ハテノハツカ……04

 私を呼ぶ声が聞こえる。おそらく、私、を呼んでいる。壁越し、あるいは分厚い布団を隔てた向こうから、輪郭のぼやけた音声が投げかけられる。

 ここが死後の世界なら、にでもいるのだろう。生前に親しかった者たちからの応援を受けながら登るのだという険しい山。ついさっきまで真っ白だった視界は、今は暗闇の中にあった。もう一度、呼びかけられる。それもたったの一人分。きっと私のように、誰にも愛されなかった者のために用意されたアルバイトか何かなのだろう。死者の国にもそのような役割の者がいるのだろうか。縁もゆかりもない行旅死亡人を応援するのも、きっと一苦労だろうと、姿も知らぬ労働者を憐れむ。

 結局、物語の化け物とは出会えず仕舞いで、人と勘違いして声をかけたのはただの枯れ木だった。雪山でひとり凍りつき、私の人生はそこで終わり。なんてあっけない死だろうか。死んでまでみじめな思いをするなんて、いっそ笑えてくる。いずれにしろ、果てでも死出でも同じことだった。頂上へ登りさえすればいい。そこで終わりだ。意を決して、まぶたを開く。


――視界には、古びた木造りの天井が広がっていた。なんともはや、死後の世界とやらは実に庶民的だった。


「いやいやいや」


 口をついて出た言葉も、それなりに庶民的だ。困ったことに、一命をとりとめてしまった。


「おんや。いい夢でも見ていたのかな」


 ひょい、と顔をのぞかせたのは、見知らぬ青年だった。とっさに飛び退いたつもりだが、体は硬直しきっており、身じろぎさえままならない有様だった。

 青年は、その軽口にそぐわない、深刻さをにじませた表情で私の目を覗き込む。多分、心配しているか、怒っているかのどちらかだ。なにか言うべきなのだろうかと考えあぐねているうちに、頭上から声が降ってくる。


「意識は戻っているね」


 年の頃は二十代半ばだろうか。髪の隙間から片方だけ見える一重まぶたはほんの少しだけつり上がっていて、目尻に向かって緩くアーチを描いている。細い鼻筋は真っ直ぐに通っていて、薄い唇にはほんのりと血色が透けて見えた。


「……はい」


 うなずくことさえ、今は困難だった。仕方なく、ゆっくりとまばたきをすることで肯定の意を示す。すると、彼の表情が幾分か和らいだ。ここはどこなのだろう。山小屋だろうか。天井が見えるということは、私は横たわっているはずだった。


「間に合ってよかった」「けれど……」


 火花が弾ける音が聞こえる。すこし離れた場所で、囲炉裏か暖炉かに火が入っている。そう思い至ったところではじめて、鼻先が熱を帯び、鈍いながらも体の感覚を取り戻し始めたことがわかった。

 徐々にほぐれていく手足の指先は、ひどく腫れているようだった。せきを切ったように、激しい痛みが吹き出してくる。熱く、脈打つような疼痛は耐え難いものだった。


「動かないほうがいい。治りが悪くなってしまうよ」


 食いしばった歯の隙間から息を吐きだす。痛みは相変わらずだが、時間の経過とともに、ほんの少しだけ慣れてきた。足先はぬるま湯に浸かっているらしい。火にかけたお湯を足湯へひとさじ掬い入れて、水温を一定に保っているのだという。手の感覚は、足のそれとは異なっていた。見ると、青年の両手に包み込まれている。


「あの、手が」

「うん。少しだけ我慢しなさい」「もうじき良くなるだろうから」

「もうじきですか」


 もうじき、とは具体的に何分ほどなのだろうか。そういえば、あれからどのくらい経ったのか、そもそも何があってこうなったのか、ここがどこなのか、彼は何者なのだろうか。私は何も知らなかった。


「そうさ、もうじき」


 彼はといえば、足湯の温度を確かめながら、妙に達者な鼻歌まで歌い始めていた。昔の歌謡曲だろうか? 妙に懐かしい響きだ。一曲歌い終えたら、同じ曲を頭から歌い始める。何度繰り返したのだろうか。かすれたような低音は心地よく私を満たして、積雪の層へ吸音され、消えていく。何もかもが眠った世界で、私たちはふたりきりだった。


 それにしても、この時間は長すぎる。どうにもいたたまれない気持ちになり、視線を泳がせた。湯気が目の前でゆらめき、消えた。


「なにも聞かないんですか」


 彼の鼻歌が、なんともキリの悪いところで停止する。


「聞いてほしいのかい」

「そういうわけではないですけど……」

「そうだなー。たとえば?」

「そうですね……何しに来たー、とか。何者だー、とか。」

「それじゃ上から順番に尋ねてみるとしよう」

「はなっから興味がないことだけは伝わりました」


 彼は小首をかしげ、いかにも当然といった風に肩をすくめた。


「ま、今日みたいな日に、君のような愚か者がうろつくのはめずらしくもないのさ。聞くまでもなく、たいてい皆さん同じことをおっしゃるものでね」

「じゃあ、なぜ助けたんですか」

「庭先に知らない人がやってきて、これみよがしに首でもくくられたら、君ならどうする?」

「救急車か警察を……とりあえずは介抱しますよね」

「そういうことです」


 まどろっこしい、という言葉はこういう時に使うのだろうか。進まない会話に苛立ちを覚える。


「私は、に行きたいんです。ただで死のうだなんて思っていません」

「……ここも一応だけど」 


 青年が目を細めると、こころなしか、部屋の気温がわずかに下がった、ような気がした。不思議な目を持つ人だ。


「そうじゃなくて、果ての頂上はてに住んでいるものに会いたいんです。果ての二十日にだけ姿をあらわす、一本足の人食い妖怪に」

「へえ」「それで、どうするつもり」

「話してみたいんです」


 話す? と聞き返した彼の声は、思いのほか素っ頓狂なものだった。そんなに意外なことなのだろうか。


「君が言うところのと、なにを話すことがあるんだ? なんせ、そいつは人を食らうんだろう?」

「結果的に捕食されても構わないと思っています。でも、もし会話ができるなら」


 彼は首を軽く傾けて、次の言葉を促す。


「私を気味悪く思わずにいてくれるんじゃないかと……ひょっとしたら友だちになれるんじゃないかと思って」


 長い沈黙が訪れる。

 やがて山小屋が小さく揺れ、屋根からの落雪を知らせた。それをきっかけにして、青年は火がついたように笑い出す。


「友達! 友達ねえ。そうかい。友達。ご自分は相手を妖怪呼ばわりしておきながら、仲良くなれそうだと」

「それは……すみません」


 確かに妖怪と言った。化け物とも。しかし、私は自分というものを全く同じように思っている。決して、下に見ていたわけではなかった。


「ヤ、失礼。あんまりにも意外なことを言い出すものだから、つい」

 俺に謝られてもね、と続ける。

「君に事実を伝えるのはたいへん心苦しく思うよ。実際のところ、そんな妖怪は、ここにはいない」

「そんな……」


 彼は嘘をついていない。それはわかっている。なにしろ私には心の声が聞こえるのだ。嘘ならば「ま、ぜんぶ嘘ですけれど」なんて続きの台詞があるはずだ。

 一本足の妖怪は存在しない。では、私は何のためにここまで来たのだろう。世界に疎まれ続けた存在。忌日の災厄。きっと、私と同じように不幸を背負っていたはずの者。一度でいいから、会ってみたかった。当面の目標が閉ざされ、戻る場所もなく生きながらえてしまった私は、これからどうしたらいいのだろう。

 

きまりが悪そうに話しかけてきたのは彼の方だった。


「……妖怪はいないけれど、君がと呼ぶ場所なら案内してあげてもいい」

「でも、誰もいないんでしょう」

「いないね。それでも行くのだろう?」


 そんなことに意味などない。それもわかっている。しかし、私はもうどこへもいけない。それならせめて、で死のうと思った。

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