第3話「丘の上の画家さんち」(1)グランドライン

 今日の目的はもうひとつある。

『湾カフェ』から、さらに東へと走り続ける。ぽつりぽつりとあった店の間隔が縮まってきて、この町の商店街に入る。信号のある交差点で、役場への案内看板とは逆に、山手側に曲がる。

 意外と道は覚えているものだ。突き当たると開発区域の住宅エリアが広がる。このあたりでもう、目印が見えるはずだ。

 白い煙突がひょっこりと、現れない。

 道を間違ったのかと思い、ひと区画一周して戻ってくる。トオルは少し身を乗り出したけれど無言のままだ。

「一本間違った?」

「いや。場所はあってる」

 トオルは、かすれた声を押し静めるように口をつぐむと、車から降りた。私もトオルのあとに続く。

「そっか」

「どういうこと」

 茫然としているトオルの横に立ちながら、言葉を探し続ける。

 目の前には、ほどこしたばかりの茶褐色の敷地が左右に伸びていた。左端に残る一軒の住宅は、ブルーシートで覆われている。坂の下の風景は記憶にあるままで、自販機だけがずらりと並ぶ、元酒屋が見えている。

『高台の画家さんち』

 トオルが設計した、アトリエ付きの住宅を私たちはそう名づけた。白い煙突が目印の、大屋根の建物があるはずの場所には、看板がひとつ。

『陽光不動産管理地』

「まさかこの看板、君が作ったんじゃないよね」

 トオルが言う冗談に、指先さえも動かせない。

「本当はさ、知ってたんだ」

 私の大きく見開いた目の真似をするようにして、トオルは顔を少し近づけてきた。鼓動の音が飛び出さないように私は退く。視線を落としてトオルは背中を向けた。

「去年、土砂崩れが起こって、決壊した防土壁がここまで落ちてきたんだ。僕が見に来たときは、煙突が首を折られたようになっていた。土砂とか木とか、家を破るようにしてなだれ込んでいた」

「画家さんは?」

「江森さんは無事だったよ。その前日に避難命令が出ていて、この辺りはみな、役場に逃げたらしい」

 今も防土ネットが張られ、工事が途中になっている。

「更地になったのは今知ったけど、こうなることは予想できた。江森さんからは、隣町の娘さんのところへ移るって聞いていたからね」

「画家さん。自慢の家だ、って言ってくれたのに」

 家主が満足そうに、暖炉の前でくつろいでいたのを思い出す。紅茶と林檎のコンポートを振舞ってくれた。時々子供たちに絵を教えていたらしく、吹き抜けのアトリエで、描きかけの一枚一枚を手にとりながら目を細めていた。

「僕たちの成果は消えて土だけになった。立面図でいうなら、グランドラインに戻ったってことだ。残念だけど。これでケリがついた」

 言い切った肩の先が強く揺れた。

 思わず私はトオルの背中に抱きついた。自分でも思っていた以上の体当たりだった。彼の背骨が不自然に動いて、止まる。堅い肉体にしがみついて声を吐いた。

「このままで、いいの?」

 自分の心拍をトオルの背中に叩きつける。

「がんばれ」

 絞り切った声が頬に響いた。

「そうじゃなくてっ」

 もうフィガロには乗れないの? あの、『構想スケッチ』は永遠に思い出になってしまうの? どうして、他のひとと結婚してしまうの?


「あのとき、所長は廃業すると言った。まるで僕の気持ちを見透かしたみたいにね。確かに、できないわけじゃなかったと思う。でも、これ以上伸びないと知っていた。所長のように法規に詳しくなって、申請の鬼になるのもよかったかもしれない。ただ、想像力っていうのかな。たとえばバスを逆立ちさせるようなイメージは思いつかないタイプなんだ、僕は。誰かの模写しかしてこなかった。だから、きっといつか行き詰まる」

「そんなの。みんなそうだよ。模写からはじまるよ」

「安定も求めた。営業も苦手だから、独立して仕事をとっていく自信もなかったし、雇われたままだと、それほど稼げない」

「好きじゃないの?」

「わからない。仕事だからって割り切っていた部分はある。それに」

「それに?」

言葉が待ちきれない私は、彼を揺さぶる。トオルは黙りこんだまま動かない。私はそっとトオルの背中から身体を離した。湿った熱を一瞬で空気がさらう。

 私だって、本当はまだ諦めたわけじゃない。プラチナタウンだって、ペンシルウッズだって、頭の隅にちゃんと建ち並んでいる。けれど、すべて振り出しに戻れないことも、わかっている。

「たまあにさ、生徒に見せることもあるんだ。昔の図面とか、スケッチブックとか」

「あの鞄はまだあるの」

 正確には、中身ごと、だ。メモやCADで仕上げて出力してみた図面、あのときの思いを全部つぎ込んだ鞄。

「もちろん。君の構想したタウン計画とかね。悪い。僕が独り占めしてたけど」

 トオルが上目づかいで微笑む。

「そんなの、いいよ」

「短かかったけれど、夢中になっていた軌跡だからね。時々開くと、たまらなくなる。熱くて。それを見た生徒が、先生みたいになりたいって言うけれど」

「けれど?」

「僕を追い越せって。たくさん具現化しろよって」

 トオルは、空を見上げながら笑った。その横顔は、雲の背景に溶け込みそうだった。さりげなく顔を反らしたけど、眼の端に光るものに気づいてしまった。

 トオルは、車の後部座席からトートバッグを取り出すと、私の肩にかけた。

「これは君が持っていればいい。生徒たちに見せたこともあるんだ。君の『ペンシルの家』注目度、高かったよ」

 三冊のスケッチブックは、肩を通り越して胸にずしりと重みがかかる。

「一緒に、眺めたかった」

 私の精いっぱいの声は、沈黙を誘うだけだった。

「たくましくなったよなあ」

 まるで幼い子供に話しかけるように背中を丸めて、頭をなでようとする。

「いまわかったの?」

 頭を引っ込めて睨む私を覗き込んだ目には、もう陰りは無かった。


 トオルが、坂道を下りて自販機へ向かった。その間、スケッチブックをばらばらとめくった。熱は、たしかにここにあったのだと思う。けれど、じっくりと浸る気持ちにはなれなかった。ばらばらとめくって、三冊目の白紙で手が止まった。

 彼を追いつめることはできない。言いかけた『それに』は、きっと私のことだ。私がずっとトオルに期待をかけていたから。

 再就職が決まったトオルから、落ち着くまでしばらく距離を置こう、と言われた時、心の天秤は一気に傾いた。諦めの文字が私の奥に刻まれたことに、気づかないふりをして過ごしてきた。

 そのままスルーすることもできたのに、こうして会ってくれたのも、スケッチブックを持ってきてくれたのも、きっと彼なりの誠意なのだ。新しい生活へ向かうための。

 そう。私だって、あの頃とは違う世界に生きている。


 トオルが息を弾ませながら、缶コーヒーを買って戻ってきた。その目がきらっと光った。

「ねえ。ちょっとお願いがある」


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