第二話 且元が秀吉に諫言した理由

 醍醐寺の花が見ごろを迎えていると聞いた秀吉が、花見を言い出したのは慶長三年(一五九八)春三月のことであった。

 且元は

(もし自分が仕事に命をかけるときがあるとしたら、いまをおいて他にない)

 と思った。


 天正二十年(一五九二)正月に始まった朝鮮出兵は、一度の休戦講和を挟んだいまも飽くことなく続けられていた。開戦劈頭かいせんへきとうは奇襲効果も相俟あいまって連戦連勝だった日本軍も、現地義勇兵の蜂起や明国の援軍が押し寄せるにつけ次第に苦戦を余儀なくされ、膠着した戦線をどうにも打破できないという戦況であった。

 

  太閤が一石米いっこくまいを買いかねて 

    今日も五斗買い 明日も五斗買い


 これは当時民衆の間で大いに謳われた落首である。「一石」は一国、つまり李氏朝鮮を指しており、朝鮮一国を制圧しかねた秀吉が、自身の「御渡海ごとかい」を今日よ明日よといたずらに延引させている状況を「五斗買ごとかい」という言い回しにかけて皮肉った落首だ。

 劣勢を打破できないまま、十万を超える将卒は半島の南の一角に追い詰められつつあり、好転しない戦況を支えるために、人々には重い課役が課せられていた。前掲の落首はその不満を現代に伝えて余りある。


 おそらく秀吉は、人々のそういった不満を敏感に嗅ぎ取っていたのであろう。そしてその不満を躱すために、花見の挙行を思いついたのではないか。

 秀吉には成功体験があった。北野大茶会の挙行である。このとき秀吉は、心得のある者は身分の別なく各々の茶道具を持参して、茶会に出席するよう広く参加者を募ったものであった。これは上下貴賤を問わず、人々に時代が変わったこと、つまり秀吉の世が到来したことを強く印象づけたという意味で画期であった。秀吉はその成功を醍醐の花見により再現しようと企てたのであろう。


 しかし、その程度の政治パフォーマンスで不満を躱すことができるほど生やさしい状況ではない。


 現状を一気に打開しようと思えば、現地派遣軍が敵を打倒して戦勝を遂げたうえで講和を取り結ぶのが最善策であることは論をたなかったが、それができれば誰も苦労はしなかった。秀吉による具体的な作戦指導を欠いた派遣軍の士気は低下の一途を辿るばかりで、戦線の崩壊が危ぶまれる戦況ですらあった。


 国内戦では、手柄は敵首によって証明されるのが古来からの習わしであった。しかし朝鮮の役においては首は運搬に労力がかかるというもっともらしい理由から、削ぎ落とした鼻や耳が首の代わりとされたことはよく知られた話である。

 敗戦による政権への打撃を恐れる秀吉とその周辺は、戦地から大量に届けられる耳や鼻が戦果を正確に反映するものではないことを知っていながら、それでもなおこれらを戦果と認定しなければならなかった。しかし耳や鼻だけではそれが何者かを見極めるのは不可能といわざるを得ず、事実そのなかには、虐殺された非戦闘員のものが大量に含まれていたという。


 実際には戦果らしい戦果はほとんど挙がっていなかったにもかかわらず、届けられる大量の耳鼻を根拠にして、建前上は勝っていることにされてしまったのである。


 戦役がんだあとのことを思うと、且元は暗澹たる気持ちを禁じ得ない。常識的に考えれば占領地を確保し続けることは不可能であり、現地に寸土たりとも獲得することなく全面撤退を余儀なくされることだろう。

 領土を獲得し損ねたのだから敗北である。

 しかし政権の求心力を保つためには敗北を認めるわけにはいかなかった。戦地から送られてきた耳鼻を、既に戦果として計上していた事情もあり、建前上は飽くまで勝利したものとして扱わなければならず、そうである以上、出征した大名には知行を宛がってやらねばならないということになる。寸土も得られなかったにもかかわらず、である。


 この矛盾を解決する方策は明らかではなかったが、その方策を講ずるにあたり、醍醐寺における花見が何の役にも立たないことだけははっきりしていた。


 近年とみに凶暴性を増し、腹心利休だけでなく、甥で関白だった秀次すら殺害するに毫も躊躇するところがなかった秀吉に諫言するということは、そのまま切腹を申し付けられることと同義と考えねばならなかった。


 しかし且元は恐れなかった。


 自分の意に沿わない仕事をこなす日々のなかで、なにも知らされることなく突然寿命が尽きてしまうようなことを思えば、死を覚悟して諫言に及ぶ方が、よほど価値のある死だと思い定めたがゆえであった。


「海外にいる将卒が辛苦のなかに身を置いている折も折、花見などおやめ下さい」


 自身も一度は朝鮮半島に渡り、敵と干戈を交えたこともある且元の言い回しは直截ちょくさいであって、周りをぎょっとさせた。

 誰しもが、怒気もあらわに且元に切腹を命じる秀吉を想像したが、しかしその口から放たれた言葉は、蚊の鳴くよりも弱々しい声であった。

「言うな市正いちのかみ(且元のこと)。言うでない。余はそのことを考えると食も喉を通らんのだ。言ってくれるな、言ってくれるな……」

 まるで、粗相をしてしまった犬が主人の顔を横目に見るような秀吉の顔。

 耳障りなことを言った且元に対する恨み。

 容赦なく突き付けられた今後への不安。

 そういった負の感情の全てを内包したかのような秀吉の表情を見るにつけ、且元はこれ以上諫言を重ねることができなかった。


 世間の冷えきった目にもかかわらず厳戒態勢のなか強行された醍醐の花見から、半年も経たない八月十八日、自らの妄想が引き起こした巨大な戦争の後始末を遂げることなく、秀吉は伏見城に薨去こうきょした。享年六十三であった。

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