山の中

 草木が生い茂っていた。

 ここはとある山中で、私はそこを必死に歩いていた。足元を蔦が絡めとり、頭に枝が当たる。まるで人が歩くはずのない本物の山道、いや道ですらない。ただの山の中だ。

 かれこれ3時間はこうして歩いており、私はもはや汗だくだった。体力も削りに削られ体は悲鳴を上げている。

 だが、それでも私は歩かなくてはならない。

 なにせもう日が落ちかけているのだ。どうしたって暗くなる前にここを出なくてはならない。

 要するに私は遭難中だった。

 たまの休日。いつもの登山セットを軽四に積み込み、私は山菜採りに出かけたのだ。

 いつもの山、いつもの道を行った私だったが、出来心で新規開拓にに乗り出したのが悪かった。いつも使わない林道で見つけたタラの芽を採ろうと斜面に身を乗り出したが最後。私は滑落し斜面を転がり落ちた。

 幸いにも怪我は打身程度で済んだのだが、落ちたところは見知らぬ山の中で、そこから歩けど歩けど元の道に戻れず、見事に遭難した次第である。

 そして、私は山から出られないままもう日が沈もうとしているのだった。

 はっきり言って絶望である。

 私は途方に暮れ、歩くのを止める。

 とにかく体を休めようと手近な石に座り込み、水筒を空けてお茶を喉に流し込んだ。

 冷たい感覚が喉を通り、わずかに私の緊張を和らげる。

 しかし、それだけだ。状況はなにも変わらない。

 私は夕日に照らされた黒いシルエットの山を見上げた。

 その時だった。

 パキリ、と枝の折れる音が響いた。

 瞬間私は青ざめる。熊か、と私は音のした方を振り返る。頭を『死』の一文字がよぎる。

 しかし、そこに居たのは熊では無かった。

 人だった。

 厚手のコートを羽織り、川のブーツを履いた男だった。

「ん? 人か。あんたこんなところで何してる」

 男は言った。それはこちらのセリフだったが。私は全身から力が抜けるのを感じた。要するにホッとした。絶望が希望に変わった。

「そ、遭難してしまいまして。どうしたら道に出られるでしょうか」

 私は自分でも驚くほどか細い声で言った。

「道? 街の人間か。て言っても、かなり遠いぞ。面倒なことになってるなあんた」

 男はポリポリ頭をかいた。しかし、やがて歩き出す。

「近くまで案内するからついて来い。街にはあんまり近づきたくないんだがな」

 なんだか分からないがとにかく男は私を助けてくれるようだった。私は泣きそうになりながら追い縋る。

「ありがとう! ありがとうございます!」

 私は叫びながら男に続く。

「感謝されるようなことじゃねぇよ。そのまま呑まれたら寝覚が悪いだけだ」

 男はよく分からないことを言いながら歩いていく。

 なんでも良い。とにかくここから出られればなんでも良いのだ。軽四までたどりつき、家に帰って「大変だった」と言いながらフキノトウの天ぷらを食べられるならなんでも。

 と、

「ああ、今日は下がりの日か」

 男が言う。

 なにを言っているのかと思うと私の目に訳のわからないものが映った。

 それは大きな大きな鹿だった。

 身の丈を超えるどころではない。

 それは私が見上げるような、木々を超え、山の裾野さえ超えるような果てしなく大きな鹿だった。

 鹿はただ夕日を背に立っていた。

「良くないな。あんまり。急ぐぞ」

 呆気に取られる私を尻目に男はずんずん歩いていった。私も頭上の鹿にビビり倒しながらとにかくついていく。

 そして、尾根を超え、山の中腹から一体を見渡せるところまでやってきたところで。

「騒がしいな。道を変えた方がよかったな」

 尾根から見下ろした山々。そこにはあり得ない光景が広がっていた。

 木々に光るムカデが絡み付いていた。

 三つ足のカラスが群れを成して飛んでいた。

 大きなオオカミが風のように山中をとてつもない速さで駆け回っていた。

 木々を超える巨大なキノコが山にいくつも生えていた。

 メキメキと音を立てて大木が這いずり回っていた。

 青い霧がそれらを覆い、白い虹が空にかかっていた。

 こんなものは現実ではなかった。

「これはいったい....」

 私は知らず漏らしていた。

「ああ、これが山の中だ。街に住んでるあんたには分からんだろうが山の中の深く深くはこんなものだ。街からは見えんがな。本来あんたらは絶対に関わらない場所だ。あんたは知らずここまで来てしまったみたいだがな」

 男の言っていることは意味がわからなかった。

 これが現実だと言っているらしい。

 ここは私が知らないもので、私以外も知らないものだ。

 こんなものあるはずがない。だって、衛生写真にだって映っていない。ネットで話題にあがったことさえない。

 私はそんなことを男に言う。

「そりゃあ、ここは街の常識とは違う理屈で存在してるからな。あっちから見えるわけはない。だが、確かに存在してる。そういう場所だ」

 男はなんでもないことのように言った。

「さぁ、ぼやぼやしてる暇はない。とっとと行くぞ」

 男はまた歩き出す。私はこの幻のような景色に目を奪われながら男に続く。

 夢でも見ているように感じながら。

 それから1時間ほど歩くと私の軽四があった道に出た。

 山の構造は詳しくないが、どう考えても早すぎたように感じた。

 とっぷり日も暮れたが私はなんとか無事に元の場所に戻ってきた。

 感謝の言葉を述べまくる私に男は、

「あんまり山に深入りするなよ」

 と一言だけ言って、バキバキと枝を折りながらまた山の中に消えていった。

 文明が発展して、あらゆる場所に人の手が及んだ現代。

 しかし、その認識は驕りだったようだ。

 幻のような異界はまだ確かに山の奥に存在しているらしい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る