路地裏

 路地裏は暗かった。

 大通りから一本入ったビルとビルとの隙間の裏通り。一般人はまず踏み入らない街の暗がり。日常の外側にある空間。

 時刻は日が落ちたばかりの午後6時半。

 当然のように人などおらず、車が忙しなく行き交う表と違って静かだった。

 そこに男が一人座っていた。薄汚れた服、伸び切った髪と髭、生気のない眼。

 一目で浮浪者と分かる男だった。

 男はビルに切り取られた夜空を見上げていた。星が数えるほどしかない空を。

 男の人生は散々だった。最初から大したものも与えられずに生まれて、そして生きているうちに全部失った。簡単に言えばそんな人生だった。

 男には何も無かった。そして、誰も手を差し伸べなかった。男の日々はあるのか無いのか分からない、そんな風なものだった。

 そして、男はここでなす術なく途方に暮れているのだった。

「やぁ、元気がないね」

 そんな男に声をかける者があった。

 男は目だけ動かしてそこを見た。路地に立っていたのは少年だった。

 なんということもない服装の普通の少年。

 高校生くらいの年齢に見えた。

 男はなにも答えなかった。死んだ目で少年を見るだけだ。

「随分な有様だね。どうしようもない風に生きてきて、どうしようもなくそうなってしまったんだね。さぞ大変だっただろう」

 少年はテクテクと歩いて男に近づいてきた。男を恐れる素振りはない。なにか異質だった。超然とした、といった感じの少年だ。

「でも、それも今日までだ。君の人生はこれからなにもかも上手くいくようになる。安心して良い」

 少年は笑った。男の眼差しは変わらない。

「僕は神だ。少し詳しく言うと、この世界を管理する存在の1人といったところだね」

 なにを言い出すのか。訳がわからない。しかし、なぜか少年の言葉を笑い飛ばす気に男はなれなかった。笑う気力が無いということもあったが、なぜかそれが真実であるような気がした。あるいはそんな気にさせるのがこの少年が本物である証明なのかもしれない。

「僕の担当は運命だ。人々に降りかかる幸運や不幸のバランスを取るのが役割なんだ。そして、はっきりと伝えるとね。君にはこの世の中の運命の調整役を担って貰っていたんだ。君にある程度の不幸を集めることで他の帳尻を合わせていたんだね。今まで済まなかった。でも、もうその役割は他に移すんだ。だから、君はこれから幸福になる」

 少年は手を差し伸べた。今まで誰一人差し伸べなかった手を、少年は男に差し伸べた。神様だと言う少年は。

「こうして現れたのはその承諾を得るためだ。一応本人の許可をもらうことにしていてね。どうだろう。役割を他に移すことを受け入れてくれるかな」

 神様少年いわく、今まで男が不幸な人生を送ってきたのはいわば生贄になっていたからだという話らしい。他に人が幸福になるために男に不幸が集められていたのだと。そして生贄を他に引き継ぐからその了承が欲しいと少年神様は言っている。

 男はその手を払い除けた。

「冗談じゃねぇ。俺の人生は不幸で何もなくて他人から見ればクソみたいなもんだろうよ。だが、それでも俺は生きてきた。もし、本当に降りかかった不幸がお前が与えたもんだったとしても、それに対してどうするか選んだのは俺だ。これが俺が選んで俺が生きてきた生だ。悪いがこれでも誇りを持ってんだよ。今更誰かの指図なんか受けねぇ。誰かに操作されるなんかまっぴらだ。とっとと失せろ」

 男はひどく掠れた声で言い放った。

 このままで良いと男は言った。

 少年は少し男を見つめ、そして伸ばした手を戻した。

「そうか。君がそう言うなら仕方がない。役割は君に引き続き担ってもらおう」

 男は少年を死んだ目で見ていた。生気はやはり無い。

 少年は頭を下げる。

「誇り高きあなたの生に敬意を」

 少年は言い、そして来た時と同じようにテクテクと歩いて路地の向こうに消えていった。

 後には男だけが残された。

 少年が去ったのを見届けると男はまた空を見上げた。ビルに切り取られた星の少ない夜空。

 男がもういつから見てきたか分からない夜空。

 それを男は死んだ目で見上げるのだった。

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