ハテノハツカ……05
碧落は果たして、目の前にあった。
薄れてゆく雲はゆっくりと足元に向かって滑り落ちる。おしろいをまぶしたような雪面に体重を預けると、きしむ音を立て沈んでゆく。吐く息は白く、それでも今はかえって暖かいほどだった。彼の用意した防寒具を身にまとっているためだ。全身藁で編んだセットアップの野暮ったさには目を瞑ることにした。
「あんなに降ってたのに」
「そんなものさ」
彼は半身で振り返ると、わずかに目を細めた。そこに濡羽色の前髪がさらりと落ちる。
山小屋の周囲はそれなりに生活感があった。軽く見渡しただけでも蔵や離れ、薪割り場などが目に映る。使い込まれた古道具は丁寧に手入れがなされており、古めかしさの中にも品のある風合いが生まれていた。いかにも彼らしい暮らしぶりだ。出会ったばかりの他人である青年が、それでもたしかにここで生きているのだと信じるに足る風景だった。
「ずっと一人で暮らしているの?」
「先代が隠居してからはね。少し見ていくかい?」
案内されたのは離れの小屋だった。鉄と油のにおいが鼻をつく。大きな炉のそばには作業台があり、丸太には様々な形の道具がきれいに揃えられていた。どれも整備されており、工房内にはホコリのひとつも積もってはいない。しかし、そのひっそりとした佇まいは、炉から火が消えて久しいようだった。
「家業が鍛冶屋でね。先代までの話だけれど」
「それじゃ今は何を?」
「そうさねえ。強いて言うなら案内人ってとこか」
「今の話じゃなくてえ」
「難しいことをおっしゃるお嬢さんだ」
風が吹き、外の雪が舞い込む。手のひらに落ちた結晶はゆっくりと形を崩す。
「私ね、友達が欲しかったんです」
「人間の?」
彼の問いにうなずく。
「普通に暮らしたかった。何も知らず、本当の声なんて聞こえずに、生きてみたかった。でも、無理だったんです。家族や教師にも疎まれて、ましてや友達なんて……それで、逃げてきたんです」
振り返れば、彼はちょうど戸口のあたりに立っていた。逆光を受けて黒く沈んだ顔は、どんな感情を浮かべていたのかすらもうかがい知れなかった。しばらく待ってみたが、ついぞ返事は無かった。なにかを期待していた自分がひどく滑稽に見えた。
「さ、もういいだろう。冬の日没は早いのさ」
「まだ午前中のような気がするんですけど」
「果てに行くんだろう?」
「そりゃそうですけど、そうなんですけど! いざ行くとなると心構えというか覚悟というか、そういうものが必要になってくるというか」
「そういうものかい」
青年は肩をすくめ、君の期待するものなんてなにひとつ無いかもよ、と続ける。
文句は言うまい。なんたって、そこが私の終点だ──そりゃ、景色が綺麗だとか、痛くないとか、話し相手がいてくれたら言うことなしだけれど、高望みというものだ。
戸締まりをして、工房をあとにする。ざくざくと音を立てて先を歩く背中を眺めた。痩せ型で背筋の真っ直ぐ伸びた姿勢、関節の目立つ手足。この腕で人間を一人抱えて山を登るなんて、にわかには信じがたい話である。せっかく助けてもらったのに、なんだか申し訳ないような気分になってきた。せっせと湯を取り替え、毛布にくるんで、白湯を飲ませて、思えば一晩中世話を受けていたのだ。私はこれから、そのすべてを台無しにするつもりだというのに。どうしたらいいのか、自分でもわからないのだ。うなだれて足元へ視線を落とす。目の前には彼の足跡がひとつ、残されていた。
「……ひとつ?」
素っ頓狂な声は、自分の喉から出てきたもののようだった。
「ああ、これは癖なんだ。驚かせてしまったかな」
彼は足を止めることなく、こともなげに返す。あらためて観察してみると、右足と左足の跡はきちんと交互にあって、それが一直線上に並んでいるだけのことだった。それきり会話は途絶えたが、肝心の彼は、特に気にする様子もない。振り返ると、晴れた空を照り返す光が目に入った。色のない世界に、二足分の窪みがくっきりと残されていた。
*
「さあ、もうじきだ」
青年が指差した先にあるものは、穴だった。ほとんど埋もれていて、注視しないと見過ごしてしまいそうなほどささやかな洞窟だ。促されるまま覗いてみると、薄明かりを灯す青緑の光が壁一面に張り付いている。氷に覆われた岩肌はドーム状に広がっており、その先は細い通路へと続いているようだった。彼を見ると、満足げにうなずいている。
「私、どうしたらいいと思いますか」
「行くってのなら案内するし、帰るのでもいい。茶と羊羹くらいなら出すさ」
「羊羹も、あるんですか……?」
魅力的な提案に心が揺らぐ。いや、いや。せっかくここまで来たのだ。一度はこの目で見るべきだ。どうするかは、その時に決めればいい。ここでしゃがんでいたって仕方がない。勢いをつけて立ち上がると、反動で足を滑らせてしまった。
あ、と思った頃にはすでに洞窟の中へ滑り落ちていた。雪がクッションになったのか、怪我はしていない。呼びかけに答えると、ほどなくして青年も駆けつける。軽く小言を言われたが、こちらも好きで転んだわけではないのだ。口をとがらせて見せると、苦笑が返ってくる。
青年はいくつかの分岐から一本の細い道を示した。
奥に向かうにつれて、閉塞感が増してゆく。道が狭まっているのか、それとも空気が薄くなっているのだろうか。
そこには風もなく音もなく、太陽すら姿を見せることはなかった。苔むした薄明かりだけがぼんやりと私と彼の輪郭をなぞっている。視界はどこまでも深い場所へと吸い込まれていく。生物の踏み入れた痕跡のない、ひどく滑らかな世界。時間の感覚は、とうに失ってしまった。
ふと、彼が足を止めた。半身に体をずらし、道の先を指し示す。氷の壁の隙間から、光芒が差し込まれている。出口が近いのだ。私は彼を追い越し、一歩踏み出した。
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