土曜の終電発車時刻
仕事帰りらしい人に、大学生。それに加えて、この人いったい何してる人?と思わせる風情の人がちらほら混じり、大手の私鉄八両分のバラエティが、まんま凝縮されている感じ。
「この電車、前にも乗ったことあるけど、江ノ電みたいな感じよね。家のすぐ近くを走ったりして。でも、夜はまた違うわね」
桃子さんは少しはしゃいだ声で私の隣に腰を下ろした。江ノ電なんて、そんなおしゃれなものと比べていいのかと思いつつ、私は少し席をつめる。
「ね、青木くんって本当に自転車で大丈夫なのかしら。こんな夜遅くでおまけに山道じゃない?」
「たぶん大丈夫とは思いますけど」
実のところ、桃子さんが心配する百倍も千倍も、私は心配していた。
センパイも丑の刻参りに参加するっていうから、てっきり一緒に叡電に乗ると思ってたら、まさかの自転車現地集合だなんて。
「俺、いっつも実家帰るの自転車やしな。こないだ京都戻ってきて、ちょっとギアの調子悪いし自転車屋に預けてた奴、バイト終わってから取りに行く予定してたんや。そやし、試し乗りもかねて
それだけ言い残して、青木センパイはホテルのロビーからあっさりと姿を消してしまったのだ。
自転車で夜道を貴船まで走る。なんか男らしすぎてうっとりしてしまう。でも、もしかして、桃子さんの前でいい格好したいのでは?と私の醒めた邪心が勘繰るのだった。
「本当に若い子って元気でいいわね。何だかこっちまで元気もらえそうだし、何より心強いわ」
「でも僕は、センパイみたいな元気ないです」
「ハニーさんも十分元気よ。あのね、若い時って自分が元気って判らないもんなの。で、私ぐらいの年になるとね、ああ、あの頃は元気だったなあ、って実感するのよ」
「そんな、桃子さんかって・・・」
十分若いじゃないですか、という続きの言葉をかき消すように、アナウンスが流れ、電車がゆっくりと動きだす。
私はうつむき加減に、さっき姉から聞き出した桃子さんのジェットコースター的人生を思い出す一方で、やっぱりあんな掟破りな事、しなければよかったと後悔もしていた。
いま、私の隣に座っている、この車内で一番美しいことほぼ確定の桃子さんと、モラハラ男とスピード離婚したり、上司と不倫したり、妻子持ちに騙されたりしてしまう桃子さん。私の頭の中でこの二人はどうしても一つに重ならない。
桃子さんが誰かを好きになるポイントって、一体何なんだろう。
あれこれ考えるうちにも、電車は走る。といっても自転車並みの速度で、しばらく走れば次の駅。そのたびに降りる人はいても、誰も乗ってはこない。
桃子さんは時おり外に視線を向けたり、「
来るべき丑の刻参りのために、Tシャツの上に長袖のシャツを重ね、ジーンズにスニーカーと装備を整えている。無造作に膝にのせているキャンバス地のショルダーには、藁人形と五寸釘を忍ばせているはずだった。
「そうそう、病院に行ったら、ムギさんに鯖寿司食べたいって言われて」
桃子さんはスマホを取り出すと、検索を始めた。
「だいたい有名なとこって、このあたりかしら」
差し出された画面には、ほぼ円に近い断面の肉厚な鯖寿司が輝いていた。たしかこれ、けっこういいお値段のする老舗の奴。
「なんかね、一晩で退院できなかった理由が、血液検査で引っかかったかららしくて。先生に血液ドロドロって言われたんだけど、そういう表現って医療者としてどうかと思うのよ!って、ご立腹。彼はイケメンではあるけど、修行が足りないわね。ずっと入院しといて教育してやろうかしら、だって」
「それと、鯖寿司と、どういう関係があるんですか?」
「だから、鯖を食べて血液サラサラにするって意気込んでるのよ」
たしかに鯖とかって身体にいいらしいけど、その下にみっちり詰まったお米に含まれるカロリーはどうなんだろう。でもそういう指摘はムギさんにはたぶん無意味。
「病院に持って行ってあげるんですか?」
「ううん、明日、帰りの新幹線で食べるの。仕事もあるし、明日は東京に帰るってことで、退院の許可は出たんだけど、熱中症って侮れないわね」
「ムギさんのお仕事って、僕はよく知らないんですけど、何してはるんですか?」
「仕事ね、私も全部知ってるわけじゃないけど、バーやレストランの経営コンサルタントとか、人材紹介とか。とにかくあの人、顔が広いから頼まれごとも多いらしくて、ボランティアでやるとストレスがたまるから、お金とって割り切れるように会社を作ったんだって」
「ほな、社長さん?」
「社長なら誰でもなれるわよ。書類の手続きさえすれば。ムギさんのすごいところは、自分が見込んだ人を世に出したいっていう、情熱よね。執念と言ってもいいかもしれない。とにかくいい仕事するから!とかって、若い料理人を飲食関係のオーナーに推薦したり。それで実際にお店がオープンして、予約がとれないほどの人気になったりしてるし」
「すごいですね」
「でも、実際はかなり大変っていつも言ってる。人づきあいが広いってことは、しがらみも多いってことだから。あの人、自分じゃ怠けものとか言ってるけど、こうして強制的に入院でもさせない限り、休んだりしないの。ワーカホリックね。今だって病院から電話だのメールだのやってるから」
「仕事する、って、そんなに楽しいもんですか?」
思わず口にしてしまった質問に、桃子さんは一瞬きょとんとした顔になり、それから「まあ人それぞれじゃないかしら。それに、ワーカホリックって、仕事依存症のことだから、楽しいかどうかは疑問ね」と笑った。
「僕はなんて言うか、大学出て、ちゃんと社会人になって、仕事できるような気がしないんです」
「あら、ハニーさんは大丈夫よ。ムギさんが、京都行ったら面白い子紹介するからねって言ってたぐらいだから、お墨付き」
「僕、なんにも面白いとこないです」
そう言いながら私は、ああ嫌だ、と思っていた。こういうことを口走れば、優しい桃子さんは絶対に「そんなことないわよ」なんてフォローしてくれるだろうと、頭の片隅で期待しているのだ。
実験に使われるネズミがスイッチを連打して餌を求めるみたいに、ネガティブワードを連発して、優しい言葉を引っ張り出そうとする。一つもらえれば、もっともっと、熱を込めて自分の駄目さ加減を訴えてみせる。
「実を言うとね、私にはハニーさんの面白さって、まだよく分からないのよ。ごくごく普通の人に思えるの」
桃子さんはそこにはいない誰かに語りかけるように呟いた。
つまりそれ、私はつまらない人間だってこと?
予想外の答え。でも私はそれより桃子さんの率直さに、やや感動していた。
「変なこと言ってごめんね。でも私は、ムギさんみたいに、人の本質がすぐにわかるような目利きじゃないから」
「人の本質、ですか」
「そう。もうね、呆れちゃうぐらい、駄目な人を好きになりがちなのよ。友達が口を揃えて、別れろって言うような男性を。でも自分では、私にはこの人しかいない!って思っちゃうのよね。お昼の占いの時にも、そんな話したわよね」
そこまで言って、桃子さんは口をつぐんだ。気がつくと、乗客の数はずいぶんと減っていて、小声で、電車の走る音に紛れるとはいえ、車内で話しているのは私たちだけになっていた。
窓の外は暗く、家の明かりもまばら。半時間足らずで街なかからすっかり山の中に分け入って、京都ってつくづく狭苦しい盆地だ。
「でもそれは、この人には私しかいない、という事の裏返しかもしれない」
がたん、と電車が揺れて、桃子さんの細い首も揺れる。
「この人には私が必要だ、そう思うと、もう友達の忠告なんて耳に入らないの。ムギさんに言わせるとね、三人姉妹の真ん中だからだって」
「三人姉妹の真ん中?なんでですか?」
「家の中で一番注目されないから。長女は最初の子供だから、もちろん大事にされるでしょ?一番下は末っ子だからちやほやされるし。おまけにうちは、跡取りがほしかったから、姉妹そろって、男じゃなくってすみません、って感じ」
その気持ちは私もわかる。まあ、うちの父親はまだ気づいてないだろうけど、息子には恵まれてないから。
「そのせいなのかしら、誰かに必要とされると、すぐにスイッチが入るの。自分ってもんがないのよあんたには、ってムギさんによく喝を入れられるんだけど、そもそも自分って、何なのかしらね」
「はあ」
「ハニーさんはどう?恋愛はうまくいく方?」
「はっ、僕ですか?」
「どんなタイプの子が好きなの?やっぱりちょっと、危なげな女の子って、気になったりしない?」
「いや、僕はなんていうか、安定志向なんで」
しどろもどろで答えながらも、私は青木センパイのことを想う。そう、誰が見たってヤバくない、ごくごくまともな、真面目そうな、下手したらいい人すぎて退屈とか言われかねない、恋愛より結婚向き物件。
「安定志向って、優しそうな子、とか?なんかつまんない。私やっぱり、ハニーさんの面白さが判らないわ」
少しも嫌味じゃない言い方で駄目出しして、桃子さんは微笑んだ。
「どういう答えしたら、面白いですか?」
「それはやっぱり、あなたみたいな人がタイプです、って答えね。そういう事言われると、あらそうなの?って、火がついちゃう」
「いやそんな」
駄目、もうなんか色々通り越して怖い。私これ誘惑されてるんですか?それともからかってるだけ?
女の私でもなんかドキドキしてくるのに、男でこれやられたら一発アウト。私はこっそり車内を見回し、今の話が聞こえるほどそばに人がいないのを確かめて安堵した。
私が取りこぼした会話をつなごうとしてか、桃子さんは少し気軽な調子で「ねえ、あの青木君って男の子、彼女とかいるのかしら」と続ける。
「さあ、僕そこまでよく知らないんで」
そう、情けないことに、私はセンパイのプライベートなんかほとんど知らないのだ。
サークルに顔出してる時以外、一体どんな事してるのか、就活どうなってるのか、血液型はおろか、誕生日すら判らない。
好きなタイプ、好きな映画、得意な科目、犬派か猫派か、お風呂は熱めかぬるめか、ラーメンは味噌か醤油か、長電話は嫌いか、可愛い子のわがままなら許すか、寝る時は仰向けか。知りたいことは山ほどあるけど、何も知らない。
「彼を見てると、大学時代の友達とか思い出すわ。テスト前にノート貸してあげたり、一緒にライブ行ったり、ゼミの旅行でずっと車運転してもらったり」
「いい人、って感じですよね」
「そうそう!優しいし、真面目だし、困った時には色々と助けてくれるし。でも、ずっと友達なのよね」
「ずっと友達、ですか?」
「うん。つきあって、って言われたこともあるけど、そういう男の子たちって、いい人過ぎてときめかないの」
いま「男の子たち」って複数でしたよね?私は心の中で念を押す。でもまあ不思議じゃない。相手は桃子さんだ。みんな下心ありで近寄って、尽くして、撃沈したわけか。
「もちろん友達からは大ブーイングよ。あんたどうしてあんないい人断るのよ!って。でも私としてはときめかない。つまり見る目がないの」
「でも、恋愛って結局、自分がいいと思う相手を選ぶしかないんじゃないですか?」
「そう思ってくれる?」
桃子さんは今夜いちばん、と言いたいほどの華やいだ笑顔になった。私はといえば、青木センパイが桃子さんには退屈物件だと確認して、安堵している。
「でも今になって思うのよね、ああいう真面目な、いい人とつきあうのって、本当はどんな感じかしらって。ときめかないって一言で片づけてたけど、実際につきあってみたら、意外な展開とか、あるかもしれないわよね」
「かも、しれないですね」
「それに、かなり年下っていうのは、十分にときめき要素だわ」
何それ。
ちょっと、桃子さんセンパイのこと狙ってきてる?
どう言葉を返したものか、頭の中身がほぼクラッシュしたところで、電車がゆっくりと停まる。
「あ、この駅じゃない?」
言われて外を見ると、確かにそこは貴船口。あたふたと立ち上がって電車を降りると、ホームのベンチに誰か座ってる。それは自転車で先回りしてきた青木センパイで、私たちを見つけると、口元に笑みを浮かべて軽く手を振った。
これが二人だけのデートだったら、もうここで死んでいいレベル。でもたぶんセンパイの笑顔の99パーセントは桃子さんに捧げられている。
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