僕の見た目は、それほど重要な事柄ではなかった。何しろ僕のような男と付き合うような人間だ。周期的に人間と仙人を往復する僕の髪が、例え短くあろうと長く不格好であろうと、それはただ髪の短い僕、髪の長い僕でしかなかった。


 それから僕らは住んでいる場所の話をした。寮に異性を入れると退学になるとか、男子寮と女子寮は別れているとかだ。学生寮に住んでいた頃の記憶を利用し、脆く不安定な嘘を真実の梁で支えていった。嘘をつくのには頭がいる。全くの虚構だけで物語を作るのには、途方もないほどの思考力や、俊発力や、適切な勘が必要だ。僕にはその才能はない。だから真実を混ぜる必要がある。齟齬が生じず、普遍性があって、驚愕しすぎない程度の真実。そうやって僕の虚構図鑑は出版された。


 やがて散髪は終わった。ハサミが置かれ、切られた毛髪が吹き飛ばされ、僕は鏡を見る。どこにでもいるような、清潔な、小さくまとまった髪。その普通の髪型が、僕には似合っていないような気がして仕方がなかった。僕は礼を言い、代金を払うと、小さなドアベルのついた扉を押し開く。不思議と寒さは感じなかった。僕の中は高揚感で満たされていた。銀行の金庫に押し入り、紙幣という紙幣に全て可愛らしい熊のスタンプを押しまくったような、夏場の深夜に海水浴場へ行き、海岸線に沿った砂の長城を築き上げたような、そんな紅葉を感じていた。


 バスの時間を待つ必要があった僕は、近くの百貨店に立ち寄り、本屋へ行って文庫本を数冊買った。そこに着くまでのありとあらゆる鏡で—それは華やかなショーウィンドウのガラスであったり、エスカレーターの脇に設置された鏡だったりした—僕はやはり違和感に包まれていた。この小綺麗な髪型が目に入るたび、やけに嫌悪感を抱いたのだった。僕は家に帰ると熱いシャワーを浴び、頭を洗った。一度では違和感が拭えず、もう一度洗った。それでもなお、脱衣所の鏡に映る僕は滑稽な頭をしていた。


 その夜の話はこれで終わりだ。僕の話を聞いた人は皆、僕のことを見栄っ張りだと言った。僕にだって、あの夜の不思議な衝動を理解することができない。恋人がいないことに対し劣等感を感じていたとしても、なぜ髪を切られながら嘘をつく必要があるのだろうか。そもそも、僕は人と話すことを好まない。彼女はいない、そういえば、話はそれ以上続かない。僕は常にそうしてきたのだ。ただ、あの夜は、そうせずにはいられなかった。


 まるで恋人の葬儀に出た帰り道のような、そんな夜だった。

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偽白 福津 憂 @elmazz

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