第4話「丘の上の画家さんち」(2)白骨のフィガロ

 ゆるい下り道を滑るようにいくと、両脇の景色がゆっくりと流れていく。

『高台の画家さんち』跡から坂を下りて、国道に出ると来た道をもどる。本当は、もっと先のショッピングモールまで足を運ぼうかと思っていた。たくさん自分の成果を見てもらいたかった。画家さんの家が健在だったなら、そうしていただろう。

 運転席にいるトオルは、意気揚々としている。

「マニュアルって昔、親父が乗ってたんだよね」

 十年ぶりかも、と言いながらもシフトさばきがスムーズだ。

「ずるいなあ、私より上手い」

 シートに深く身体を滑らせトオルを見上げる。答えの代わりに、目尻に二本の皺、そしてちょっと斜めに生えている犬歯けんしが見える。

 トラック、バン、反対車線を走る車数台とすれ違い、後続車も見えず、道は私たちだけのものになる。視界はゆっくりと流れていき、懐かしい気持ちがこみ上げてくる。あの季節にリンクしている。

 トオルの運転で、現調という名のデートと勝手に称していたあの日々。あのときの鞄は後部座席には積んでいないけれど。そしてオープンルーフでもないけれど。一気に窓を全開にして目を閉じると、充分ワープできる。

「開け過ぎだって」

 トオルの前髪が跳ね上がって、額がむき出しになった。そのラインを目でたどる。

「骨白」

「えっ?」

 ふと漏らした言葉に、トオルは耳を傾けてくる。そしてもうひとつ、こぼした。

「キスしていい?」

「……え」

遠い目線のまま固まったトオルの横顔に、今度は身体を正して言う。

「アクリル板みたいだなって思って。トオルのおでこ」

「僕は、板ですか」

「そうです。白くて美しい骨なんです」

 いま思った。ずっと横顔を見つめてきたんだ。傍らから、私は自分の理想を語り続けていた。二人の未来にたくさんの期待を込めていた。

 トオルはずっと横顔のままだ。あの頃も、今も。再び身体を沈めると、運転席の窓の先に伐りだった山膚があった。もう、カモシカはいなかった。

 動かない遊園地の観覧車が見えてくると、交差点を山手に曲がり、旧道にある駅の前で車が止まった。

「オープンしたら、ショッピングモールに行ってみるよ。看板をじろじろ見てくる」

 缶コーヒーを飲み終えると、トオルはシートベルトを外した。

「外周り担当だからね。駐車場とか、配置案内とか、道端の誘導看板とか」

 私も自分のコーヒーをホルダーから持ち上げる。ほとんど飲んでいなかった。

「矢印の向きがおかしかったら、速攻クレームだね」

 人差し指と親指のL型が、私に向けてシュートする。悪戯っぽい目。今日は知らないトオルが多すぎる。撃ち込まれた空圧の余波が、動悸になる前に声を出す。

「いいよ。なんぼでも。打たれ強いから」

 口に含んだコーヒーが喉の奥をじりじりと流れた。


 入所したての頃、トオルは厳しかった。変形居室の面積算定のミスや、苦手なカナバカリ図も、泣きながら直していった。悔しくて、三日くらい口を利かないこともあったし、図面や書類のコピーをわざと少なくとって、意地悪したこともあった。

『人に教えることは、自分のつたなさを思い知るってことなんだ』

『君は身体で覚えるのがいいよ。たくさん働こう』

 私の幼い仕返しにも、構わず仕事を振ってきた。

『線はね、大切に引くんだよ。僕たちの図面は施工業者から最後は施主に渡る。つまり一本の線から建物がはじまっているんだ』

 その言葉を聞いたとき、私のなかで何かがすとんと落ちた。彼のサポートになろうと決めた。

『君しかいないんだから』

『しっかたないなぁ。僕が面倒見てやるよ』

 ずっと、胸の宝石箱に、鍵をかけることができないでいた。


「では」

 トオルが顔を近づけて前髪を掻きあげた。

「なに」

「いいよ。キスして」

 差し出された骨白の額。閉じた瞼に細い血管が透けている。その下には長い睫毛。私の唇が触れたら、トオルは目が醒めるだろうか。アクリルではない骨白の中央に、そっと人差し指をあてた。

「なんでよ」

 トオルの目と眉がぐにゃりと歪む。

「ここを押さえられると動けないってホントかな」

 トオルの眉根と瞼が同時に動いた。指の腹に彼の体温を感じる。彼の目が開いた。

「キスじゃないんだったら、よしてよ」

「ふふふ。だって唇じゃないし」

「それはまずいでしょ。っていうか、マジ、動けない。腰が、ひねってるから腰が」

「あはは、君はオブジェか」

「オブジェ、です。張りぼての、中身のない、しょぼくれおじさんです。だから。よしてよ。許して」

 指がくい込みそうだ。赤く放射状の熱が彼の額を染めていく。もう骨白ではない。トオルという、熱が通ったひと。

「サオリ!」

 名前を呼ばれて思わず手を引いた。睨んだ瞳は、深い黒。知っているような、知らない色。トオルはすぐに向き直り、ハンドルに身体を預けながら呼吸を整えている。怒ってる? 胸の中で問いかけると、頭を上げてフロントガラスに向かって、「晴れてきたね」と眼を細めた。私も同じように顔を上げてみたけれど、まぶしくて、ごめんは言えなかった。

 

 運転席から降りたトオルと交代するために車から出ると、私は抱えていたトートバッグごとをトオルに返した。

「持っていたら前に進めない」

 僕だって、と言いかけたけれど、トオルは受け取ってくれた。

「じゃあ」

 トオルが右手を軽く振る。形のいい指先がひらっと揺れた。

「あ。本当に、送っていかなくていいの?」

「ん。ここから電車で帰るよ」

「あ。あの」

「ん?」

「オ、シアワセニ」

 自分がどんな顔をして言ったのかはわからない。声に出すのがやっとだった。 

「変わってないなぁ。口が尖がるとこ。あと、ポケットに手突っ込んで開き直るとこも」

 トオルは少しの間、私をじっと見つめてから愉快そうに笑った。しっとりと私を濡らす声だった。

『サオリ』

『許して』

 そうだよ。覚えていて。私のことを。私の名前を。その額に残る熱を。隙間に、引き出しの奥に、あの構想スケッチの片隅に。

 それで、許す、許すから。いえ、たぶん、許さ、ないけど。

 私は、ポケットに手を入れて、唇に塗らずに終わったルージュを握り締めた。


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