土曜の夜

 裏京都研究会、略してウラ京は総勢三十人たらずの弱小サークルで、その名の通り京都の裏側を研究するのが建前上の活動内容。

 どうして私がこんなサークルに入っているかといえば、入学二日目のオリエンテーションの帰りに、手あたり次第、という感じで勧誘されたのがきっかけだった。

女子が多いから楽しいだとか、街歩きの勉強会でめっちゃ京都通になれるだとか。色々言われたけど、生まれてからずっと京都にいる者として、なんで今更京都なん?としか思えず、話を聞いてるふりをしながら、じわじわと距離をとり続けた。

 そして、いざ「すいません、用事あるんで」と逃げようとしたところに、現れたのが青木センパイだった。

 初対面でどストライク、というか、センパイは世にいうイケメンではないのだけれど、私の好きな顔立ちをしていた。どこがというと難しいのだけれど、しいて言えばやはり目元で、一重で表情が読み取り難いようでいて、何かこちらを安心させるような、暖かな光を宿している。その光は彼が笑いを浮かべるとさらに輝きを増した。

 ほぼ暗黒の中学高校時代を経て、大学生になったら何かが変わるかも、なんて淡い期待に浮かれていたのも事実で、私はその期待のすべてを青木センパイに投入して、裏京都研究会に入った。


 新生活への過剰な期待が消え失せるのに、そう時間はかからなかった。

 サークルにいるのはほぼ全員が他府県の出身者で、おまけに京都大好き。ネイティブ京都人の私など足元に及ばないほど、この古い街のあれこれに通じていて、話題もやたらとディープでついて行けない。

 なのにどこかでスイッチが入ると、こういうとこ、京都の人ってやだよねー、と下宿の大家さんや、バイト先の奥さんなどに言われた、された、「いけず」を披露しあっての京都人糾弾集会が始まったりして、これも肩身が狭い。

 別に、一緒になってワイワイやってればいいんだろうけれど、私にはそれができなかった。まるで大縄跳びに入り込めなくて、ずっとタイミングをはかってるような感じ。誰に意地悪されたわけでもないのに、誰からも「入れ」と言われてない気がして、後ずさりしていた。

 頼みの綱のセンパイが、就活で忙しいらしくて、あまり顔を出さないのも想定外だった。

 さらにサークルだけじゃなくて、ふだんの授業でも同じような感じで、まあ少し言葉を交わすような子はいても、昼ごはん食べに行こう、だとか、一歩踏み込むことができない。おまけに自宅生なもんだから、下宿を行き来するようなこともないし。

 そうやって、気がつくと私の生活はまた、暗黒時代に戻ろうとしていた。

 大学って縛りがきつくない分、中学や高校よりも人とかかわらずに過ごせてしまうのだ。授業は大して面白くもないというか、そもそも自分の頭で入れるところ、というのを基準にしているから、学科に対する思い入れも薄い。

 私、何しにこの大学に来てるんだろう。

 四年たって卒業して、それからどうするつもり?

 一生男のふりして暮らす覚悟あるの?

 結局のところ、大学に入った程度で私の抱えてる問題は解決しないというか、せいぜい先送り。いや、センパイと出会ってしまったために、事はさらに切羽詰まったともいえる。

 アホちゃう?

 出会ってしまった、などという表現は、両想いの恋人にのみ許されるものであって、私のくすぶりまくっている片思いが使えるはずもない。

 まあそんな事ばっかり頭の中を行き来していて、授業もさぼりがちで、両親共働きなのをいいことに、昼間っから家で寝転がってたりする。そして天井見上げて呟いたりするのだ。

「死にたい」

 もちろん今すぐ死ぬ勇気などないんだけど、自分の前に横たわってる、気が遠くなるような年月を生き続けることを考えると、そんな事も言ってみたくなるのだ。

 途上国の飢えた子供だとか、紛争地帯の難民だとか、そういう人に比べてどれだけ自分がぬるま湯の生活かというのは判ってる。判ってるんだけど、どうしようもなく苦しい。

 今日は昨日の続きで、また明日がやってくる、でもそれは私のほしい明日じゃない。


「何?あんた丑の刻参りしてるんちゃうん」

 電話の声から察するに、姉は酒が入ってるようだ。

「それはこれから。丑の刻って夜中の一時から三時の間やし、時間つぶしてるねん」

「暇やし電話してきたん?ほな切るで」

「待ってって、用事はちゃんとあるんやから。なあ、この前電話した時、桃子さんのこと、ジェットコースターの桃子さん、て言うたやろ?」

「そやな」

「人生ジェットコースターって」

「そうそう」

「あれ、どういう事なんか詳しく教えてほしいねん」

 姉の背後から、ハングルらしきものが聞こえてくる。土曜の夜、女ひとりでビール片手に韓流ドラマってところか。

「それは言わへんって、言うたよね。知りたかったら本人に聞いたらええやん。一緒にいるんやろ?」

「今は一緒ちゃう。ムギさんとこの病院に差し入れ持って行ってはる。叡電えいでんの最終に合わせて出町でまちで集合やねん。歩美ちゃんが桃子さんの身の上話するのはルール違反って言うたんは憶えてるけど、緊急事態やねん」

「はあ?緊急事態て、どういう事?」

「どういう事って」

 これ、どう説明したらいいわけ?実のところ私にもよく分からないというか、どうして自分がここまで不安で焦ってるのかが理解できない。

「切るで」

「待って待って!あの、丑の刻参りに、参加者が増えてん」

「ほう、よかったやん、にぎやかなって」

「それがサークルの先輩やねん。たまたま、桃子さんが泊ってはるホテルでバイトしてはって、よかったら一緒にどうですか、みたいな話になって」

「そやし、よかったやん」

「よくないねん」

「なんで」

「なんでって、先輩がなんか、桃子さんに気があるみたいで」

「そんなん、男やったら当たり前やろ。ましてやお誘いを受けたとなったら」

「その、お誘いって、桃子さんも先輩のこと好きっていう意味?」

 姉が新しい缶ビールを開けたらしい、プシュっという音が聞こえる。

「あんたその先輩とやらが好きなん?」

「かもしれん」

「切るで」

「いや…好きなん」

 はーあ、というため息の後に「勝ち目ないやん」と続いた。

「そんなんわかってる」

「わかってるんやったら、大人しゅうしてたらええのに」

 ごもっとも。電話の向こうではビールを飲んでいるらしい姉の沈黙。わかった。もう切ろうかな、と思っていると「群馬の高校時代からモテまくりやったらしいわ」という声が聞こえた。

「学年の男子全員が告白した、いう伝説があるらしいよ」

「それ、誰にきいたん?」

「基本、ムギさん情報。ムギさんは桃子さんの幼馴染とも仲がええから、武勇伝を色々知ってはるねん」

「ホンマに顔ひろいんやなあ」

「でもな、本命の彼氏が一つ上の学年にいたから、告白した男子は全滅。ほんで、大学で東京きはって、さらにブレイクやな」

「本命の彼氏は?」

「浪人したのに東京の大学全部こけて、終了。桃子さんはF大の指定校推薦やって。格が違うねん」

「すごいね」

「大学では超人気ゼミ入って、指導教官に気に入られて、BSの経済番組のアシスタントしてはってん。サークルはテニスかな?高校からやってはったから、強いらしいで。ゴルフも大学デビュー。言い寄る男は山ほどいたけど、その中で一番あかん奴と付き合ってたって」

「あかん奴?」

「今で言うモラハラ?千葉かどっかの成金のぼんで、頭悪いのにやたら自分満々ていうタイプらしいよ。何べん別れても、またひっついてしまうという、傍から見たら完全に理解できひんカップル」

「なんでやねんろ」

「それがわかったら本人も苦労せえへんで。友達にはいっつも彼氏のことで相談してたらしいし。でもまあ、成績優秀やし美人やし、就職は一部上場、東邦興産で本社勤務。普通やったら五年はかかるところを、一年で花形のチームに抜擢や」

「さすがやね」

「でもそこ、三年で退職しはってん」

「なんで?」

「例のモラハラ彼氏と結婚。最初は仕事は続ける、いう話になってたのに、いつの間にか彼氏の家の仕事を手伝うように持ってかれて、言われるがままに退職」

「え、待って?それが今の旦那さん?」

「違います。いま話してんのは一人目の旦那」

「じゃあ、離婚しはったって事?」

「それをこれから話すんやん。結婚退職します、いう時は友達みんなで、早まるな!て止めたらしいし、本人もやっぱり違う、とか思い始めてたらしいけど、なんか式場も予約したし、指輪も買ったし、家具もそろえたし、みたいな感じで勢いにまかせて強硬突破。幸か不幸か、結婚したとたんに洗脳が解けて、半年で桃子さんから離婚を持ちかけはってん」

 どっかで聞いた話だな、と思う。ま、姉の場合は結婚秒読みで回避した方だから、こっちの方が傷は浅いはず。

「そやけど、いきなり離婚いうたかて、別に旦那に落ち度があったわけちゃうやんか。合意の上で結婚したのに、桃子さんが一方的に嫌になりました、ていう解釈になるわけ。それでも絶対に別れたい一心で、弁護士たてて、桃子さんが慰謝料払うかたちで離婚成立や」

「なんか、桃子さんて男前やね」

「ほんでや、また仕事探さなあかん、と思てたら、東邦興産の方から、フリーになったんやったら是非きて下さいって、お誘いがあったらしいよ。さすがに本社は無理やったけど、子会社の正社員で返り咲き。ところが好事魔多しっていうのかな」

 姉のしゃべりに時として、妙に古臭い言い回しが入るのは、西陣のじいちゃんの影響かもしれない。

「こんどはそこの上司と不倫しはってん。しかも難儀なことに、上司の前の不倫相手もおんなじ職場に残ってて、おまけに未練も残ってます。ザ・三角関係やね。ほんでまあ、桃子さん本人にもやっぱり悪い事してる、いう気持ちはある。いっそ退職して手を切りたい、そやけど生きるために仕事はせんならん。会社行ったら上司いる。前カノからは嫌がらせ受ける。そんな生活を二年ほど続けたら、完全にメンタルやられてドクターストップ。休職して療養生活」

「でも、治るのは治った?」

「そう。一年後になんとか復帰。休職してる間に上司は左遷されてて、前カノは辞めてたんやけど、新しい女の上司がなかなかのビッチや。絶対に第三者の前では尻尾出さへんタイプのいけずやねん。そやし、自分がやられた事、誰に言うても「まさかそんなぁ」みたいな感じで信じてもらえへん。「気にしすぎ」とか言われて完全アウェイ。ほんで、さすがの桃子さんも、もう無理!って退職や」

「はあ、なかなかに壮絶やね」

「ジェットコースターや、言うてるやんか」

「ほんで、どうしはったん?」

「まあ、とにかく食べるためには仕事せんとな。桃子さんの偉いとこは、自分の食い扶持は自分で稼ぐとこやな。男におんぶにだっこ、とはならへん。まあ、それが平気な人やったら、また違う人生かもしれんけど」

 姉はビールを飲んで一息いれる。韓流ドラマはどうも痴話喧嘩が持ち上がったようで、女同士の激しい言い争いが聞こえてくる。

「ほんで、次の仕事探しにあたって、やっぱり何か一生もんの資格を持とうと思わはって、バイトしながら専門学校でファイナンシャルプランナーの勉強や。元々優秀な人やから、勉強はさくさく進んだけど、問題はバイト先」

「何のバイトしてはったん?」

「時給がええから、水商売系。いうても会員制のバーらしいわ。お客さんはお金持ちばっかりで、しかもジジイが多いから、桃子さんはすごい人気やったらしいよ。でも何故か、そこのバーテンダーとつきあわはるんやな。そっちかい!みたいな」

「でも、バーテンダーやなんて、かっこいい人やったんちゃう?」

「あかんあかん。とにかく謎の人物で、まず絶対に自宅を教えへん。ほんで、その人と仕事上がりに近所の店とか行くやん、そしたら彼氏がトイレとか行ってる隙に、店の人から声をひそめて「あの人だけはやめろ」言われるんやって」

「何?犯罪者?」

「いうか、何人も泣かせてる、いう奴やろ」

「それで、桃子さんは怖くなかったんかな」

「さあねえ。でも子供できてしもたら、やっぱり結婚しよかなと思うわけやん」

「子供?バーテンダーさんの?」

「そう」

「桃子さんて、子供さんいはったんや」

「まだ話は終わってへんで」

 姉の声には不穏な響きがある。

「妊娠もしたし、これは本気で結婚の話をせんならんと思って、桃子さんは彼氏の家まで行かはった。住所は彼氏が寝てる間に免許証で調べてな。それで、行ってみたら家の前にどーんと三輪車とか砂場セットとか置いてあるわけよ。まさか、と思いながらも、遠巻きに見てたら、今度は中から女の人が出てきはって」

「奥さん?」

「普通に考えてそれしかないし。おまけにお腹大きいねん」

「ええ~?!」

「それで桃子さんも、これはもうあかん、となって引き上げはった。で、シングルマザーになるしかないと、覚悟を決めたんやけど、認知だけはしてもらおうかと思ったんやね。それも含めて彼氏と話をしようとしたんやけど、向こうから先制攻撃で、お前こないだ俺の家のあたりうろついてたやろ!いうてブチ切れられて」

「え?なんで怒られなあかんの?」

「嘘ついてんのばれたから、逆切れして暴れてるだけや。そこでかなりの暴力ふるわれて、ショックもあってか流産しはってん」

「なんか最悪やん」

「そやなあ。ま、不幸中の幸いは、そこでそいつと縁が切れたことやろな。まあ、それと前後して資格もとれて、保険代理店で働くことが決まって。人間万事塞翁が馬、言うんかな」

「何それ」

「まあ要するに、人生いいこともあれば悪いこともあるということ」

「でも、いいことは桃子さんの努力の結果やし、悪いことは彼氏とか上司とか、他の人のせいやんか」

「見方を変えれば、そういう人間関係を選んだ結果やもん、しゃーないわ。とにかく、心機一転、新しい職場で新しい生活が始まりました。そこで出会ったんが今の旦那さん」

「ようやく出てきた」

「業務提携先の税理士さんやねんて。それで、わりとすぐに結婚しはって、現在に至る。そやけど今の旦那、風俗通いが趣味やねんで」

「え!歩美ちゃん、そんな事まで知ってんの?ムギさんから聞いたん?」

「そう。あの人、だって秘密だったら、他の人には黙ってて、ってお願いするじゃない。でも桃子ちゃんはそんなの言わない人だからいいのよ、やって」

「そうかあ」

「あんたこそ、なんで旦那の趣味のこと知ってんの」

「いや、桃子さんから直接きいてん」

 言ったとたんに、耳が痛くなるほどの音量で姉が爆笑した。

「やっぱ桃子さんてすごいなあ!そういうえげつない事でも、初対面の相手に言わはるんや。ほんで、口止めされた?

「ううん。なんか普通に、さらっと言われて、聞き間違いかと思ったぐらい」

「そやろ?桃子さんはそういうとこが凄いねん。ムギさんは、あれだけ色々あったのに、美貌が全く損なわれてないのよ!って絶賛してはるし」

 確かにそうだ。誰であろうと、桃子さんの外見からそんな人生は想像できないだろう。

「ま、そういうとこやね。あんたなんか足元にも及ばへん相手やし、せいぜい男の落とし方でも勉強させてもらったら?」

「え?でも、桃子さんて、ヤバい男の人が好きなタイプなんちゃうの?年下は対象外やんな?」

「私がしゃべったんは、ムギさんからきいた話だけで、桃子さんの恋愛遍歴のすべてではありません。もしかしたら氷山の一角かもしれんな」

「何それ、どういう事?」

 焦る私に「ほなおやすみ~」と一声かけて、姉は通話を切った。

 氷山の一角。

 私は携帯を握りしめたまま、鴨川かもがわの三角州に座っている。そして桃子さんとの集合時間まであと十五分だった。

 












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