第五話 且元が寺社造営に励む理由

 先に軽く触れたがここらで掘り下げておかねばなるまい。当時且元が置かれていた立場について、である。

 先述したが、且元は関ヶ原合戦後、家康から加増の沙汰を受けて万石を超える大名へと累進している。家康は豊臣に遠慮して加増の朱印状を交付しなかったが、家康の意向なくして加増はあり得なかった。「御恩と奉公」という武家の不文律からいえば、この加増を以て且元は家康の家臣になったといえよう。

 ただ秀吉の遺言は依然有効であり、その遺言に従っていえば且元は豊臣家の家老でもあったし、事実且元が豊臣家家老として実働したことを示す文書は枚挙に暇がない。


 つまり且元は豊臣の家老としての立場を保ちながら、一方で家康の家臣にもなったわけである。


 現代の観点からすると少し違和感があるかもしれないが、この当時、両属すなわち二人の主人を持つことは珍しいことではなかった。

 これは片方の主人だけでは自分の権利が十分に保障されないような場合に、その不十分な部分を別の権力者に補ってもらうための慣例であった。仕える両方の主人の利害が衝突しない限りにおいては緩衝地帯としても機能するから、主人の側も、場合によっては紛争の火種になりかねない境目の国衆が両属を選択することを、好ましいことと解釈していた節すらある。

 ただこれは戦乱が絶えなかったちょっと前までの法理であり、秀吉による惣無事令が全国に行き渡っていたこのころ、かかる慣例は権益の保障や緩衝地帯としての意味よりも

「両属は珍しいものではない」

 という社会常識として認識されていた。


 豊臣と徳川。

 二人の主人を持つ且元にとっては、両家の衝突を回避し続けることが最重要課題であった。両属関係においては、双方の主人との間で戦端が開かれたような場合、どちらに付くか旗幟を鮮明にした上で先陣切って打って出るのが、両属する国衆に課せられた義務だったからである。その時代の血生臭い空気はまだ色濃く残っている。


 且元も一介の武人であってみれば、当初は徳川による豊臣攻撃の意図を武によって挫かんと策したものであったが、前述のとおり、関ヶ原牢人の雇用はむしろ事態を先鋭化させかねない危険を大いに孕むものであった。


 且元が次に打った手は、寺社修築造営であった。

 より具体的にいえば、寺社造営という、いわば公共事業を豊臣が主催し、各大名の領内に居住する商工業集団を豊臣の名の下に動員することによって、公儀としての権威を保持し続けようと考えたわけである。

 このようにして豊臣が修築し、或いは造営した寺社は


 京都の東寺金堂、同南大門。醍醐寺三宝院仁王門。相国寺法堂、同鐘楼。等持院。南禅寺法堂。北野経蔵。岩清水八幡宮。北野天満宮。鞍馬寺毘沙門堂。

 河内国枚岡神社。誉田八幡宮。叡福寺太子堂。

 摂津多田院本堂、同中堂、同御影堂。箕面寺。生國魂神社。須磨寺。勝尾寺。

 その他出雲の杵築社、尾張の熱田神宮、伊勢大和に散在する寺社多数


 といった具合で、挙げれば切りがない。

 後年、寺社造営にかまけて太閤秀吉がしこたま貯め込んだ財を蕩尽したなどと揶揄される豊臣家だが、なにも伊達や酔狂で財を投じたわけではない。

 そこには

「公儀性を持続させて、権威を保持する」

 という確固たる戦略があったのである。

 そして豊臣による寺社修築造営を、徳川としても無視できなかった事例を紹介しよう。慶長十三年(一六〇八)に起こった木材徴発にかかる争論である。


 この年の正月、幕府は駿府城本丸館修築のため諸国の山々から木材を徴発することを決定し、公儀普請として諸大名に通達した。これに対し同年七月、且元は土佐の山内家に対し、方広寺大仏殿造営の用材として木材の徴発を依頼している。

 豊臣による用材徴発は他の木材産地にも同様に通達されたものと見える。同年八月のものに比定される板倉勝重発中井正清宛文書では、紀伊国において豊臣方と徳川方との間で木材徴発が競合し、争論に発展したことがほのめかされている。

 いうまでもなく駿府城は将軍退任後の家康の居城である。江戸城と並んで徳川を象徴する城だった駿府城の公儀普請の時期を狙い澄ましたかのように木材徴発を諸大名に依頼したのだから、これを当てつけといわずなんといおう。

 争論がどのような経緯をたどったのかはつまびらかではないが、結局京都所司代板倉勝重が調停に乗り出さざるを得なかったことから見ても、豊臣による寺社造営は、徳川幕府の一元支配に牽制を加える目的で行われたことは間違いがない。

 家康は大いに苛立ったことだろう。

 後年勃発して両家を決裂させた方広寺鐘銘事件も、この文脈で考える必要がある。家康は鐘銘の犯諱を政治問題化させることによって、豊臣による公共事業としての寺社造営を廃絶させようとしたのである。

 もっとも、家康が廃絶させようとしたのは飽くまで寺社修築造営にとどまるのであって、豊臣の命脈ではなかった、という点については注意が必要なのだが……。

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