右の者、懲立場三年の刑に処す

嵐山之鬼子(KCA)

◇前編◇

 それは、仕事始めに続く会社全体でのちょっとした新年会も終わり、本格的に業務を始めようかという1月某日の午後7時過ぎの話。


 「あの……宮江さん、ちょっといいですか?」 


 幸いにして経理部二課は納期の差し迫った仕事はまだない。そのため、「今日は珍しく定時で帰れそう」と、ちょっと浮かれて本日分のPC作業の〆に取りかかっていた彼女に、隣の席の1年後輩である佐倉麻紀梨(さくら・まきり)が話しかけてきた。


 「ええ、構わないけど、何かしら?」

 「宮江さんはもう知ってるのかもしれませんけど、岸野課長と人事部の琴嶺さんの結婚式が2月半ばに決まったらしいんです。ウチの課からも皆でお祝いしようと思うのですけれど、カンパの参加、お願いできますか?」


 確かに宮江愛莉(みやえ・あいり)と琴嶺花蓮(ことみね・かれん)は高校大学を通じての同級生であり、部署こそ違うものの同じ会社に就職したこともあり、長年親友と称するにふさわしいつきあいをしている。

 実際、彼女も既に花蓮からの披露宴への招待状を受け取っており、相応のお祝いを用意するつもりだった。


 「宮江さんは二次会だけでなく披露宴の方にも出席されるでしょうから、二重になって申し訳ないのですけど……」


 なるほど、ふたりが親しいことを知っている麻紀梨は、その点を気にしていたらしい。


 「問題ないわ。これは二課の身内としてのお祝いの分ですもの。おいくらかしら?」


 当日のご祝儀なども必要なことを考えると、正直嬉しくはない出費だが、この会社は未だやや古めの日本的体質が幅を利かせている。些細な金をケチって職場で気まずくなるのは御免だった。


 「あ、はい、3000円です。すぐでなくても、今月中なら大丈夫です」

 「いえ、ちょうど財布に余裕があるから、今渡しておくわね」


 彼女が今朝銀行でおろしてきたばかりのきれいな千円札3枚を、麻紀梨は大事そうに受け取り、小さな帳面に書かれた二課の人名から「宮江」の項目にボールペンで丸をつけた。


 「参考までに聞くけど、何を買うつもりなの?」

 「えっと……いい感じのチェストボックスが知人のツテで手ごろな価格で買えそうだから、それがいいかなって」


 収納家具類は、どこの家庭にあっても相応に必要になるだろうから、無難な選択と言えるだろう。


 「そう。ならば、わたしからのお祝いは別のものを考えるべきかしらね」


 実は未だ何を贈るか決めかねている彼女は、心の中のリストに「チェストボックス ×」と記入する。


 「同じく参考までに聞かせてほしいのだけど、佐倉さんが考えていた第二候補は何かある?」

 「あの、予算にもよると思うんですけど、銀食器のセットなんかもいいかなって、ちょっと思いました」

 「へぇ、悪くないわね。今度お店を回って、良さそうなのを探してみようかしら」

 「あ、ネットの通販サイトでも、結構いろいろありますよ」


 そんな他愛ない会話を麻紀梨としながらも、彼女は的確なタイピングで表の空欄を埋めてExcelファイルを完成させていく。


 「──よし、これで終了っと。それじゃあ、今日はそろそろあがらせてもらうわね」


 時計を見ればそろそろ午後7時半を回ろうかと言う頃合いだ。いつもはだいたい8時半から9時前に退社するのが普通だから、今日は1時間ほど早くあがれるようだ。


 「はい、お疲れ様です」


 ちなみに、同じ二課の人間は、今日はくだんの岸野課長も含め半分くらいがすでに退社している。残ったメンツもおそらくはあと30分以内に仕事を終わらせるだろうから、ここで帰ってもことさらに気まずい雰囲気ではない。

 佐倉たちに「お先に失礼します」と挨拶してから、彼女は鞄を手にエレベーターで2階に下り、制服から私服に着替えるべく女子更衣室へと向かった。


 世間の趨勢に漏れず、彼女の勤めるこの槻方電器も節約節電を励行しており、トイレや更衣室などの空調は最小限に抑えられている。


 肌寒さをこらえながら、彼女はピーチカラーのドビーストライプブラウスとグレーの千鳥格子のベスト、膝丈の黒のマーメイドスカートを脱ぎ、サーモンピンクのロングブラとガードルにライトブラウンのタイツだけという格好になった。


 なにぶん大卒入社4年目になる一介の事務職系女子社員なので、モデルやグラビアアイドルのように見事なボディラインを維持しているわけではない。

 しかし、170センチ近い長身で、全体にややスレンダーな体型ながら、要所は相応に女らしい曲線を描いている。引き締まったウェストからまろやかなヒップ、そしてムッチリした太腿にかけてのラインなどは、特に魅力的だ。


 手入れを入念にしているらしく肌も白く滑らかだし、勤務中は頭の後ろでまとめているシニョンを解き、ダークアンバーに染められた癖のないロングヘアが背中まで滑り落ちる様を見れば、大概の男は十二分に劣情をそそられるだろう。


 顔つきは、やや凹凸に乏しい典型的日本人の「醤油顔」タイプだが、決して不細工というわけではないし、メリハリの利いたメイクでうまくカバーしている。総合的に見れば、男性100人中5、60人くらいは「そこそこイイ女」と評するのではないだろうか。


 もっとも、そんな男の目線からの評価なぞ我関せずと、寒さに急かされた彼女は、さっさとリボンタイ付きのAラインブラウスと膝上10センチのワインレッドのギャザースカートという格好に着替えていたが。

 ブラウスの上からVネックのロングカーデガンを羽織り、シンプルなオフィス用サンダルから、7センチヒールのファーブーツに履きかえる。ロッカーに掛けてあったキャメルカラーのスカラップコートに袖を通せば、着替えは完了だ。


 もちろん、女の身支度がそれだけで済むはずもなく、更衣室の隣りにある女子手洗いで化粧と髪型を軽く直す必要があったが、そこは慣れているので5分とかからない。


 洗面所の前で鏡を覗き込みながら、ルージュを引き直していた彼女は、そこに映った自らの姿に、ふと苦笑めいた表情を浮かべる。


 なぜならば。

 本来、その「彼女」という三人称は事実を正しく言い表すものではなかったからだ。


 そればかりではない。

 家族も含めた周囲の人間から「宮江愛莉」と呼ばれ、26歳の独身OLとして扱われ、今となっては“彼女”自身すら違和感を抱くことは滅多になくなってはいるものの、その本来の名前と立場はまったくの別物だった。


 そう、2年程前までは、“彼女”ならぬ彼こそが、この会社の経理部二課に勤務する男性、岸野白波(きしの・しらなみ)だったのだ!


  * * * 


 5年前、刑法が改正されて「懲立場刑」と言われる刑事罰が採用されたことを覚えていますか?

 リベラル派議員の突き上げによって刑法の補則として盛り込まれたこの刑は、セクハラやパワハラなどのハラスメント系の罪や、痴漢・婦女暴行などの性犯罪を犯した者に、主に適用されます。


 制定当時はそれなりに話題になりましたが、実際にその判決を下されたという報道がないことから、現在ではほとんどの人間はその存在を忘れているでしょう。2年前の私も、そのひとりでした。


 しかし、実態は異なります。

 この刑罰の実刑判決が下った場合、人権保護その他の観点から、事件そのものに対する報道管制が敷かれ、極力関係のない人間には情報が漏れないようにされているのです。


 なぜ、それを私が知っているかと言えば──そう、実際にその「懲立場刑」の判決を受け、執行された(より正確には、現在進行形で「されている」)からに他なりません。

 罪状は、「直属上司の立場を利用した、悪質なパワーハラスメントおよびセクシャルハラスメント」。


 言い訳になりますが、その頃の私には、自分がセクハラやパワハラをしているという意識は皆無でした。


 2年前の3月。私は、27歳という世間的にはまだまだ若僧と呼ばれるであろう年齢で、係長兼課長補佐の役職につき、春から新設される第二課の課長に昇進することも内示を受けていました。

 無論、これは純粋に私の実力と言うよりは、母方の祖父が社長を務めるという縁故(コネ)があってのものでしょう。


 しかし、当時の私は、うすうす自覚しながらもそれを認めたくなくて、空回りに近い無駄な努力を続けていたように思います。


 そんな中で、直属の部下であった女性、宮江愛莉さん(当時24歳)に対して、冷静に考えると随分と職場で無理を強いていました。

 彼女にも自分の仕事があるのに、しばしば秘書まがいの業務や雑用をさせていましたし、スキンシップのつもりで、馴れ馴れしく肩や背中をたたいたり触ったりもしていました。思い返せば、女性にしては高めの背丈を揶揄するような事も言った記憶もあります。


 繰り返しますが、誓って当時の私自身に性的な意図や嫌がらせめいた気持ちはありませんでした。むしろ、彼女のことは同じ大学の後輩ということもあって妹分的な親近感を持っていたくらいです。


 しかし、人間の関係性というものは、一方通行で成り立つものではありません。


 いかに、こちらが相手に親愛の情を抱き、重用しているつもりだとしても、それを相手が嫌がり、負担に思っていたなら──そして、客観的に見てそれが「事実」なら、私が弾劾され、断罪されるのも無理のない話なのです。


 前述のような罪状で告訴され、裁判所で怒りと軽蔑に満ちた視線を彼女に向けられた時、私は初めて自分の罪を自覚しました。


 エリート街道と言うとやや語弊がありますが、俗に言う「いいとこのボンボン」で、挫折らしい挫折も知らず、その種の悪意・敵意を向けられることに慣れていなかった私は、自責と後悔の念から早くも心をポッキリ折られていました。

 それ故、弁護士にも罪を認めることを伝え、原告側の主張に殆ど反論することもなく、私は下された判決を受け入れたのです。


 原告側の求刑は「懲立場三年」という耳慣れない代物でしたが、私が罪を全面的に認めたこともあり、裁判長による判決でも、それがそのまま採用されました。


 そもそも、この「懲立場」という刑罰には、大きく2通りの種類があります。

 ひとつは、刑罰を受ける者を、原告と同様の立場に強制的に仕立て上げ、定められた期間、その立場で社会生活させるというもの。これは、痴漢を始めとする性犯罪者(その大半は若い男性)に適用されることがほとんどです。


 もうひとつは、原告からの申し出に基づき、一定期間、原告と被告の立場を入れ替えるというものです。ハラスメント系犯罪に対して施行されることが多く、私の場合も、こちらが選択されました。


 いずれにせよ、立場を変える/交換することで、被害者がどんな気持ちだったかを身をもって体験させる──という狙いがあるのでしょう。


 もっとも「立場を交換する」なんて言われても、当時の私は、せいぜい「彼女の代わりにOLとして働かねばならない」ぐらいの事だと思っていました。加えて、女子社員用の制服を着せられることなども覚悟はしていたつもりです。

 いえ、そのコト自体は間違いではありません。しかし──決してそれだけではなかったのです。


  * * * 


 「はい、これで刑の執行に伴うすべての準備措置が完了しました」


 処置台の上で、簡素な薄桃色のローブを着てウトウトしていた「彼女」は、そう声をかけられて、ハッと目を見開く。

 ──いや、成人男性にしては華奢な体格だが、胸部の膨らみは皆無だし、よく見れば僅かに喉仏らしき突起も確認できる。全体に中性的な雰囲気ではあるが、その人物は「彼女」ではなく「彼」だった。


 ただ、先程までの「処置」の結果として、頭髪と眉毛、睫毛を除く全身の体毛を永久脱毛され、さらに肌もエステのスペシャルコースで磨きあげられたため、すっぴんにも関わらず、元々ユニセックスな雰囲気がさらに女性的な印象になっている。

 そろそろ床屋に行くつもりだった伸び気味の髪を、女性向けのナチュラルショートにカットされたことも、その印象を助長しているのだろう。


 「もう終わったんですか?」


 全身に微妙な倦怠感を感じつつ、「彼」は処置台の上から起き上がる。


 「ええ。ただし、準備段階が、ですけどね」


 つまりこれからが本番ということだろう。

 内心ガックリしつつも、すでに司直の手で裁きを下された身としては逆らうわけにはいかない。


 「はぁ……で、今度は、何をすればいいのですか?」


 彼──本来は「岸野白波」という27歳の男性だが、昨日懲立場刑の実刑判決を受け、これから3年間は「宮江愛莉」として過ごさねばならない人物は、肩を落としながらも、担当執行官の次の指示を仰いだ。


 「まずは、心療科の岬先生の催眠暗示による特殊カウンセリングですね。これによって、言葉遣いや仕草を女性らしいものに改めてもらいます」


 しれっとした顔で、とんでもない事を言い出す執行官。


 「じょ、冗談ですよね!?」

 「いいえ、規定事項です。……ああ、人格を破壊するような「洗脳」とはまったく別物ですのでご安心を。これは、あなたの潜在意識に働きかけ、あなた自身が思う「女性らしい」言動をとるように仕向けるものです。

 また、向精神性の薬物を併用しますが、その薬物の効果が抜ける3週間後くらいには、暗示の効果も一緒に消えますから、心配はご無用です」

 「はぁ、なるほど。それなら、まぁ……」


 執行官の説明に、一応「宮江愛莉」は納得する。


 (もっとも、3週間もあれば、少なくとも言葉遣いに関してはおおよそ定着するでしょうが……)


 という内心の呟きは口にせず、執行官は続ける。


 「そのあとは、女性の服飾に関する基礎講義と実践。最後に、「宮江愛莉」個人のプロフィールの暗記となっています。社会復帰まで、丸一日しかないのでがんばってください。

 幸いにして、身長168センチ、体重53キロのあなたの体格であれば、本来の宮江愛莉の衣服を、ほぼ無理なく身に着けることも可能ですからね」


  * * * 


 そうして、わたしは、「27歳の男性」「槻方電器経理部に勤める係長」そして「岸野白波」という名前や身分、立場を全て剥奪され、代わりに彼女が持っていた「24歳の女性」「槻方電器で働くOL」としての立場、そして「宮江愛莉」という名前とアイデンティティをもって、3年間暮らすことになりました。


 どうしてそんな魔法みたいな事が可能だったのかは──実は未だによくわかりません。


 投与された薬物と催眠暗示の併用処置により、わたしが女性らしい口調でしかしゃべれなくなり、自然と女っぽい仕草をするようになったのは事実です。

 また、職場関連および住居の近所の住人と互いの実家には、私が受けた刑罰の内容を説明し、それに対して協力するよう公的機関が要請したとも聞いています。


 ですが──たったそれだけの事で、裁判後に周囲の人が全員、わたしを「宮江愛莉」、「彼」を「岸野白波」として扱うようになり、そのまま目立ったトラブルもなく日常が進んでいくなどということが、果たしてあり得るのでしょうか?


 「もしかして周囲の人間達は何らかの形で洗脳とかされていて、わたしたちが立場交換していることに気付いていないのでは?」とも思いましたが、色々考え合わせると、そういうワケでもないみたいなんです。


 たとえば、言動を女性らしくなるよう矯正されたとは言え、女としての知識は皆無だった当時の私を、懇切丁寧にサポートしてくれたのは、「宮江愛莉」の親友である琴嶺花蓮さんです。

 確かに、彼女のおかげで、わたしは半月足らずで、化粧やファッションを始め、普通の成人女性なら当然備えているはずの「女のたしなみ」を、何とか最低限は身につけることができました。


 一度、琴嶺さん──花蓮にどうして自分にそんなに親切にしてくれたのかを尋ねたことがありますが、「だって、わたしたち、お友達でしょ? 困った時はお互い様じゃない」と不思議そうな顔で返され、対応に困りました。


 あとになって思い返すと、上司や職場の後輩である佐倉麻紀梨なども、当時のわたしがしでかした(女として見れば)少々頓珍漢な言動をさりげなくスルーしてくれていたことが理解できます。


 どうやら周囲の人間は、わたしが本来は「岸野白波」であることは認識しつつ、現在の宮江愛莉としての立場に馴染めるよう、配慮してくださったようです。

 気遣われた側としては感謝すべきなのでしょうけど、容赦なく笑い者にされることも覚悟していた当時のわたしは、そんな風に緩い対応をされることに何とも言えない居心地の悪さを感じていたものです。


 ちなみに、原告側の「彼」の方も事情はほぼ同様であったはずですが、こちらは──少なくとも傍から見る限りでは──現在の立場に戸惑うこともなく、至極自然体で「槻方電器経理部の係長兼課長補佐・岸野白波」としての日々を送っているように見えました。


 いえ、認めるのは少々悔しいのですが、立場を入れ換えてひと月ほど経った頃には、「私」より彼の方が、職場における評判は、むしろ上になっていたと言えるでしょう。

 自分でも多少自覚があったのですが、以前の「私」は、書類仕事はそれなり以上にこなせるものの、どうにも周囲への気配りに欠けるところがありました。


 しかし、彼は、その点を非常に巧くやっており、自然と職場の雰囲気や作業効率もプラスの方向に変化していきました。


 本来の自分の役割(たちば)を、別の人間が、「自分」として、かつての自分以上に巧みにこなしている──その事実は、私の胸に小さな敗北感と落胆、そして不思議な安堵を与えました。


 「嗚呼、やはり自分は、“あの”立場にはふさわしくなかったのだ」

 「その責務を自分に代わって上手く果たしてくれる者がいて助かった」


 あえて言葉にすればそんなところでしょうか。


 ──ええ、お察しの通りです。かつての「私」は、内心、自分の立場に多大なストレスを感じていたのです。

 刑罰の結果とは言え、その苦痛から解放されたことは、わたしにとって大きな転機となりました。


 そのことをはっきり自覚した時から、それまでは渋々と言わないまでも必要最小限という感じでこなしていたOLとしての業務も、わたしは自ら進んで励むようになりました。

 なんと言うか……「自分も負けてられない!」という気持ちになったんです。


  * * * 


 人間と言うのは不思議なもので、嫌々やっていてた事柄に気分を切り替えて挑むだけで、思いがけない好結果を生むことがある。

 この時の「宮江愛莉」もまさにそれで、積極的かつ極力丁寧に現在の仕事に取り組むようになった結果、意外にやり甲斐を感じるようになってきたのだ。


 また、単純に仕事面だけでなく、「20代半ばの社会人女性」としてのコミュニケーションにも気を配るようになった。


 最大限良く言えばクール、普通に考えると無愛想としか言いようのない素っ気ない態度(本人に言わせると、単に内気で口下手なだけなのだが)を改め、可能な限り愛想よく笑顔を見せて会話するように努める。

 ミスした時はキチンと謝罪し、他人が困っている時は可能な限り力になる。

 また、それまで気遅れして敬遠していた女性社員同士の何気ない井戸端会議的なおしゃべりにも、思い切って参加するように心がけてみた。


 そういうある意味「あたりまえ」の事柄を、以前の自分はどうして実行できなかったのかと、「彼女」自身、後に回想して呆れている。


 ともあれ、そうやって自分の方から周囲との距離を縮めるよう努力すると、当然のことながら周りの反応もより好意的なものへと変わっていった。


 そんな風に周囲──とくに女性社員と気の置けない関係を築くにつれ、「彼女」のいわゆる女子力が少しずつアップしていったのも、ある意味必然だったのだろう。


 それまで「彼女」は、会社の制服はともかく、通勤用の私服は可能な限り中性的なものを選び、化粧も最小限のファンデと口紅くらいに留めていた。

 しかし、OLとして働き始めてから半月あまり過ぎた頃、女性の同僚たちの強い薦めに根負けして、クローゼットの中からフェミニンな装いを選んで身に着けてみたのだ。


 そして、いざそうしてみると、「綺麗な/可愛い服で装う」ことが、思ったより楽しいことに、彼女は気付いてしまった。

 一度それを自覚すると、あとはもう坂を転げるようなもので、懲立場刑を執行されてから3ヵ月が経過する頃には、彼女は同じ職場の女性社員の輪に、あらゆる意味で完全に馴染んでいた。


 試行錯誤の末、自分を極力魅力的に見せるための化粧テクも編みだしたし、当初の遠慮をかなぐり捨てて、自分の好みのスカートやワンピース、さらにはランジェリー類も財布の中身と相談しつつ、購入している。


 また、人目がある外だけでなく、マンションの自室にいる時も、若い女性にふさわしい部屋着姿でファッション誌や女性週刊誌を読み、女子人気の高いサイトをチェックし、花蓮や麻紀梨などと電話やメールで気軽にやりとりをするようになっていた。


 食の嗜好も変化し、アルコールより甘味類を好むようになり、その反面、スタイルを気にしてカロリー計算やシェイプアップのための運動にも気を配るようになった。その流れで、朝や休日はできる限り自炊し、次第に凝ったものが作れるようにもなっていた。


 かつての彼──「岸野白波」は、ごく少数の友人を除いてプライベートではロクに人付き合いがなく、(コネとは言え)出世頭だったのに恋人のひとりもいなかった。


 しかし今の彼女──宮江愛莉は、そんな「過去」が嘘のようににぎやかで楽しい毎日を送っているのだ。


 無論、社会人だから、大変や事や理不尽な事に遭遇することも決して皆無ではない。


 「さっきお茶出しに行ったんだけどさぁ、○×商事の営業のオヤジ、まーた、人の胸ばっかじろじろ見てくるのよね」

 「何、それ。最低ね!」


 だが、その事を愚痴ったり、励まし合ったりすることができる「仲間」がいる。それだけで、驚くほど気が楽で、ストレスも溜まりにくくなっていた。


  * * * 


 「私」がこの刑を受けることになった際、じつは危惧していたことがひとつありました。

 「自分が彼女にしてしまったのと同じ、セクハラ、パワハラを、立場を交換した相手にやられるのではないか」という恐れです。


 実際、「懲立場刑」の受刑者に対して、その者が過去に行ったのと同程度の犯罪やハラスメント行為を行っても、せいぜい書類送検のうえ不起訴処分になる程度で、本格的な罪には問われないのが不文律だそうです。


 けれど、「岸野白波」の立場となった彼は非常に紳士的でした。もちろん、普通の上司としての範囲で、仕事を頼まれたりミスを叱咤されることはありますが、それ以外の時は、他の二課の社員同様に接してくれています。


 一度、わたしと彼の両方と接点がある花蓮を通じて(さすがに面と向かって聞く勇気はありませんでした)質問してみたのですが……。


 「? 罪を弾劾した側の人間が、相手が誰であれ同様の罪を犯すなんて本末転倒じゃないですか。そもそも、理由なく女性に非道な真似をするのは男として言語道断です」


 ……という、何とも男前な答えが返ってきました。


 この答えを聞いてきた時の、花蓮の貌は見事なまでにデレデレで、マンガなら間違いなく瞳にハートマークが浮かんでいたでしょうね。


 あとにして思えば、この頃から花蓮と彼は「男と女としてのつきあい」をするようになっていたのでしょう。元々が長いつきあいの親友同士で気心が知れているのに加え、片方が「異性」の立場になったことで、友情が恋情に変化した──というところでしょうか。

 その後も、ふたりは順調に交際を重ね、ついには来月中旬に華燭の宴を催すまでに至った……というわけです。


 とは言え、単なる恋人としてのつきあいならともかく、法制度にまで関係する「結婚」となると、さすがに「懲立場刑」執行中といえど当事者同士での相談が必要になります。

 わたしの受刑期間は3年。ふたりの結婚話が具体化した昨年秋の時点では、本来あと1年ちょっとで刑期が終わり、その後は元の立場に戻ることになっていたのですから、なおさらです。


 しかし、わたしと彼は双方の弁護士も交えて何度か相談した結果、ある決断を下すこととなりました。

 それは、端的に言うと、「3年の期間が過ぎた後も、元の立場に戻らず、このまま互いに宮江愛莉、岸野白波として生きて行く」というものです。


 立場交換型の「懲立場刑」を受けた人の場合、その交換期間が長期にわたる場合、交換した立場の方に馴染んでしまうことも多々あり、元に戻ることが困難を伴うと判断された場合、両者の申し出に基づき、立場交換を無期延期することが法的に可能となっています。


 もっとも、これは普通5年なり10年なりのかなり長い年月を経た人を主な対象とした措置で、わたしたちのように3年、しかも実質2年弱でその決断を下すケースは、非常に珍しいようなのですが。


 花蓮というかけがえのない伴侶を得ることになる「彼」だけでなく、わたしの方もその決断に合意したのは、親友の恋路を邪魔したくないという気遣いもありましたが、わたし自身にも確かなメリットがある話だったからです。


 それは……。


 「ごめん、愛莉。待たせちゃったかな?」

 「いいえ、わたしもついさっき来たばかりよ」


 ほんの少し息を弾ませながら待ち合わせ場所に早足で来た長身の男性の問いに、わたしは笑顔を向けながら、さりげなく彼の腕に自らのそれを絡めます。

 ツイードの上下を着てコートを羽織った男性の方も、それをごく自然に受け入れ、わたしたちはふたり寄り添って歩きだしました。


 ええ、大方予測はつくでしょうが、この男性──同じ会社の広報部に所属する志筑大河くんは、今のわたしの恋人です。


 もともと、彼は「私」の高校の部活(写真部)の1年後輩で、大学こそ別だったものの、彼が入社して再会して以来、「私」にとっては数少ない気の置けない友人とも言うべき存在となっていました。


 大河くんの方も、(自分で言うのもどうかと思いますが)無愛想でとっつきが悪いものの、それなりに話の合う「私」とのつきあいを苦にせず、むしろそれなりに楽しんでいてくれたようです。ある意味、もともと相性が良かったのでしょう。


 「懲立場刑」によって「私」が宮江愛莉の立場になったことで、一時はその関係も損なわれるかと思われたが、「琴嶺花蓮&岸野白波」と同様、結局わたしたちも程なく親交を復活させました。

 そして、これまた「花蓮と白波」同様、わたしと大河くんの間柄も、親しい友人から男女の仲へといつの間にかシフトしていったのです。

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