土曜の夕方
「ほらね、ちゃんと準備したのよ」
鈍い金属音をたて、ベッドカバーの上に転がったのは、ボールペンほどもある、いわゆる五寸釘という奴が三本。
「あと、これも」の声とともに続いたのは金槌で、こちらにはホームセンターの値札がついたままだった。
「私が十分本気だって、わかったでしょ?」
言いながら、桃子さんは五寸釘と金槌の隣に藁人形を並べた。丑の刻参り三点セット。
私は「はい」と素直に頷いて、さらに身体を縮めた。
コーヒー占いの店を出て、桃子さんはさらにあちこち、目についた店で買い物をした。
草木染のスカーフ、大吟醸酒粕入りのフィナンシェ、草花を漉き込んだ和紙のはがき。そういった趣味の良いものを選び取る彼女が、本気で丑の刻参りを決行しようとしている。
もしかして、こういうのが本当の女性で、私が自分を女子だと思ってるのは単なる現実逃避なんだろうか。
美しくて優しくて上品で、そして恐ろしい。この振れ幅の間は断層ではなく、グラデーションでつながっている。相反するようで、どっちもありで、その理由は「だって女ですもの」なのだ。
暑さも加わって、私は脳内とっちらかった状態で桃子さんの泊っているホテルへと戻り、荷物を運んでいるから、という理由でこの部屋までついて来てしまった。
ゆったりしたツインルームで、窓からはレースのカーテンを透かして、夕刻へと翳り始めた九月の青空が見えた。その手前に置かれたテーブルセットの椅子が、私の避難場所だ。
「ねえ、本当に遠慮なんかしなくていいから、シャワー浴びればいいじゃない。暑いのにあちこちつきあわせちゃって、汗かいたでしょ?タオルやなんかはムギさんの分を使えばいいから」
桃子さんはそう言いながら、冷蔵庫からペットボトルの緑茶を二本取り出し、一本を私のいるテーブルに置いた。そして自分はベッドに腰掛けると、残りの一本を開けて少し飲んだ。
「準備してきたの、これだけじゃないのよ。虫よけもあるし、スニーカーも持ってきたし、長袖のシャツも。あと、頭につけるライトも買った。ちゃんと二人分あるわ」
「そうなんですか」
「知ってる?丑の刻参りって、本当は白装束でないといけないの。それで、頭に五徳、っていうの?理科の実験で、アルコールランプの外側に置く金具があるじゃない。丸い輪っかの下に足が三本ついてる奴。あれを逆さまに頭にのせて、三本の足にそれぞれ蝋燭を立てるんだって。さすがに無理よね」
よかった。桃子さんがそこまで思い詰めてなくて。
「でね、七日の間、通い続けるの。そうしたら七日目の夜に、大きな黒い牛が通せんぼするみたいに座ってるんだって。それを怖がらずにまたぐことができたら、願いが叶うらしいわ」
「七日間、やるんですか?」
「それも無理。私のは結局、なんちゃって丑の刻参りで、今夜一晩だけ。でも、もしかしたら、黒い牛がいるかもしれないわね」
「いたら、またいで下さい」
私の言葉に、桃子さんは声をあげて笑った。そしてペットボトルの緑茶を少し飲む。
「ねえ、本当にシャワー浴びないの?だったら私、軽く汗を流してくるから、しばらく待ってもらっていい?お菓子とかあるから、食べてて」
そう言って彼女は、キャリーバッグからマカロンだのチーズおかきだの、色んなものを取り出し、五寸釘のそばに並べた。
「あ、いえ、結構です。下で、ロビーで待ってますから」
何たる失態。
桃子さんはずっとシャワーを浴びたかったに違いない。私は運んできた荷物を置いて、すぐに立ち去るべきだったのに、図々しく居座ってしまったのだ。
桃子さんは「ここにいればいいじゃない。テレビでも見てれば?」なんて言ってくれたけど、私はもう、いたたまれなくて、逃げるように部屋を後にした。
ロビーはこれからチェックインらしい、荷物を持った人や、桃子さんのようにショッピングの戦利品を抱えて戻ってきた、タイかどこかの団体客でにぎわっていた。ソファはほとんど占領されていて、仕方ないから空きが出るまでうろついてみる。
フロントの脇にはツアーバスやグルメガイドなんかのパンフを並べたコーナーがあって、その隣にはホテルのイベント関連のチラシもある。
ソムリエと味わう、秋の味覚を楽しむワイン。名月と室内楽の夕べ。紅葉めぐり連泊プランにクリスマスのディナーショー。
外はまだ残暑でぎらついているのに、見ているだけで頭の中の季節が進む。秋だとかクリスマスだとか、それすなわち恋人たちの季節で、私には望むべくもない楽しみが、夏に疲れた人たちを誘っているのだった。
もしも、万が一、奇跡が起きて。どれでもいいけど、青木センパイと二人、たとえば秋の収穫祭ディナーなんてのを楽しむことになったとしたら。嬉しい。嬉しいんだけどその反面、一体どういう顔して何を話せばいいんだかわからない。
いや、だから。冷静なもう一人の私が突っ込む。
そんな事現実にはありえないから、あれこれ考えるだけ無駄。まあ、見方を変えれば、実現しようのない事だし、めいっぱい妄想繰り広げてたらどう?
そして私は後者を選び、まずはどういうきっかけでセンパイが私を誘うか、という時点から妄想をスタートさせる。たとえば、バイトを代わってあげた友達からペアの食事券もらったんだけど、女の子誘うのもハードル高いから、なんて感じで。
「あれ?また戻って来たん?」
青木センパイの声がする。
まさか。妄想があふれ出して、ついに幻聴発生?ちゃんと現実に立ち戻ろうと、私は深呼吸して頭を振った。でも、目の前にいるのはやっぱり青木センパイだった。
「センパイ、ここで何してはるんですか?」
「何って、バイト上がりでチラシ見てるんやん。うちのオカンが来月、親戚と一緒に京都来るんやけど、あちこち案内させられても困るし、なんかええツアーとかないかなと思って」
「そうなんですか」
言いながらも、私は心臓バクバク。まさか本当にここでまた会えるなんて。
「そんな驚かんでええやん。あの、一緒にいた綺麗な女の人は?」
「桃子さん?」
私の心臓は、さっきまでの喜びとは別の力で暴れ始める。
「今、ちょっと部屋に荷物置きに行ってはるから、ここで待ってるんです」
シャワー浴びてるなんて、センパイの煩悩に餌を与えるような事は絶対に言わない。私がここにいるのに、ここにはいない桃子さんのことを聞かれただけで、もう十分に傷ついた気分で、それをまたもう一人の私が冷ややかに眺めている。
「なあ、あの人お前のこと、ハニーさん、て呼んでるやん。あれなんで?」
やっぱり聞かれてた!
なんかもう死ぬほど恥ずかしいのだけれど、答えないわけにもいかない。私は最低のテンションで「うちの姉さんがつけた綽名なんです。名前のミツヨシにひっかけて」と説明した。
「ミツヨシ?ああ、蜜やからハニーか、おもろいやん!学校でもハニーって名乗っといたらええのに」
「そんなん、みんなドン引きですよ」
「そうかな、俺はけっこう違和感ないで、ハニー」
うわあああ。身悶えしそうなくらい嬉しい。と同時にめちゃくちゃ気恥ずかしい。
私はまともにセンパイの方を見られなくなって、何の興味もない「和菓子の名店で手作り体験」のチラシを手にとった。
「しっかしアレやな、姉さんのいる奴は慣れてるっちゅうか、女の人としゃべるのに緊張せえへんからええなあ」
「え、僕ですか?」
「そやんか」
「そんな事ないです。それに、うちは姉と年が離れてて、半分親みたいなもんやし」
なんだか不思議な気がするんだけど、私から見るとセンパイは本当に人当りがいいというか、誰と話す時も自然体だし、最初にここで桃子さんと会った時も、緊張してるそぶりさえ見せなかったのに。
「センパイは、男きょうだいだけなんですか?」
「うん、兄貴がおるねんけど。五つ年上の」
そこでセンパイは言葉を切り、取りかけていたチラシをラックに戻した。
「わけあって、というか、障碍があって、施設に入ってる」
これは。私は何と言うべきかわからない。
「なんかそういう兄貴がいるて、学校の友達とかにもはっきり言えへんかってんな。でも、兄弟いません、と嘘つくのは兄貴のこと否定してるみたいやし。まあ、ちゃんと言うようになったんは大学入ってからやな。社福って、けっこう同じような奴が来てるし」
社福、というのは社会福祉学科、の略称。
「それはつまり、自分の家族のために、福祉系の仕事をしようって事ですか?」
「別に直接、面倒見るわけちゃうけど。家族にそういう人間がいると、そっち関係の仕事もありや、って早いうちから思う奴が多いんやろな。実際、俺は親からはあてにされたりする事もあったし」
「あてにされる?」
「お兄ちゃんのこと、助けたげてや、って。親だけやないで。爺さん婆さんに親戚、近所のおばちゃんとか、面と向かって言われてなくても、言葉の端々には常にあるわけや。自分が生まれたのは兄貴のサポート要員なんやって、小さい頃からその自覚はあんのよ」
「なんか、すごいですね。尊敬するというか」
「尊敬」と、私の言葉を繰り返して、センパイは苦笑いした。
「それは完全に幻想や。障碍持ってる人間と関わってる奴は偉い、って。自分にはとても無理。そんな面倒なことできる人は、とりあえず尊敬しとこ。いや違うな。敬して遠ざける、やから敬遠や」
センパイのその言葉に、私はしまった!と背筋が寒くなった。なんか、たぶん、一番ムカつく種類のことを言ってしまったのだ。安易に持ち上げようとして。
「すいません」
一瞬前の浮足立った気持ちが、霧のように消えてゆく。さっきの桃子さんとのやりとりもそうだけど、結局のところ私は、相手の事なんて少しも真剣に思い遣ったりしてないのだ。
「なんで謝るねんな」
「いや、なんか軽々しく、尊敬するとか言ってしもたから」
「責めてるわけとちがうで。俺が言いたいのは、俺らは別に偉いわけじゃなくて、普通やいうこと。社福を選んだんは進路の選択肢として、わりと判ってる業界やからや。なんも崇高な使命感とか、そんなんあらへんねん」
そうフォローされても、私の落ち込みはおさまらない。それはセンパイにもばっちり伝わったみたいだった。
「正直なところ、こういう空気になるのが嫌で、俺は兄貴のことを黙ってたんやろうな。なんか知らんけど、気まずくさせるネタやねん。兄ちゃん障碍あって施設入ってんの?へーえ。それだけで終わる相手の方が楽やねん。あれこれ気ぃ遣って、優しいこと言うてくれる相手の方がしんどいんや。ものすご変な話やけどな」
淡々とした口調でそう言うと、センパイは「舞妓さん変身フォト&人力車ツアー」のチラシを手に取った。
「これ、年齢制限あらへんのかな。オカン、行きよるかもしれへん」
「センパイ」
私は意を決して話しかけた。
「何?」
「さっきの発言撤回して、へーえ、に直していいですか?」
「直す?」
「あの、尊敬するって言うたん・・・」
センパイは一瞬固まって、それから例の眩しそうな笑顔になった。
「そんな気にせんでええのに。でもまあ、そっちの方がええかもな」
「じゃあ、へーえ、で」
「呑気さが足りんわ、もっかい」
「へーえ」
「うん、そんなとこかな」
私の渾身の「へーえ」に頷くと、センパイは「思てたよりずっと面白い奴やな、ハニーは」と言った。
「そんな面白いことないです」
「ていうか、隠してるねん。サークル来ても、いっつも隅の方におるやろ?ほんで、気ぃついたらもうおれへんし。サトリンとかタグッチに、後から晩飯食いにいく時はつかまえとけ、て言うてんのにな」
なんかこう、頭がクラっとなるような感じ。
ただセンパイの顔見たいだけで行ってるサークルのミーティングで、まさか私の存在が目に留まってたなんて。でも、気がついたらいないのは当然で、みんなで食事なんて、何を話したらいいか判らないから、サトリンたちが世間話で盛り上がってる隙をついて逃げてるのだ。
「今年も学祭で塩おでんの模擬店やるし、動画も作るし、ハニーにも色々やってほしいし」
「はい」と返事したつもりだけど、胸がつかえてろくすっぽ声が出ない。
判ってるのだ、私なんかワンオブ後輩で、一回生の中心人物であるサトリンやタグッチに比べたらほぼ余剰人員だって事。それでもこうやって青木センパイは、同じように扱おうとしてくれる。そしてそこが、センパイの一番好きなとこ。いや、結局のところ、私はセンパイのこと、そういった表面的なところ以外は何も知らずにいる。
ここからどうやって会話を展開させればいいんだろう。質問する?何を?好きなタイプってどんな子ですか?唐突すぎる。彼女いるんですか?もっと唐突。
いっそのこと、相談とかしてみようか。好きな人いるんですけど、どうしたら振り向いてもらえると思いますか?センパイはどう答えるだろう。
私は自分の体内にほぼ存在していない勇気をかき集め、センパイの顔を見た。でも、彼の視線は私じゃない相手に向けられていて、その表情の変化は私の心もとない勇気を一瞬で吹き飛ばしてしまった。
「お待たせしてごめんなさいね」
そう言って、こちらへ歩いてきたのは桃子さんだった。
シャワーの後の、なめらかな肌にまとった、洗いざらしの白いシャツ。開いた襟元からのぞく首筋に、さりげなく輝くダイヤのペンダント。細身のジーンズに足元は白のスニーカーだけれど、高級フレンチでのディナーにも行けるような品の良さがあって、うちの母親ふぜいが日ごろ着回している「洗いざらしのシャツ、ジーンズ、スニーカー」とは次元が違っている。
そして桃子さんは自分に見とれている青木センパイに「アルバイト、終わったの?」と微笑みかけた。
「あっ、はい。ちょうどこいつがおったんで」
センパイは一瞬だけ私を見て、また桃子さんに視線を戻した。その二つの視線には明らかな違いがあって、まあ何というか、私に向けられたのが銅の視線なら、桃子さんに向けられたのは金の視線。
「お二人は大学のお友達なの?」
「はい。おんなじサークルなんです。僕が四回生でハニーは一回生」
「ああ、先輩後輩なのね。でもサークルって、何のサークルなの?」
「すごい地味なんですけど、裏京都研究会って名前で、まあ、観光とかでは取り上げられへんような、京都の裏の顔を発見していこうという集まりです」
「それは面白そうね。京都の裏の顔って、すごくマニアックな感じ。ねえ、丑の刻参りって京都が発祥の地だって知ってる?」
「あの、藁人形に釘打つ奴ですか?なんか安倍晴明がどうとかいう」
「それそれ。私ね、今晩その、丑の刻参りをしようと思ってるんだけど、ご一緒にどうかしら」
なんで?なんでいきなり桃子さんが青木センパイを誘うわけ?裏京都研究会だから?だとしても、初対面で丑の刻参りに誘われて参加するような人、いるの?
「いいんですか?なんか肝試しっぽくて面白そうやし、行きますわ」
センパイのあられもなく弾けた笑顔を見て、私はようやく悟る。桃子さんに誘われたら誰だって、地獄の底でも喜んでついて行くのだ。男なら。
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