丑の刻
金槌を地面に置き、ショルダーからスマホを取り出した桃子さんは、未知の生物を捕まえたような顔でディスプレイを見てから「もしもし」と通話に出た。
途切れがちに繰り返す、はい、はい、という声に含まれた不安。いつの間にか青木センパイも傍に来ていた。
「わかりました。できるだけ早くうかがいます」
闇夜にヘッドライトという照明のせいかもしれないけど、通話を終えた桃子さんは、わずか一分ほどの間にやつれてしまったように見えた。
「病院から、ムギさんの容体が急変したって」
「え?ムギさん?なんでそんな急に?」
「わかんないけど、とにかく行かなくちゃ」
そう言う間にも、桃子さんは来た道を引き返そうと歩き始めていた。私は慌てて金槌を拾い、五寸釘もろとも藁人形を木の幹から引きはがして後に続く。青木センパイもその後からついてきた。
山道から車道に戻ると、桃子さんはさらに歩調を速め、振り向くと「青木くん、自転車貸してくれる?」と言った。
「それは大丈夫ですけど、街なか戻るんやったら、タクシーの方が早いですよ」
「そうか、そうよね。でも、タクシーなんてこんな山奥、通らないじゃない」
「いや、呼べますよ。
「じゃあそうする。電話教えて、ていうか、呼んでくれていい?さっきの駅のところまで来てもらって」
桃子さんはもう容量オーバー、という感じで自分のスマホをセンパイに手渡した。
さっきまでの饒舌さが嘘みたいに、桃子さんは黙って先を急ぐ。
私とセンパイも言葉を交わすことなく、ただその後について行く。本当は男二人の方が足は速いんだけれど、桃子さんを追い抜く理由が見つからない。
私はひたすら、胸のざわつきをなだめながら、一体何が起きたのかと考え続けていた。
桃子さんが言葉少なに語ったところによれば、ムギさんはかなり危険な状態らしくて、病院は家族の人も呼んでほしいと言ってるらしい。
いきなりそんな話をされても、私の記憶にあるのは、入院したとはいえ、ベッドの上で相変わらずのマシンガントークを全開にしている、エネルギッシュなムギさんの姿だけ。
何を言っても自信満々で、好き嫌いがはっきりしてて、好奇心旺盛で、いい大人なのに妙に子供っぽい我儘なところがあって、いつも陽気で。
そんなムギさんが、死ぬかもしれない?
私は慌ててその考えを頭から消し去ろうとした。
駄目。そんな縁起でもない事を想像しちゃいけない。
でも、と、もう一人の私が反論する。
これは夢じゃない。いま起きている事。人は誰だっていつか死ぬ。ムギさんがいくら強い人だといっても、死から逃れられるわけじゃない。ただ、その瞬間が今かどうかってだけの話。
うつむいている私のヘッドライトが照らす足元。その小さな円の中だけが明るくて、あとは闇ばかり。生きてるってことはもしかすると、これに似ているのかもしれない。見えているのはほんのわずかな範囲だけで、それ以外は何があるんだか判りもしない。
なのに私たちは前へ、前に向かって進むしかない。その道がどこで途切れているのか、知ることもできないのに。
私の道はどこまで続いてるんだろう。いきなり断崖絶壁にたどり着いたとして、そこで何を想うだろう。
「あ、あれじゃない?」
桃子さんの声に顔を上げると、まだ少し距離はあるけれど、タクシーが停まっているのが見えた。桃子さんはもう駆け出していて、私とセンパイもその後を追う。
少しも速度を落とすことなくタクシーまで走り切った桃子さんは、まだ息をはずませたまま「何だかごめんなさいね。また落ち着いたら連絡するわ」とだけ言ってタクシーに乗り込んだ。私はただ頷いただけで、センパイは「気をつけて」と軽く頭を下げた。
遠ざかるタクシーを見送ってから、センパイはようやく、という感じで「ムギさんて、誰やねん」と言った。
「桃子さんの友達です。東京から一緒に来てはったんですけど、熱中症になって救急車で運ばれて、そのまま入院してはって。でも、昨日病院で会った時は、すごい元気やったのに」
「やっぱり熱中症て、怖いもんやな」
「なんかでも、いきなりこんな事になって、現実という気がしないです」
そう、なぜだかセンパイと二人きりで真夜中の山奥にぼんやり突っ立ってるって、完全に夢の世界。
「ほんで、ハニーはこれからどうすんねん。桃子さんとタクシー乗らへんかったら、帰る足あらへんやんか」
「しょうがないし、電車始発まで待ちます。たぶん六時ごろかな」
「六時、いうたかて、まだかなり時間あるで?一緒に待ってよか?」
嘘!そんな嬉しい事言われるなんて、マジで夢?ところがセンパイはそう言った尻から大きな欠伸をして、私は一気に現実に引き戻された。
よく考えたらセンパイとバスの中で出会ったのは昨日の朝で、それからセンパイはホテルの洗い場で夕方までバイト。その後、自転車でここまで来たのだ。疲れてないわけがない。
「僕は大丈夫です。センパイは先、帰って下さい。ここで朝まで待ってたら車も増えてくるし、今の方が走りやすいと思うし」
「そんな言うけど、ホンマに大丈夫?」
「はい、大丈夫です」
思い切り空元気だして大丈夫を繰り返すと、センパイも納得してくれたみたいで、「そうかあ」と言いながら、停めてあった自転車の方へと歩き始めた。
本当のことを言えば、自転車に二人乗りして帰りたいけど、ロードバイクというのはそんなロマンチックな仕様ではない。
ロックを外し、ヘッドライトをハンドルにかけて、ヘルメットを手にしたセンパイは「実はな、俺、ハニーはかなりの怖がりちゃうかと思てたんや」と言った。
「怖がり?」
「そう。こんな真っ暗で誰もおらんとこで一人で始発まで時間つぶすて、怖いから嫌やとか言うかと思たんやけどな。余計な心配やったわ」
「まあ、全く怖くないかというとそうでもないですけど」
本音を言えば相当、いや、死ぬほど怖い。その辺の藪の中に誰か潜んでるかもしれないし、人間じゃなくても、マムシとかムカデとか、そういう奴も十分あり得るし、クマという可能性も捨てられない。いや昆虫や動物ならまだしも、幽霊とか妖怪とか、そっち系だったら?
ちょっと考えただけで頭の中がぐるぐるしてきて、私は下を向くとこっそり深呼吸した。
駄目だ、ここでセンパイに迷惑かけるわけにはいかない。大丈夫、とにかく大丈夫。
二度、三度と息を吸い込みながら、足元を照らすヘッドライトの輪を見つめる。
私は今、自分の道のどこまで来てるんだろう。もしかして、今夜ここで始発電車を一人で待ってる間に、なんか恐ろしい目にあって死ぬんじゃないだろうか。朝まで生きてるかどうかなんて、誰にも判らない。
「センパイ」
「何?」
「ホンマのこと言っていいですか?」
「うん」
「僕、センパイのことが好きなんです。こんなん言うたらドン引きやとわかってるんですけど、ちっさい頃からずっと、自分のこと女やと思ってて、そやし、女としてセンパイのことが好きなんです」
ああ言ってしまった。なんか判らない爽快感みたいなものと、どうすんのこれ、という焦りと不安。私はセンパイの顔を見る勇気がなくて、まだ地面を見下ろしている。
センパイ、何か言って下さい。でもやっぱり何を言われるのか怖い。
裁判にかけられて判決受ける前ってこんな感じだろうか。さっきまで虫の声ばっかり聞こえてたのに、今は自分の心臓の音だけが頭の中に響いている。
「あの、何ていうか」
ずいぶんと間があって、ようやくセンパイが口を開いた。私はその言葉よりも、声に全神経を集中した。そこに少しでも自分に対する嫌悪感があったら、もう何もかも終わりだ。でも、センパイの声は多少うわずってはいたものの、いつもの穏やかさだった。
「ほんまに申し訳ないんやけど、俺はハニーの気持ちにこたえられへん。なぜかというと、地元に彼女がいるからや。高校の同級生で、専門学校出て
何この落差。私のふわふわした憧れと片思いに比べて、センパイと彼女の安定感と圧倒的な現実味。
「こんな答えで、ほんまにごめん」
「いえ、謝るのは僕の方です」
そう言ってはみたものの、情けなくて声が震えてくる。
「なあ、俺から頼みがあるんやけど」
何だろう。もう二度と俺の前に姿見せんといてとか、そういう事?
「しばらくは落ち込むかもしれんけど、ハニーには自分を嫌いにならんといてほしいねん。それよりもっと自分出して、サークルにもどんどん顔出して、皆にもハニーと呼ばせたらええやん」
「なんでですか」
秒殺で失恋してるのに、自分のこと嫌いにならないなんて、そんなの無理。だいたい、私は元から自分なんか好きじゃないのに。
「なんでって、そっちの方がホンマのハニーやし。今、サークルの奴らとなんか距離があるのは、みんなハニーがどういう奴か判らへんし、どう近づいていいか判らへんからや。なんもいきなり女子全開で行けとは言わんけど、ちょっとずつ、自分出していったらええんちゃうかな」
自分を出すって、そんな事したら誰に何言われるか判らない。
「さっき、桃子さんが藁人形に釘打とうとした時、俺は正直、えげつない事する人やなって、ちょっと引いてたんや。綺麗やけど、何ていうか理解できんところがある。そやけどハニーは全力であの人のこと止めたやろ?そんな事したらあかんって」
「・・・はい」
「あれ見て、すごい優しい奴やなと思ったんや。俺にはできん事や。そういうところ、もっと皆に知ってもらった方がええやん」
そうなんだろうか。
「あとな」
「はい」
「それ、どうするつもり?」
そう言ってセンパイが指さしたのは、私が胸に抱えた藁人形だった。胴体には「桃子」と書かれた布が巻かれ、そこには五寸釘がささったままだ。
「・・・どうしましょ」
こんなもの家に持って帰るわけにもいかない。でもとりあえず、五寸釘はどうにかしようと引き抜いた。するとセンパイが「そや」と呟いた。
「藁人形やからあかんねん」
そう言いながら、背負っていたリュックを下ろして中をかき回したかと思うと、スイスのアーミーナイフを取り出した。
「センパイ、色んなもん持ってはるんですね」
「田舎の生活は半分アウトドアや、言うてるやん。貸してみ」
言われるままに藁人形を渡すと、センパイはその頭だとか首だとか胴体だとか足だとか、あちこちを縛っている太い糸にナイフの刃先をあてると、次々に切断していった。
それは見る間に人の形を失い、ただの藁束となって地面に積もってゆく。最後にセンパイの手の中に残ったのは「桃子」と書かれた白い布の輪で、「桃」の右下には五寸釘に打たれた穴があいていた。
「それ、もらいます」
なぜだか私はそう言って、その布切れを受け取った。センパイはナイフをリュックに戻すと、しゃがみこんで地面に落ちた藁をかき集め、近くの木の根元にまいた。
「こうしといたら、そのうち判らんようになるわ」
「これも、一緒に置いてっていいですか?」
五寸釘と金槌を見せると、センパイは「そやな」としばらく考えてから「それは預かっとくわ」と、金槌を手に取った。
「演劇部のツレにやるわ。南座の大道具でバイトしてるし」
「じゃあ、こっちは置いてきます」
私は五寸釘を地面に置くと、見えないように上から藁をかぶせた。なんか二人で証拠隠滅してるみたいなんだけど、これが最初で最後の共同作業かと思うと、今更のように胸が苦しくなり、一刻も早くセンパイから離れるべきだという気がした。
「ほな、これで全部OKなんで、センパイもう行って下さい」
「うん。けどホンマに大丈夫?」
「大丈夫です。ホンマに」
人生最大のやせ我慢。センパイはそれを信じてくれて「わかった」と言って、手にしていた金槌をリュックに入れてから背負いなおした。そして自転車にまたがると「朝のニュースで金槌持った通り魔の話してたら、俺のことやで」と言った。
私は少しだけ笑って、「ありがとうございました」と頭を下げた。
センパイは「気ぃつけてな」とペダルに足をかけ、「サークル、ぜったい顔出せよ」と言ってから、ゆっくりと走り出した。
見るまに遠ざかるその後ろ姿を見送りながら、私はどうして涙の一滴も流れないのかと考えていた。
失恋ってもっと号泣したりするものかと思っていたけれど、そんな風にこみあげてくるものなんて何もなくて、ただただ自分のど真ん中に穴が空いたような、立ってるのもやっとという脱力感だけで、頭の中もからっぽだった。
そして私は地面から足を引き抜くようにして歩きだすと、貴船口の駅へと戻り、月面みたいに冷え切ったホームのベンチに腰を下ろした。
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