axisymmetric

辻藤

第1話

 ある日目が覚めたら日常とは似て異なるなにかの只中にあった。いつも通りみたいなのにどこか違う部屋。テレビの電源を入れると、人間のようで人間ではない何かが人間の言葉で喋っていた。あまりの恐怖に立ち上がる。視界に入った鏡の中にあるべき自分の姿はなく、先程の化け物そっくりのなにかが映り込んでいた。今度こそ僕は叫び声を上げた。


 電話の音で目が覚める。時刻は午前8時。スマートフォンは僕の勤務する会社の名前を表示していた。

 あの日から数年が経過し、僕はもう元の日常に戻ることは放棄しこの世界に溶け込み生きることに決めた。手がかりを見つけようにもなんの手がかりすら見つけられなかったからだ。異世界から戻る方法なんて検索しても出てくるもののほとんどはライトノベル、たまにそれらしいことが書いてあっても所詮は異世界なんて体験したこともない奴らの作った都市伝説だ。諦めるより他に道はなく、なにより、ここでの生活だってそんなに悪いものばかりじゃなかった。僕は元々友人が少ないし、彼女にも振られたし、社会に出てから親元に帰ることもなかった。つまり、元の世界で会いたい人もいないのだ。

 まるで人間みたいな生き物たちを、仮にニンゲンと呼称しよう。奴らの見た目はほとんど人間と変わらない。大まかなシルエットで言えば一緒である。言語もほとんど同じだが、全て同じわけではないので困ることがある。社会の仕組みも大体一緒。同じ形を持っていると同じように進化をするものなのかと嘆息した。

「笹井さんおはようございます、事務の阿賀野です。朝から申し訳ありません。お客様から急ぎとのことでご連絡があり、担当の八幡さんと連絡がつかず…」

 ニンゲンの女の声。人間とほとんど変わらない。お客様として伝えられた名前は、同僚の八幡から僕が引き継ぐ予定の会社のものだった。今日、名刺を持って挨拶にいく予定だったのだが何かあったのだろうか。

「わかった、僕の方から折り返すよ」

 よろしくお願いします、と鈴の鳴るような声で阿賀野は電話を切った。スーツに袖を通しながら客先へのと電話をかける。言語の差異があるのに営業職なんて務まるものかと冷や冷やしたが、元の世界と同じ職なだけありなんとなく馴染めている。毎日ニコニコしながら「僕、勉強できないんスよ」とか言いながら、地方出身でちょっと物を知らないけれど愛嬌のある若者ということで過ごしつつ、差異を少しでも減らすために毎日暇さえあればテレビを見る。テレビが話題作りに万能なのは、こちらもあちらも同じだ。

 気合を入れるため大きく息を吸って電話番号を入力する。営業トークの明るい声色。平身低頭。曰く、数日前から八幡と連絡がつかないことに痺れを切らし、始業すぐ連絡を寄越してきたとのことだった。

 八幡の野郎、とひとりごちる。会社を辞めたいのだと繰り返す八幡は、近頃勤務態度が非常に悪くその尻拭いをするのももう三度目だ。フレックスタイム制だから僕は10時出勤だったのに。

 普通の日常みたいな何かを、生まれてこの方そうだったみたいに繰り返している。基本的には困らないのだ。異様とも言うべきニンゲンの外見にも見慣れた。

 玄関の扉を開く。行き交うニンゲンの姿、見慣れぬ構造をした建造物、知らない固有名詞の飛び交う会話。同じようでもやはり異なるものが立ち並ぶこの世界で、見上げる空だけが元の世界と同じだった。


 この世界で、ニンゲンとして生きて死ぬしかない。

 だから覚悟を決めた。僕はこの世界で命の終わりまで生きていくために一歩を、踏み出さなくてはならない。

 スマートフォンを取り出し、連絡先一覧から阿賀野の名前を探した。電話をしようとした途端着信が鳴る。

「お疲れ様です、阿賀野です。笹井さん、いまどちらに…」

 言い出すやいなや「あっ」と声が上がり電話が切れる。

 顔を上げると、こちらに走り寄ってくる阿賀野の姿が見えた。

「お待たせしました」

 阿賀野がはにかむように笑い、滑らかな黒髪が揺れる。会社には内緒で交際を始めて3ヶ月になる。ニンゲンの彼女。犬と狼が番うみたいなお似合いなようでちぐはぐな違和感。

「今朝の案件、大丈夫でしたか?」

「うん。八幡のやつには困ったもんだよな」

 そうですねえ、と相槌を打ちながら、阿賀野はこちらを見上げて小首を傾げる。

「でも、笹井さんと朝から電話できて役得と思っちゃいました。なんて、狙いすぎですか?」

 うーん、かわいい。アリだな。いける。僕は自分に言い聞かせるように繰り返す。今日こそやるぞ、僕は。

 いい感じのレストランで食事をして、いい感じの雰囲気になって、「もう少し一緒に居たいな」なんてどちらともなく言い出して。そして今夜、僕はこの世界に来て初めて異性と夜を共にする。

 僕の体もニンゲンと同じ姿なのだからきっと繁殖は可能だ。こどもまで作ればきっともう、あちらへのわずかな未練も消えるだろう。

 体勢を変えると、柔らかくベッドが軋んだ。

 指を絡める。相手の存在を確認するみたいに強く握る。違和感が僕を襲う。指がたった5本しかない事実が空恐ろしくてならなかった。

 隠していた布が取り払われ、阿賀野の乳房が顕になる。もっと発情期ど真ん中なら形が違えど乳房だと思うだけで下半身がそれはもうお祭り騒ぎだったろうに。穴がないのでどこを触れば良いのか分からず困惑する。動画ではどこを触っていたろうか。ニンゲンの身体にも慣れたと思っていたが、こちらは雄なので雌のことはよく分からない。人間とニンゲンの差異に思いを馳せていたらあんまり見ないで、と嗜められた。

 慣れきったと思っていた異形も、こうして接すると改めてその異和が感ぜられた。溶け合い同一化するように雌に包み込まれるあのゆるやかな人間同士のそれとは程遠い繁殖方法。覆い被さる姿勢はまるで捕食のように恐ろしく思えた。何度も動画で見て分かった気になっていたけれど実際にするとなると難しい。

 ニンゲンであることは分かっていても、人間であることを求めてしまう。ニンゲンのことを人間の代わりにしようとするから違和感が生まれるのかもしれない。犬とセックスする気で犬と対峙したらこうはなるまい。

 予習はしたし、阿賀野はかわいいし、なんだかんだと言えどもたつものはたったので性欲とは都合が良いものだ。囁きかけると彼女は小さく頷いた。

 阿賀野の、堪えたような声が響く。かわいい。ニンゲンのことはともあれ、彼女のことを気に入っているのは事実だ。阿賀野は動物で例えると鞠耳みたいだ。そういえば、鞠耳を表す言葉に、こちらの世界では出会っていない。存在しないのかもしれない。

 人間の生活に近しい動物、猫や犬といった愛玩動物、馬や鶏などの家畜は同じ名前で呼ばれている。しかし、人間から遠くなるほど存在しなかったり、名称が異なっていたりする。人間の生活に近しいとは思えないのにナマケモノがそのままナマケモノだったときには笑ってしまったが。

 動物園のふれあいコーナーで見る鞠耳、可愛くて好きだったのにな。この世界ではふれあいコーナーはもしやモルモットの独壇場なのだろうか。

 阿賀野を見やる。彼女の上気した頬が、病で死に近い人間のそれに思えてどきりとした。

 できるなら普通のセックスがしたかった。少しでも人間同士のそれと近い形になるようにと阿賀野との距離を縮める。

「甘えん坊さんみたい」

 阿賀野が僕を抱き返す。僕がしたいものとは到底違うけれど、それでも、………。


 朝日の眩しさに目が覚める。阿賀野はまだ眠っていた。

 窓の外に目を向ける。朝日が立ち登り、街を照らす。空は僕のよく知るものと同じ色をしているのに、そこから降り注ぐ光はまるで、おまえの生きる世界はこの歪な形をしているのだと無慈悲に僕に知らしめるようにさえ思えた。

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axisymmetric 辻藤 @nemo00

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