第三話 且元が家康の家臣になった理由
秀吉が死んではっきり分かったことは、且元は自分自身が思い込んでいたほど秀吉個人に忠節を誓っていたわけではない、という事実であった。
そのことは秀吉が亡くなったときにはっきりした。且元は秀吉の臨終に際し、涙することなく、ただ
(これから先、通夜や葬儀で忙しくなる)
ということに、却ってうんざりさせられたものであった。
秀吉はその死にあたり、且元や
且元は内心秘かにそのことを迷惑だと感じた。
表面上は何ごともなかったかのように取り繕ってはいるが、朝鮮出兵は明らかに日本側の敗北で終わったのであり、秀吉亡き後の、それこそ茶々や秀頼といった豊臣の面々に、朝鮮出兵の戦後処理という難しい政治課題を解決できる力があるなど、当時から誰も考えてはいなかった。
且元は、沈みゆく泥船のような豊臣とは縁を切ってしまいたいと思っていた。秀頼の傅を命じた遺言は、醍醐の花見に際して諫言に及んだ、且元への秀吉の呪いとでもいうべきものであった。
秀吉が死んだ翌年の正月十日、秀頼はその遺言に従って伏見城から大坂城に移った。秀吉は自身の死後、権力闘争の伏魔殿になるであろう政庁伏見から秀頼を遠ざけ、豊臣の私城である大坂城に入れることにより、死後もなお愛息を護ろうとしたのである。
秀頼の大坂城動座に
家康は太閤存命の頃と較べると急激に痩せて見えた。心配した且元がそのことを訊ねると、家康は
「太閤様亡き後、何ごとも思いどおりにならぬことばかりで困っておる」
と力なく笑った。
秀吉が死んだあとの国内で、これに次ぐ実力者といえば家康以外にないことは明白であった。前田利家は存命、中国には毛利輝元もありはしたが、武将としての経歴や保有している領国の規模といった面から見ても、家康こそ秀吉政治の後継者と目されていたことは間違いない。
後年、秀吉が死んだ途端天下簒奪の野心を露わにしたなどと揶揄される家康であるが、このころの家康本人に言わせれば
「天下簒奪どころではない」
と
というのは、このように秀吉政治の後継者と目されていた家康には、朝鮮出兵の後始末という難しい問題の解決が期待されていたからである。
家康が関東に封ぜられてから十年を経ていなかった当時、できれば家康は自分が関わらなかった朝鮮出兵の後始末など豊臣にやらせておいて、自分は領国経営に注力したかったはずである。だが周りは実力者家康を放ってはおかず、家康もまた自分に寄せられている期待を裏切ることができなかったものと見える。
秀吉は死に際し、大名同士で徒党を組んだり私闘に及ぶことを禁じたが、これは自らのカリスマ性に拠って矛盾に蓋をし、無理やりにでも現状のパワーバランスを維持し続けるための苦肉の策であった。無論、秀頼の成長を待ち、大人になった秀頼への政権移譲を考えてのことである。これが所謂「
利家や三成のように御置目の遵守にこだわる勢力もあったが、こんなものにこだわっておれば国内でのパワーバランスは固定化され、朝鮮出兵での矛盾がいつまで経っても解消されないことになる。
前述のとおり、たとえ建前上の話ではあっても朝鮮出兵は勝利扱いであった。勝ちいくさだったにもかかわらず
家康は
「手柄のあった者に知行を宛がう」
という武家の理論に忠実であろうとしただけであった。
この家康と、太閤様御置目を遵守する三成一党が激突するのは必然であった。朝鮮出兵の結果、諸大名に知行宛行できなかった豊臣が衰退していくことは、且元にとって自明のことであったが、このころの且元は摂津に本貫地を有するといった主に地勢的な事情から、西軍への参陣を余儀なくされている。弟
貞隆が加わっていた大津城攻めは、九月十五日、城主京極高次が降伏して幕を閉じる。奇しくもその同日、美濃関ヶ原で東西両軍が激突して西軍は敗北。大津城の陥落はまったく無意味なものになった。
ほんらいであれば西軍に加わった且元も改易、減封は免れないところであっただろうが、家康は豊臣に遠慮して、豊臣の私臣ともいうべき且元を処罰しなかった。且元自身も長女を人質としていち早く差し出して恭順を誓い、却って加増されている。それは且元が曾て秀吉から賜った知行高を超えるものだったのであり、この加増は且元にとって、後に重大な意味を帯びることになる。
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