第2話「湾カフェ」
「コーヒータイムはお預けだね」
「ここ不定期休業だったっけ」
がらんとした駐車スペースを横切って店の前まで車を寄せると、扉には、『臨時休業』のプレートがかかっていた。
仕方なく私は、店のポールサインとは反対側の敷地境界の、道路際まで車を移動する。
「でかいな」
トオルが先に車から降り、私もエンジンを切って後に続く。
盤面は横3600ミリ×1800ミリ、全高は5400ミリ。ポールサインとしては、それほど大きいほうではないけれど、直下から見上げると迫力はある。
「鉄骨。構造計算もしたの?」
その場所に立つ誘導サインの支柱を、トオルが平手で叩いた。
「まさかあ。そういうのは、鉄工所さんにまかせているんだよ」
「工作物の申請も?」
「うん。その鉄工所さんが取り引きしてる構造専門の事務所がね。本当は、いずれ私が申請の
私はジーンズのポケットに両手を突っ込んで、軽く首をすくめた。トオルが一瞬、頬を緩ませる。
「へえ。そういえばこれと同じタイプ、西地区のバイパスにもあったな」
板面を見上げて指を差し、誘導看板を読みあげた。
『ショッピングモールU 直進7 Km』
橙色のベタに白抜きの『U』と矢印。文字は墨。ロゴの一部に葉っぱのイメージで緑色が跳ねている。
「いろんなプランを考えたけど、結局一番シンプルなのに決まっちゃった」
「見やすいのがいいよ。車だと一瞬でかわしてしまうから」
「そ、だねぇ」
頷くと私は身を屈め、塗装が剥げている基礎のボルト頭を指先で撫でた。
「もの足りない?」
「やっぱり?」
看板を見上げた私に、トオルが慌てた声を出す。
「いや、そっちじゃなくて。今の、仕事」
きた。ストレート。
「会社には慣れてきたと、思う。全体で八人だしね。プランを考えるのは、時々苦しいけど、すぐに形になるのは性に合ってるかも。意外と現場に設置するとちんまり見えて、毎回反省してる。特に、こういう長期のものはね。で、トオルのほうは?」
聞きたいのはこっちのほうだ。私の眼をそらして看板を見上げる。
「うん? うん。地味な日常だけど。ヨロコビは、あるよ」
口角を上げると、また柱に手をあてた。
トオルは現在、職業訓練校で製図の講師をしている。
私たちは所長を含めて三人の、小さな設計事務所の同僚だった。二つ年上の、事務所では四年先輩のトオルは、クールな印象だった。印刷会社から転職した新人パートに対して、淡々と仕事を預けてきた。
半年ほど経ってから、事務所で定期購読していた雑誌の、間取りの投稿コーナーがきっかけで私たちの距離は近くなった。こっそり応募していた私は、自分の名前が『あと一歩の人たち』に載っていることに軽く憤慨した。もう一度じっくりと見直した時、銀賞にトオルの名前と平面図、小さな顔写真付きのコメントを見て、血の気が引くほど驚いたのだった。
それから、トオルと建物巡りがはじまった。博物館や教会、小さなカフェ、山のロッジや、ニュータウン。
当時、彼が乗っていた中古の白いフィガロは、そうとうのボロだった。帆が破れてビニールテープで補修しても雨漏りがする。オーディオはラジオしかかからない。狭い後部にスケッチブックと鞄を積んで、私たちはいつもオープンルーフの風を共有していた。
いつか自分たちが造るであろう構想を、かきなぐって膨らんだスケッチブックは三冊になっていた。正確には、三冊目は一枚きりで終わってしまったけれど。事務所が閉鎖されてから、私はそれを手にしていない。
あれから三年。トオルは結婚する。三十歳を目前にして決心したというメールがとどいてから、返信をするのに五日かかった。それからひと月後、こうして再会している。
トオルと違って、文系で資格も無い時給身分だった私は、建築業界への再就職は叶わなかった。三ヶ月の失業給付を貰いきってから、現在の屋外広告の制作会社に拾われた。
入社して一週間後、和服店の『夏のめちゃくちゃ市』の野立看板をまかされた。
大まかに先輩がプランをしていたものを引き継ぐかたちで、過去の制作例を参考に見せてもらった。パソコンで全体のデザインを決めると、在庫のカッティングシートの中から、文字や模様に使う色を選び、切り文字を作成する。あとは、施工担当者が、塗料を配合して背景を塗り、切り文字をレイアウトどおりに貼っていく。
できたものは、呉服店にはそぐわなかった。売り出し用のカラーとして指示されていた、橙と緑の色も、選んだ色のトーンが強すぎた。
営業兼現場の課長から、ハレーションを起こしかねないと、なぜか先輩が怒られていた。
私は誰からも言葉をもらえなかった。疎外感いっぱいの仕事だった。
『この仕事、ある程度のセンスが要るのよ、ね』
事務を
敷地の形、建物の位置、柱のピッチ、居室の区切り、玄関の向き、窓の大きさ、階段の
書店で足を止める棚も、建築からグラフィック関連へと変わった。
フォントの種類、ソフトの使い勝手、三次元の世界から二次元への戸惑い。センスという壁。それらは時間をかければ克服できることなのか、いまだ手さぐりの日々が続いている。
転職したばかりの頃、よくトオルに電話やメールを入れては、泣き言を吐いていた。ハローワークの求人も引き続きチェックをしていた。
ふた月後、トオルから、職業訓練校の臨時職員としての採用が決まったと連絡が入った。
『とりあえず臨時だよ。車は処分することにした。相当ガタきてたけど、欲しがってる業者がいるんだ。まずは生活、立て直したいから』
電話越しの声が、安堵と不安をのせた天秤のように私を揺らした。
それからは安易に連絡をするのは控えた。トオルだって新しい環境で頑張っている、困らせてはいけない。きっと私と同じ気持ちでいるのだ、と励みにしてきた。
三回目の和装店の看板、『秋の逸品展』で、発注元の社長から褒められたと聞いて、跳び上がるほど嬉しかった。
クリーム系ベージュの背景を塗り、赤紫のタイトルと淡いグレーの影。タイトルより一段薄い色の飾りラインで全体を締めた。実際は、色の調子を合わせるのに苦心したけれど、ほぼイメージどおりの仕上がりに自分でも手ごたえを感じていた。
一度褒められると、次の欲が出る。依然、もろもろの格闘は続いたけれど、服飾雑貨の専門店やイベント会社、セミナーの講演会など、自分でも好きな分野が見えてきた。
会社に新型の大型出力機が導入されると、仕事が少し変わった。パソコンでデザインしたものがそのまま出力できるので、グラデーション、影文字やぼかしも存分に使えて、プランが自由で楽になった。場合によっては、ビルの塔屋や壁面へと仕事の領域も広がっていった。
二年目に入ると、建設予定のショッピングモールの打ち合わせに同行させてもらい、主に外構サインを担当することになったのだ。
今、私たちが眺めているのは、かつて、たびたび立ち寄ったことのある、『湾カフェ』の敷地内に建つ誘導サインだ。
この場所に看板の設置が決まったとき、運命を感じた。ここのプランに限っては、もういいよと言われるくらい考えたのだった。
「いいじゃない。なかなかこんな仕事ってできないよ」
「トオルだって。先生じゃん」
「ははは」
力なく漏れた声は、遊園地の音楽のように割れていった。遠い日を漂うように。
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