第五話 魔術師の最後の儀式

 サドロックはベテランの偉大な魔術師で、村人に精霊交信を予告した。彼の妻は病気で、なんとか彼女を治そうとしていた。


 サドロックの家は海辺の近くにあった。村人たちは海氷の近くに集まった。奥さんはソリの上に座っていて、傍らに息子さんが立っていた。屋根の上の窓に近いところには弟子のケイルが待機していた。だがサドロックは一人だけ家の中にいた。


 村はしんと静まり、誰も動こうとしなかった。みなが敬意をはらい、真剣な面持ちでサドロックを見つめていた。


 サドロックは古くから続く恐ろしい家系の出身だ。彼の父方の叔父と甥は他の魔術師に魂を狙われ殺された。村の人によれば、サドロックは魔術の知識を受け継いだ唯一の生き残りだという。たとえば、どのような魔術師もサドロックの毛皮から這い出ることができず、何度も引き戻されるが、その逆はできた。この「剥き出し」の状態の魔術師に出会うと、誰であろうと死んでしまうと村人に忠告された。サドロックとは、それほどの男なのだ。


 彼は病を患ったため、もう長い間、交信術を使っていなかったそうだ。家までソリを引いていたときに、リウマチにかかったらしい。だが彼はこれから行う過酷な儀式の準備をはじめた。


 私は家に向かい、窓から彼の様子をうかがった。イヌイットが日常的に椅子として使う、床から一段高い石の寝台の上に、ドラムを叩きながら一人で座っていた。サドロックは窓辺に立つ私を見つけると、私に笑いかけながらこう言った。


「すべては愚かな、バカげた欺瞞だ!嘘にすぎない!」


 そして彼は申し訳なさそうに頭を振った。


 私はうなずき、彼に質問しようとしたとき、誰かが私の肩を掴んで、グイッと窓から引き離した。私の肩を掴んだのはガブリエルというグリーンランド人だった。彼は敬虔なクリスチャンでありながら、先住民の神秘にも敬意を払っていた。


「彼のところに来るなんて、あんたは狂ってるのか?」


 ガブリエルは私の耳元でささやいた。だが屋根の上で師匠の言葉を待っていたケイルはガブリエルを無視して、私たちを見下ろしながらはっきりと言った。


「わきによけて、そこで待ちなさい。何者も儀式の最中に動いてはならない!」


 私は家の近くで、これから起こるべきことを待った。すべて愚行だ!そう彼は言った。魔術師はいつも精霊の儀式を行うとき、彼自身と彼の力をけなしながら進行した。あまりにも高い尊敬と、それを上回る不安とが彼に発言が嘘であるかのように振る舞わせるのだ。


 ドラムがまた家の中から響き渡り、周囲の人々は静かにそれを聞いていた。すぐにドラムの音にささやきが交ざり、その声は徐々に大きく、力強くなっていった。やがて精霊の唄がくりかえし堅調に家から流れ続けた。


 カイルは深く感動し、はじめは鼻歌だけだったが、いつも間にやら一緒に歌い始めた。サドロックも喜びを歌声にこめた。彼の腕まくりした腕は毛皮処理の作業をしたかのように赤くなった。周囲の人は動かず、静かに家を見つめていた。


 突然歌がやみ、ドラムの速度がどんどん増していった。サドロックは重い何かに組み敷かれ、息ができないかのようにうめいた。聴衆は彼が叫ぶのを聞いた。


「おお!おお!そんなバカな!私は下にいる!やつが私の上にいる!助けてくれ!私は弱すぎる、やつに太刀打ちできない!」


 まぎれもない恐怖がふくまれた叫び声は、すすり泣きに変わった。だがドラムはどんどん荒々しくなっていった。ケイルは泣きながら、誠心誠意こめて精霊の唄を歌った。


「急げ!全力を出せ!」


 サドロックが興奮して大声をあげた。そしてドラムが止み、静寂が訪れた。聴衆の胸に興奮が湧きあがった。


 サドロックはすぐにまたドラムを手にし、前奏を奏で、若者の肺を持っているかのような大声で話し始めた。


「邪悪な運命……不幸なことに……精霊が運んできた……白人たち……」


 声はふるえ、とぎれとぎれに、神秘的な雰囲気をふくんでいた。聴衆は息をのんで続きをまったが、声はまたうめき声に変わった。ケイルがかすれた声で精霊の唄を歌い続け、サドロックも叫び続けた。サドロックは目に見えない何かと戦いながら、遠くから言葉を拾い集めた。


「白人たちが邪悪な運命を連れてきた。彼らは不幸の精霊を連れてきてしまった。私は見た、私の口から語られるのは嘘ではない。私は嘘をつかない、私は嘘つきではない、私は見たんだ!」


 グリーンランド人のガブリエルは彼の言葉で真っ青になり、「彼は私たちのことを言っているぞ」と私にささやいた。「彼は私たちに悪意を向けるぞ」そして聴衆のみなが私たちのほうを向いた。


 サドロックは私たちが旅の途中で邪悪な運命に引き寄せられたと説明した。不幸の精霊がハロルド隊員のソリに触れたため、彼は病にかかった。他の隊員は傷ついた犬しかもっていなかったので、犬も次々と病にかかった。


 彼の説明にはところどころ特殊な精霊の言葉がまじっており、しばしばうめき声をあげて中断するので理解しがたかった。最後まで説明せずに言葉が途絶えたため、群衆はどよめいた。家の中は乱闘があったかのような騒ぎになった。


 そこからはケイルが師匠のとぎれとぎれな言葉を繰り返し伝えた。彼の声も歌でしわがれていたが、ベテランの熊猟師、ソルカックがはっきりとした声で「はやくしろ!はやくしろ!」と急き立てた。群衆の興奮が高まると、サドロックは見えない何かから言葉をひねり出すように、ゆっくりと話し始めた。


「白人たちは病とともにやってきたが、その病がうつったのは犬たちだけだった。なのでみなは犬を食べてはいけない。ミキスソック(サドロックの妻)よ、犬の肉は食べたか?」


「ミキスソックさん、犬の肉を食べましたか?」ケイルが問いかけた。


「ミキスソックさんよ、あんた犬の肉を食べたのかい?」とソルカックが彼女に聞いた。その言葉は口々に伝えられた。息子のアグパリングアックが屈んで病気の母に聞くと、彼女はうなずいた。


「ええ、ほんの少しだけど、私は犬の肉を食べてしまいました」と彼女は答えた。


「彼女は犬の肉をたべていたぞ」とソルカックが叫んだ。


「奥さんは犬の肉を食べていました」とケイルが屋根の上から窓越しに伝えた。


 荒々しいうなり声が家の中からとどろき、ドラミングがまたはじまった。「トゥー、トゥー、トゥ、トゥー」という異様に活発な声が無限に続いた。さながら蒸気機関のエンジンのようだ。サドロックは完全に恍惚状態に達していた。リウマチの老人は傷ついた獣のように家中を跳ね回った。目を閉じたまま頭を振り、体をありえないほど捻じ曲げながらドラムを鳴らした。それから彼は一声、何度も反響するほど長い遠吠えをした。これを笑う者は、その悲しい結末を聞き後悔するだろう。


 彼は妻を救えなかった!


 人々は解散し、それぞれの仕事や遊びに戻った。村はすぐに幸せそうに笑う男女で満ち溢れた。夏は問題なく近づいてきていて、誰も魔術師の警告に思い悩んでなどいなかった。


 ソルカックだけは心配そうに見えた。彼は息子たちが獲ってきた四頭のアザラシの毛皮を処理していた。


「サドロックはどんどん老いている」彼は私にそう言った。「サドロックは力を失いつつある。彼の妻はたぶん死んでしまうよ」


 これがサドロックの最後の儀式だった。夏がくると、彼の妻は返らぬ人となった。


 彼女の葬儀が終わったあと、人々はサドロックが家から離れたがらないことを話し合った。誰が行っても食べ物も受け取ってもらえず、会話も拒否された。


 私は彼に会いに行った。彼は石の寝台に腰かけていて、不思議なことに顔が黄色くなっていた。彼のずる剥けになったまぶたからは血が流れていた。


 私が中に入ると、彼は座るよう手招きした。とめどなく咳き込みながら、彼は私に話してくれた。「あなたは客人だ、私はあなたと話せて嬉しい。私はもう長くない。一人で生きるには年を取りすぎてしまった。長年、私の衣服をつくろい、料理もしてくれた彼女は逝ってしまった。長い年月を彼女と過ごした。彼女と一緒に居ることが私にとって一番だった」


 私はそっとその場を離れた。これ以上、彼の邪魔をしたくはなかった。それ以来、彼を訪れていない。


 村人が彼の家に食べ物を持って訪れては、彼の家に置いて帰った。だが彼はそれに対して何ら反応を示さなかった。サドロックは明らかに飢え死にしようとしていた。村人たちが最後の魔術師に持ってきた贈り物は、彼の墓の上に積み上げられた。

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