土曜の深夜
「本当に自転車でここまで来たの?すごいわね、大変だったんじゃない?」
「そんな大したことないです。ふだんはもっと長い距離を走るし」なんて謙遜してるけど、センパイのドヤ感は隠しようもなくて、桃子さんはそれを微笑ましく思ってるらしく、「でもやっぱりすごいわ」なんて、さらに持ち上げるのだった。
私はといえば、そうやって桃子さんにおだてられてるセンパイを見るのが辛い一方、その可愛さというか、いじらしさに胸が熱くなるのだった。
ただひたすら、素敵な女性の前で自分のいいとこ見せようと張り切ってしまう、男の人生なんてこれに集約されるといっても過言ではないその姿。私がどれだけ頑張っても、自分では見ることのできない景色。
とはいえ、我々がなぜここに来たのか、桃子さんは忘れたわけじゃない。ひとしきり青木センパイを褒めたたえると、「で、ここから貴船神社まで、かなりあるのかしら」と本来の目的に立ち戻った。
「まあ、歩いて三十分ぐらいかな。昼間やったらバスもありますけど、丑の刻参りやし」
「バスだなんて、最初から考えてないわよ」と、桃子さんは笑う。
「歩く言うても、山道じゃなくて車道やから楽ですよ。車さえ注意したら」
「でも、本当は丑の刻参りって、姿を見られちゃ駄目なのよね。ていうか、こうして一緒に来てもらってるのもルール違反なんだけど」
そう言いながら、桃子さんはショルダーバッグからヘッドライトを二つ取り出し、一つを私に差し出した。
「はい、これ使ってね。青木くんもどうぞ」
「あ、俺は自分のありますから」
見ればセンパイは、すでに自前のヘッドライトを装着してる。それどころか、ウインドブレーカーで首にタオル巻いての山奥仕様で、背中のリュックにも色々と持ってそうだった。桃子さんも目ざとくそれに気づいたらしい。
「あら、準備いいのね」
「実家が和歌山の山奥なんで、日常生活は半分アウトドア感覚なんですよ。ライトと電池は必需品。虫よけとかもありますけど、使いますか?」
「いいの?」と答えた桃子さんに、虫よけスプレーを差し出すセンパイ。ライトまだつけてないからよく判らないけれど、たぶんドヤ顔してると思う。
「ねえ、ハニーさんも使わせてもらったら?」
「はい、ありがとうございます」
センパイのものなら、クマよけスプレーでも噴霧してしまいそうな私。嬉しくなって首筋やら腕に吹き付けていたら、「お前そんな薄着で大丈夫なん?」ときかれた。
「まあ、大丈夫です」と答えたものの、本当はそんなに大丈夫じゃない。昼間の暑さが嘘のように空気がひんやりしているのは、さすがに九月だから、というか、ここは山あいなので街なかよりもずっと気温が低いのだ。
よそから来ている桃子さんですら、それなりに着込んでいるのに、私は昼間のつづきで半袖シャツのまま。はっきりいって鳥肌立ちそうで、指先なんか冷えきっていた。なんで貴船で丑の刻参りするのに、こんな格好なのかと問われたら、ずばり何も考えてなかったと、それしか言いようがない。
「とりあえず、これ使えや。首に巻いとくだけでかなり違うし」
そう言ってセンパイは首に巻いていたタオルをほどいて差し出した。
何?これ巻けって事ですか?ちょっと、センパイが身に着けていたものを!
「心配せんでも、自転車乗ってた時に汗拭いた奴とは違うで。まだきれいやし」
そういう理由でためらっていたわけではないのだけれど、私は「ありがとうございます」と、素直にタオルを受け取った。
「ホテルの備品で古くなった奴、ただでもらってん」
「なんかやっぱりホテルのは上等っぽいですね」
違う。センパイの持ち物だから上等なのだ。正直にそう言えば?私は自分に呼びかけるけれど、返事はない。たしかに家で使ってる、銀行の粗品よりも分厚くてパイルも長い。でもそんな事よりも、センパイの体温が残ってるという現実。
タオルを首に巻きながら、今これで絞殺されても本望だとすら思ってしまう。テンションが上がって、さっきまでの寒さが吹っ飛ぶどころか、顔が熱い。暗闇で本当によかった。
それから私たち三人は、貴船神社へと続く二車線の道路を歩き始めた。
道の右手は川が流れていて、こちらに落ちてはまずいので左手の山側を一列になって歩く。先頭はセンパイで桃子さんが続き、最後に私。行き交う車は無くもないけど、忘れた頃に一台通る、という程度だろうか。
本音を言えば三人の真ん中を歩きたいけれど、桃子さんがいるのにその選択はない。彼女は青木センパイにあれやこれや、身上調査めいた質問をしていて、センパイは律儀にそれに答えてる。
あたりに聞こえる物音といえば、今を盛りと鳴く虫たちと、せせらぎ、と呼ぶにはすこし荒々しい川の流れだけ。だから二人の会話はまる聞こえで、私はそれに耳をそばだてていた。
「ねえ、休みの日も自転車であちこち行ったりするの?」
「そうですね、こっち方面から抜けて、もっと山奥に行ったこともあるし、琵琶湖の方とかも」
「琵琶湖、よさそうね。それで、行った先でおいしいもの食べたりするの?滋賀だったら近江牛とか」
「いや、お金ないんで、どこ行っても安いもんしか食べてません」
「あら残念。いいお店があったら紹介してもらおうと思ってたのに」
「いいお店、か。それやったら、この先にも旅館とか料亭とかありますけど」
「そう!貴船ってずいぶん山奥なのに、ちゃんと旅館もあるのよね。私さいしょ、このあたりに泊まろうかと思っていたの。でも、夜中に抜け出すのは却って不自然というか、見とがめられそうだから、街なかのホテルにしたのよ」
「うちのサークルでも貴船神社に来たことありますけど、昼間はほんまにすごい人でにぎわってますよ。新京極みたいや、言うた奴もいたなあ」
「実を言うとね、私、ずっと昔、大学生の時に来たことあるの。でもその時って、お店もそんなになくて、人もあんまりいなくて、怖いぐらいに静かだったわ。年月を感じるわよね」
「その時も、丑の刻参りやったんですか?」
んなわけないでしょ!心の中でセンパイに突っ込みながらも、そういうボケっぷりがいいなあ、と嬉しくなってしまう私。
桃子さんは「やだあ、私、一生に何度も丑の刻参りするような女じゃないわよ」とはしゃいだ声をあげ、センパイの肩のあたりを軽くたたいた。
もてる女はボディタッチが多い、という噂は本当かもしれない。私は急に背中がざわざわしてきた。
「その時はね、彼氏と二泊三日での京都旅行の初日。お互いに修学旅行で清水寺や金閣寺は行ったことがあるから、少し通な場所ってことで、まず鞍馬寺に行ったの。あそこって電車の駅の方からお寺のある山に登って、反対側に降りたらこっちの、貴船神社でしょ?」
「そうですね、この道の先に降り口があります」
「でもその時、けっこうなヒールのサンダルをはいていたのよね。ガイドブックにケーブルカーがあるから山道でも大丈夫って書いてあったから」
「たしかに、行きも帰りもケーブル乗るんやったら、ハイヒールでも大丈夫やろうけど、貴船に降りる方にはケーブルないですよね」
「そうよ。山の上に着いてから、彼が急に、こっちから降りてみようよ、なんて言い出して、私も深く考えずに賛成したんだけど」
「けっこう急な下り坂やったでしょ?」
「そう。だからすぐに足が痛くなっちゃって、もう無理、おんぶして!って言ったの」
センパイは笑っただけで、桃子さんの言葉を待った。
「ね、青木くんだったらその場合どうする?私のことおんぶしてくれる?」
「は、そりゃまあ。俺は山道、慣れてるから」
ちょっとうわずった声。だけどセンパイ、その答えは違うと思う。
桃子さんだったら、俺はおんぶどころか肩車しますよ、ぐらい言ってもいいはず。いや、お姫様抱っこか。でもそういう舞い上がった事を言わないところが、センパイの魅力なのだ。少なくとも私にとっては。
「彼が青木くんならよかったのにね。残念ながら私の彼は、他の観光客もいるのに、そんな恥ずかしいこと絶対無理!だいたいなんでそんな折れそうなサンダルで来たんだよ、なんてご機嫌斜めになっちゃって」
「そりゃひどいですね」
「でしょ?それに私がサンダルを履いていたのは、その方が足がキレイに見えるからなのよ。彼はいつも私に、女らしい服の方が似合うよって言っていたし、スニーカーでデートなんてありえない感じだったの」
「ほんで、結局どうしたんですか?」
「引き返せるわけないから、もう必死で自力で降りたわよ。まあ、彼も腕ぐらいは貸してくれたし」
「その後で、喧嘩とかにならなかったんですか?」
「喧嘩にはならないわ。彼がご機嫌斜めになったら、気を遣うのはいつも私だから」
「へえ、なんか意外ですね。そんな彼氏なんか見捨てて帰りそうな感じやのに」
「よく言われるけど、そうじゃないのよ。それにあの時は、あたりが本当に静かだったから、なんだか怒りも鎮まっちゃった」
「じゃあ、貴船神社の神様のおかげで仲直りできたんかな」
「そういう事にしておきましょ」
二人の会話はとても自然に流れてゆく。今日初めて会ったなんて信じられないほどに、お互いが楽しそうで、打ち解けていて、こういうのを相性がいいって言うんだろうか。
私がこんな風にやりとりできる相手なんて、悲しいことに姉ぐらいしかいなくって、他は誰としゃべっても、言葉の裏の意味を考えたり、予想外のところで笑われて固まったり、ひどく消耗するだけで盛り上がりもしないのに。
「ハニー、起きてるか?」
「はっ!」
いきなりセンパイから声をかけられて、うろたえてしまう。
「ずっと黙ってるし、歩きながら寝てんのかと心配になってきた」
「お、起きてます」
心配だなんて。センパイに心配してもらえるなら、路肩から川に転落してもいい。それで、ハニー、大丈夫か!とか言われて抱き起されてみたい。でもって意識が戻らないまま、背負って救出されてみたい。センパイの首筋がちょうど私の頬にあたるぐらいな感じでお願いします。
「ハニーさんって、物静かなのよね」
違います。妄想に陥りやすいだけなんです。
私は意識を現実に引き戻すと、襟元のタオルを巻きなおす。
「あら、ここよね?貴船神社って」
桃子さんが立ち止まったので顔を上げると、そこは確かに貴船神社の表参道への入り口だった。とはいえ、こんな夜中だから明かりは消えてるし、何より門が閉まっている。
「これ、どっか抜けてこっそり入るつもりですか?」
センパイがそう質問すると、桃子さんは当然のように「まさか」と否定した。
「ここの境内に入ろうだなんて、そんな迷惑なこと考えてないわ。ただ、この近くでどこかいい場所があればと思って」
丑の刻参りにいい場所ってどういうんだろう。センパイはすこし考えてたみたいだけれど「この先に行ったら神社の奥宮なんですけど、そこの近くに山に入っていける道があるし、どうですか?」と言った。
「理想的。あとどのくらい歩くの?」
「十分ちょいぐらいですかね」
「楽勝じゃない。行きましょ。ハニーさん、起きてる?」
「は、大丈夫です」
慌てて返事するけど、もう私なんか完全におまけというか、下手すりゃお荷物状態だった。ともあれ、私たちはまた歩き始める。
「ねえ青木くん、山に入る道だとか、この辺のことそんなに詳しいのは、裏京都なんとかっていうサークルのおかげなの?」
「いや、それはバイトのおかげで」
「バイト?どういうアルバイト?」
「正確にはバイトと違うかな?友達が、クワガタつかまえたら売れる、言うから去年の夏に来たんです」
「クワガタ?カブトムシじゃなくて?」
「カブトでもいいんですけど、クワガタの方が高いんですよ」
「そうなんだ。で、採れたの?」
「いや全然。それどころか、他にも採りに来てる奴がいて、それがまた友達のツーリング仲間で、なんでこんな山奥で会うねん!いうてびっくりしたぐらいで」
「おかしい!そんな偶然ってあるのね」
「たぶんあの辺の奴らがみんな採ってたから、クワガタおらんようになったんちゃうかな。乱獲ですよね」
「そんなに採っちゃ駄目よね」
そっか、センパイも金に目がくらんでクワガタ採ったりするんだ。私はその情景を思い描いて、なんだか微笑ましくなってしまう。採れ高ゼロってところも、らしくていい。
「あ、ここかな、この道から山の中入れます」
センパイが立ち止まったのは奥宮の少し手前で、ヘッドライトに照らされた先は人ひとりがようやく通れるほどの、細い坂道だった。
「たぶん下枝切りとか、そういう作業するための道やと思うけど」
そう言いながら、ためらう様子もなく登って行くけど、辺りは本当に真っ暗で、足元の茂みからは何が出てくるか判らない。正直、全く行きたくないんだけれど、一人で待っているという選択肢はない。おまけに桃子さんは「そうそう、こういう場所がいいと思ってたの」と、センパイの後をいそいそとついて行くし。
私一体、何のためにここにいるんだろう。本来はムギさんの代わりに桃子さんをエスコートするはずだったのが、青木センパイが来てくれたおかげで完全に丸投げ状態。ただ後ろにくっついてるだけ。
情けない、と思った瞬間、木の根につまずいた。
「あら、ハニーさん、大丈夫?」
気遣ってくれる桃子さんに「大丈夫です」と答えて体勢を立て直す。先を行くセンパイは「あんまり奥まで行っても戻るの大変やし、この辺にしましょか」と立ち止まった。
「そうね。どの木がいいかな」
桃子さんはショップでワンピースでも選ぶような口調で、周りの木を品定めしていたけれど、「これがいいかな」と、ひときわ太い一本を選ぶと歩み寄った。
「目立たない場所がいいわね」と言いながら枯葉を踏み分けて裏側に回り、ショルダーバッグから藁人形を取り出す。センパイは少し離れた場所にいたけれど、背中を向けてしまった。
そうか、こういう事、見るべきではないのだ。そう思って私もその場を離れようとしたら、桃子さんが「ハニーさん、ちょっと手伝ってくれる?」と言った。
「私が五寸釘を打つ間、これを押さえててほしいの」
これ、とは藁人形の事だった。
なんでそんな事!と思ったけど、桃子さんはいたって真剣で、「五寸釘と藁人形、まとめて押さえるの難しいのよね」と言いながら藁人形を木の幹に押し当てている。その右手には五寸釘と金槌が握られていた。
マジじゃないとはいえ、丑の刻参りは人を呪う行為。ここまで一緒に来るのと、藁人形押さえてるのと、どう違うと言われたら、もう一緒かもしれない。それに、一秒でも早く終わってくれた方がいいし。
私は観念して手を伸ばし、藁人形を押さえた。まるで南米あたりの民芸品みたいによくできた藁人形、その胴体には白い布が巻かれていて、呪われるべき人の名前が書いてある。いったい誰がここで血祭にあげられるんだろう。うっかりした好奇心が手伝って、私は思わずその名前を読んでしまう。
桃子。
「え~?!!!」
暗闇に私の絶叫が響く。
「なんでこれ、桃子さん、自分の名前書いてるんですか!」
「だって私、自分を殺すっていうか、生まれ変わりたいから」
「だからって、こんな事、こんな事したら駄目です」
「いいの。これくらいしないと、私は変われないのよ。一回死んで、新しい自分になって、旦那と別れて、新しい生活を始めたいの」
「でもでもでも」
やっぱり駄目、私は藁人形を取り上げようとしたけれど、桃子さんはすごい勢いで右手に持っていた五寸釘を「桃」と「子」の真ん中にあてがうと、金槌を振り下ろした。
一人で、できてるやん。
甲高い金属音が弾け、夜の空気に吸い込まれてゆく。再び桃子さんが金槌を振り下ろそうとしたとき、ありえない音が鳴り響いた。
スマホ。ショルダーの中の、桃子さんのスマホが鳴っている。
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