第四話 且元が豊臣の存続を願う理由
余人が聞けば
「徳川の世が到来することは仕方がないが、豊臣の家名は存続させたい」
という且元の願いを、である。
前述のとおり且元は秀吉個人への忠節など、
しかし且元にとっては、たとえ縁は切っても豊臣が存続しているということそれ自体が、これまで自分が命を削って積み重ねてきた時間が無駄ではなかったことの証明であった。
且元は自分の時間を削ってまでも、これまで豊臣のために仕事をしてきたのである。豊臣がなくなるということは、積み重ねてきた自分の過去がこの世からまったく消え去ることと同じであった。それは茶々や秀頼といった個人に対する忠節とはまた別の次元で、且元にとっての重大事であった。
それは謂わば、仏師が生涯をかけて彫った仏像を大切に思うのと同じ心理であった。それが傑作であろうが駄作であろうが、人生という時間の大半をかけて彫り進めた仏像が、目の前で破壊されて気持ち良い仏師はあるまい。
且元にとっては、自分の立場が仏師ではなく豊臣の家老に代わっただけであり、生涯をかけてこしらえたものが仏像ではなく豊臣家に代わったというだけの話であった。
自らが惹起せしめた朝鮮出兵の後始末を完遂できなかったという意味では、仏像に喩えていえば豊臣家は駄作だったのかもしれない。それでも、その豊臣のために投じた時間を無駄にしないためには、豊臣にはなんとしても、どんな形ででも存続してもらわねばならず、それこそが且元の願いであった。
豊臣の世に愛想を尽かしながら、なお豊臣家の存続を願う心理は、余人ならばいざ知らず、且元にとってはまったく矛盾しないことであった。
その且元が時折不安に襲われる。
家康はもしかしたら豊臣を滅ぼしてしまうつもりなのかもしれないという不安にである。
意外に思われるかもしれないが、茶々をはじめとする豊臣家の人々は、必ずしも秀吉と同等の、「豊臣の治世」を取り戻そうとしたり、それを本気で夢見ていたわけではなかった。彼等の願いはもう少し現実的だったのであり、大坂城の維持、それに秀頼の関白任官あたりが関の山であった。なにも徳川の主筋だからといって、ゆくゆくは秀吉なみの権勢を、などという大それた野心を抱いていたわけではなかったのである。
しかし関白任官は兎も角、大坂城の維持にこだわった点は、ようやく徳川に収斂されつつあった世を再び乱すおそれがある点において、時代の要請と相容れないものであった。もし豊臣が大坂城を捨てて公家への仲間入りを宣言したならば、徳川にはそれを妨げる理由はなく、また武力を捨てた豊臣が、徳川に対してどうという影響力も持ちはしなかっただろう。
徳川にとっては主殺しの汚名を敢えて着てまで豊臣を滅ぼす必要性はなくなり、ことはもっと穏便に終わっていたはずである。徳川の意向次第では、豊臣の関白任官もあり得たかもしれない。
それができなかったのは、大坂城という当代屈指の要塞を豊臣が捨てなかったがゆえであった。秀吉が秀頼を守ろうとして入れた大坂城が、却ってその命脈を絶たんと徳川に決意させたのだから皮肉なものである。
家康は慶長五年(一六〇〇)、九条兼孝を関白に据え、自身が将軍位に昇ったあとは、幕府の許可なく朝廷が独自に叙位任官することを禁じた。朝廷が、朝廷の理屈で秀頼を関白に任ずることを妨げたのであった。
それだけではない。
家康は天下普請と称して全国の大名を動員し、各地に公儀(幕府)の城を築いていった。関ヶ原合戦以降国内に合戦は途絶え、かかる天下普請はいまや、単に城を築くというだけではなく、軍事調練と同じ意味を持つものであった。
否応なく
(大坂城が包囲されつつある)
と自覚する且元である。
且元は豊臣家を守らねばならなかった。それは茶々や秀頼のためではなく、積み重ねてきた自分自身の過去を守るためであった。
あるとき且元は忍んで紀州九度山を訪れた。関ヶ原合戦の折、信州上田城に籠もって徳川秀忠率いる三万五千の大軍を遅参させ、蟄居させられた
「真田殿は太閤殿下の大恩を蒙った身。もし徳川が豊臣の
既に徳川の勢いを覆す能わず、曾ては豊臣恩顧大名といわれた黒田や加藤、福島あたりに援軍を要請したとしても彼等は動くまいと思われたからこそ、且元は浪々の身たる真田安房守を恃んだのである。
真田安房守はといえば、
「この日あることを秘かに夢見ておった!」
と膝を打つと、次いで滔々と語り始めた。
「わしが思うに大坂城の弱点は南の天王寺口にこそある。しかしこれは弱点のように見えて実はそうではない。
真に堅城というべきは敵を寄せ付けぬ鉄壁の
且元は気持ちよさそうに戦策を披露する真田安房の気分を害さぬよう、ふむふむと聞き入るふりをしながら内心後悔し始めていた。
真田安房守の口からは、豊臣家存続の方策はいっさい語られなかった。彼は、ただ純粋に天下の堅城大坂城を恃んで己が軍略を体現したいだけなのである。
最後に真田安房は言った。
「もし、時宜を得ずわしの命が先に尽きたとしても、この
と締めくくると、曾て且元も大坂城中で顔を合わせたことがある真田信繁は、当時と変わらず物静かな様子で頷いた。父安房守のように饒舌ではなく、その軍略を忠実に再現する者にも見えるが、ただそれだけだ。父子共々豊臣の存続を託すに足る人物とはとても思えなかった。
且元は失意のなか、九度山を辞した。
且元は各所に潜在する関ヶ原牢人と面会し、いざというときの援軍を要請したが、みな真田安房守昌幸と似たり寄ったりであった。誰も彼も徳川への意趣返しのようなことばかり口にして、豊臣を存続させようという心意気や方策を示す者は一人としてなかった。
却って蛮勇をふるい豊家を危機に陥れるのではないかと危ぶまれる人物ばかりであって、且元は早々に部外者に助けを求める気持ちを失ってしまった。
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