ある水曜日

 ムギさんがあの夜、朝を待たずに亡くなったと知ったのは三日後だった。

 といっても連絡してきたのは桃子さんではなく姉。ムギさんの友人ルートからの伝言ゲームのようにして情報が伝わったらしく、色んな話が入り乱れていて、本当のことはよく分からない。

 はっきりしているのは、お葬式は身近な人だけで済ませたという事だけ。あとは、以前から悪いことは必ず九月に起きてたとか、実家は元華族のすごい資産家だとか、養子縁組したパートナーがいるけど、喧嘩して三年前から音信不通だとか、自分は人の業を引き寄せるから長生きしないと言ってたとか、いかにもムギさんならありそう、と思わせる話がいっぱい。

 でも、姉に言わせると、その辺の話は周囲が勝手に盛り上げた噂に過ぎないし、結局のところムギさんは誰にもそれほど心を許してはいなかったらしい。

 そして桃子さんは、連絡するわね、と言っていたのに何の音沙汰もないまま。

 まあ、それも当然かと思う。

 たぶん桃子さんにとって私は、南の島で魚釣りを手伝ってくれた現地の子供、ぐらいで、旅が終われば顔も名前もぼやけてしまうような存在なのだ。でも私は桃子さんのような女の人を忘れることなんてできない。

 だからあの夜、藁人形の胴体に巻かれていた、「桃子」と書かれた布切れを持ち帰って、五寸釘に穿たれた穴をわざわざ繕って、センパイからもらったタオルと一緒に、押し入れにしまっている。そんな事して何になる、という保証は一切ないけれど、東京に戻った彼女が風俗通いの夫と別れて、自分にふさわしいはずの凛々しい生き方を選んで欲しいと、一方的に期待しているのだ。


 で、大失恋した私自身はどうしてるのか。

 後期の授業が始まって、サークルの裏京都研究会からはミーティングや現地勉強会の予定が送られてきた。青木センパイは「顔出せよ」と言ってくれたけど、とてもそんな気分じゃない。サークルどころか学校も辞めたいほどなのに。

 でも、さぼりがちだったせいで三か月も部費を滞納していて、踏み倒すほどの度胸もない。だから、お金だけ払いに行って、「バイトが忙しくなった」などと適当な理由をつけてフェードアウトしようと考えた。

 水曜日、必修の仏教概論が終わって、三時半からがミーティング。歯医者に行くような気分でいつもの場所、三号棟の四A教室に向かう。はあ、とため息ついてドアを開け、「失礼します」と顔を出す。

 一番話しかけやすいのは副部長の三島センパイで、彼女の姿を確認すると、私は三か月分の部費を入れた封筒を握りしめて近づいた。

「ハニーだ!ハニー、ようやく来たじゃん!ずっと待ってたよ」

 そう声をかけてきたのは、一回生のサトリンだった。

「あ、どうも」

 向こうのテンションの高さもあるけど、いきなりハニーと呼ばれて、私は軽くパニックに陥ってしまった。

「今日ちょうど学祭の担当決めるところだったの。ハニー、うちらと同じ動画制作の班でいいよね?タグッチも一緒だしさ、一回生トリオで」

 何だかわからないうちに、サトリンの横に座らされ、裏京都ミステリーツアーの動画についてネタを考えることになり、退部について切り出すタイミングは完全喪失。

「あの、なんで僕のこと、ハニーって呼ぶん?」

 恐る恐るきいてみたら、サトリンは「青木センパイが教えてくれたの。真野くんの正しい呼び方はハニーやでって。確かに、なんかぴったりじゃんねえ」と、何度もうなずいた。

「センパイ、いつも来てはる?」

「来ない来ない。卒論全然書けてないんだってよ。俺はもう修行僧になる、とか言ってさ、追い込み入ってる」

「そんな大変なんや」


 もちろん私はサトリンから聞いた話をまるごと信じたわけではない。

 センパイは私の気まずさを考えて、サークルから距離をおいてるんじゃないだろうか。でもまあ、これは過剰な思い入れって奴で、本当に卒論がヤバいのかもしれない。

 私の胸のど真ん中は風穴が空いたままだけど、ハニー、と呼ばれることにだんだん慣れて、こんなのでいいのかな、と考えたりしながら、何となく授業に出て、前よりは熱心にサークルに顔を出して、帰りに時々お茶したり、晩ごはん食べて帰ったり。

 皆にさよならを言う頃にはもう暗くなっていて、冷たいぐらいの夜風に金木犀の香りが混じっていたりする。

 そして私は自転車をこぎながら思うのだ、京都の秋ってやっぱりそう悪くない。



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丑の刻ハニー 双峰祥子 @nyanpokorin

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