土曜の午後
「四年前でしたら、私がここで占いをするようになって、すぐの頃ですね」
店主はおだやかにそう言うと、手にしていた私のカップをソーサーに置いた。
「そう。私のお友達が、ってムギさんね」と、
「京都にすごくよく当たる占い師さんがいるって教えてくれたの。それで、すぐに一泊二日で京都ツアー決行」
「それはまた、光栄です」
「その頃わたし、今の夫と結婚秒読みだったのね。もう新居も決めて、退職に向けて引き継ぎもして、ブライダルエステも通い始めて。でも何だろう。一種のマリッジブルーだと思うけど、このままで大丈夫なのかしらという気持ちが拭えなくて、占ってもらう事にしたの」
「で、私は何と申し上げたんですか?」
「選ぶべき相手じゃない人と結婚しようとしている。でも貴女はそうしないと満足しない人だ」
私がムギさんなら「や~だ~!」と声を張り上げてるところだけれど、そういうキャラでもないので、「それで?」と質問する。
「結婚しちゃった」
そう答えた桃子さんの笑顔は最高に爽やかで、透き通るように美しい。じゃあ結局、うまくいったって事?
「私、いつも反対されると却って燃えちゃうのね。実は他の人からも、あの男だけはやめなさいって、言われたりもして」
「何か、理由があったんですか?」
「まあね。あの人、風俗が趣味なの」
「ふ、うぞく?」
一瞬、漢字変換できなくて何のスポーツだっけ?みたいな事を考えて、それからようやく「風俗」だと理解する。しかし、風俗が趣味って、つまり?
「いい大学出てて、経営コンサルタントで、年収もよくて、三十九歳で、見た目もそう悪くなくて、ケチでもないし、食事のマナーも服のセンスも問題なくて、まあ健康で、両親はお兄さん夫婦と同居してて、いい条件は十分にそろってるんだけど、風俗が趣味なの」
桃子さんが口にすると、風俗、という言葉も何か、厳しい家元制度に守られた、古式ゆかしい芸術のように聞こえるのだけれど、そうじゃない。いわゆる、男の欲望をお金で処理するって業界、だったはず。
しかし、桃子さんみたいに素敵な女性を妻にした男性が、それでも風俗なんて行くもんなんだろうか?私の頭の中は真っ白だった。
「それは、なかなか辛いですね」
店主の言葉で私は我に返った。
ここはもう、大人たちに会話を任せてしまおう。私は目を伏せ、ヤドカリのように自分の殻に引き上げて口をつぐむと、グラスの水を飲むことに集中した。
「そう、なかなか、というか、すごく、というか、辛い事だわ。何より、本人に全く悪気がないの。だってこれは浮気じゃないからね、あくまで趣味、遊びだよ。君がホストクラブに通ったとしても、僕は浮気だとは思わない。それと同じ事だから、なんて説明されちゃって。
夫はね、すこぶる頭が良いの。だから理路整然と言われると、反論できなくなってしまうのよね」
頭が良くても悪くても、駄目なものは駄目じゃないかと思うんだけど、まあ私も桃子さんと同じように、いや、それ以上に、言いくるめられる事には自信がある。
「では、お客様はその、ご主人と今も一緒におられるんですか?」
「そういう事ね。まあ何ていうか、その一点さえ目をつぶっていれば、あとの事はかなり上手に回っていくの。夫の仕事は安定しているし、私も今の仕事において特に不満はない。子供はいないけれど、だから経済的には余裕があって、自分の時間も持てるわけだし」
桃子さんはそう言って、ふう、と一息ついた。束の間の沈黙。
私は殻の中から様子をうかがう。もうそろそろ別の話題に移ってくれないだろうか。頼みの綱の店主は何も言わない。もちろん私が発言する空気じゃない。
「四年」
再び口を開いたのは桃子さんだった。
「四年って長いのかしら短いのかしら。ねえ、ハニーさんどう思う?」
いきなり私?でも無視ってわけにもいかない。
「な、長い、と思います」
「そう?でも結婚生活四年、って短くない?」
結婚生活?確かに、うちの両親なんてほぼ三十年結婚してる。それに比べれば短い、か?
「オリンピックは四年ごとですね」と店主。
「やっぱり短いかな」
「第二次世界大戦は四年間続きました」
「それは・・・長いわね」
桃子さんは汗をかいたグラスを手にとって揺する。小さくなった氷がかすかな音をたてた。
「実際のところ、長いと感じる日もあれば短いと感じる時もあるの。でもね、最近は、というかここ何か月かは、長い、というか、もう充分だという気がして。ね、ハニーさん、あなたが私だったら、どうする?」
「え?わた、え、僕?」
「そう、あなたがもし私の立場だったら」
なんでまた私。背中に火がついたように暑くなる。
「僕が桃子さんだったら」
どうするだろう。とりあえず安定した結婚生活、たぶん、人から見れば理想的。たった一つの事を除けば、あとは問題ない。でもそれって、桃子さんの夫は彼女を愛してることになるんだろうか。いやいや、結婚に愛なんて存在しない、そう言ったの誰だっけ。「結婚、してないと思います」
考えがまとまる前に口が答えていた。そして思う、アホちゃう?
時間を遡ってどうするのだ。桃子さんの問いかけは今、この時なのに。
「なるほど。やっぱりハニーさんて慎重派なのね」
私の的外れな答えに気を悪くした様子もなく、桃子さんは大きく頷いた。
「ていうか、やっぱり占いが怖いから・・・」
「あらそうなの?占いなんて怖くないわよ、ねえ」
同意を求められた店主は「怖く、はないですかね」と言った。
「でも、選ぶべき相手じゃない人と結婚とか言われたら、ビビりませんか?」
「やだあ、ビビったりしないわ。ただ参考にするだけ」
「参考、ですか」
私には何だかよく分からない。わざわざ京都まで占ってもらいに来たっていうのに、その程度?
「ハニーさんの周りって、占い好きな人あんまりいないんじゃない?私やムギさんみたいな占いマニアってね、そんな深刻に信じてるわけじゃないのよ。だからいくらでも見てもらうし、自分に都合のいい答えだけ信じるの」
「占いとのうまい付き合い方ですね」と店主が合いの手を入れる。
「四年の間、考えないようにしていたけれど、やっぱり私はあの人と結婚すべきじゃなかった。でも、あの人と結婚しないと気がすまなかった、っていうのも本当」
「それは、満足したっていう意味ですか?」
わあ、何を質問してるんだろう、私は。
桃子さんはこころもち首を傾げて「そうねえ」と、どこかで鳴ってる音楽に耳を澄ませているような顔つきになった。
「やり遂げた、って意味では満足なのかもね。ほら、ゲームなんて、一つステージをクリアしたところで、現実生活に影響なんてしないでしょう?でも達成感はあったりして。別に結婚をゲームだって言う気はないけど、そこに至る道のりは私の場合少し似ていたかも。で、やったあ、全面クリア!の後は、ああやっぱり結婚すべき相手じゃなかったな、ってことを認識する日々だったの」
なんかすごい事を言ってるんだけど、桃子さんに愚痴っぽさだとか苦悩の色だとか、そういうものは見事に無くて、明るく笑顔なのだった。
私はふと、姉のことを思い出していた。
学生時代から付き合ってた彼氏と結婚するつもりで、仕事やめて東京まで追っかけていって、式場やら新居やら探し回って、カウントダウンに入ったところで、前カノと切れてなかった事が判明して。
すったもんだして、いったん家に帰ってきた時は、やけ食いで一回り大きくなってて、なんか目つきが死んでて、やけに濃いチークのせてると思ったら、肌が荒れて真っ赤になっていたのだった。
私はずっと姉の事を鋼のメンタルだと思っていたので、そんな風に外見が変わって、さらに心ここにあらずというか、受け答えの速度が三割がた落ちて、たいがいの事を「めんどくさ」で終わらせるようになったのには戸惑った。
泣くだとか愚痴るだとか、判りやすいアウトプットだとこちらも対応のしようがあるんだけど、そういうわけでもない。というか、人間は本当に衝撃をうけると、動かすべき感情すらなくなってしまうんだと、私はあの時初めて知った。
三か月、は余裕で超えて、でも半年はかからず、姉はある日とつぜん「帰るわ」と言って家を出た。
実家に帰ってきてるのに「帰るわ」って何?とは思ったけど、そのまま引きこもりも怖いな、と思っていたし、両親も同じようなこと考えてたみたいなので、姉が去った後の我が家には奇妙な安堵の空気が漂っていた。
後でわかったのだけれど、姉が出ていったのは彼氏と元カノが式を挙げた三日後だったらしい。その後都内から横浜に引っ越して、年末に帰ってきた時、幼馴染に電話しているのが聞こえてきたのだ。
「インスタに上がってた写真見たら、ものすごい不細工な嫁やってん」
こういうの、負け犬の遠吠えって言うんじゃないかと思う。
「なんか、こんなアホみたいな演出する人いまだにいるんや、みたいな、ザ・地方なケバケバの披露宴。お色直しのドレスとか、おばあちゃんの社交ダンスかと思たわ。ほんで、来てはるお客さんもなんか野暮ったいていうか、もう会場全体が昭和。なんかセピア色じゃなくて黄ばんでるねん。あんなとこで呑気に笑ってられるようなアホと別れられて、ホンマよかった。間一髪やったわ」
京都の人間は腹黒い、というのは偏見だが、京女であるうちの姉が腹黒いのは事実だ。彼女は自らのダークサイドに力を得て復活した。ファンタジーの世界なら完全にアウトキャラだ。
あの時の姉が放っていた、夜叉だか修羅だかわからないような、粘度をまとった気配。それが桃子さんからは全く出ていない。悩み事ってのは人の心も体も蝕むものかと思ってたけど、美しいままで深く悩める人もいるのだ。
もしかすると、うちの姉と桃子さんじゃ、人格的なステージが全く違うのかもしれない。桃子さんはお釈迦様レベルで、うちの姉は畜生道。なんせダークサイドに落ちた女だから。
「本当に、私の恋愛終わってる、って言葉は当たってる」
桃子さんは背筋を伸ばし、軽くため息をついた。
「私もできればそんな事は言いたくなかったんですけど」と、店主は今更なフォローを入れる。
「どんな結果が出ても占い師を責めないのが、占いマニアの掟よ。それにね、これで本当に決心がついたわ」
「決心、とは、何をなさる決心ですか?」
「丑の刻参り」
「えっ?!」
声をあげたのは店主だけではない。私もほぼ同時に叫んでいた。
「京都ってほら、丑の刻参り発祥の地でしょ?まずここでお参りして、夫への未練というか、そういうものを断ち切れたら、きっと具体的な行動を始められると思うの」
「それじゃ、わざわざ貴船神社まで夜中に行かれるんですか?」
「そうよ。でも一人じゃ怖いから、彼についてきてもらうの」
桃子さんは、私の肩に手をおいた。
「ほ、本気だったんですか?」
いったん「なかったこと」にした丑の刻参り復活で、私はうろたえていた。
「なに言ってるのよ、昨日の夜お願いしたじゃない」
「いや、あれ、何ていうか、冗談かと思ってました」
「たしかに急にお願いしたのは申し訳ないと思ってるわ。本当ならムギさんにつきあってもらってたんだから。でもこれ、冗談どころか、すごく真剣なの。私のこれからの人生がかかってるんだから、お願い。ね、ハニーさんの事、頼りにしてるわ」
駄目。でも断るのも無理。桃子さんにこんな風に見つめられてお願いされて、嫌ですって言える人間は男だろうが女だろうが存在しない。顔を上げると、店主と目が合ったけれど、彼は何とも言えない気の毒そうな顔で私を見ているのだった。
「けっこう大変だと思いますけどね」
せめて思いとどまらせようとしてくれたのか、店主の言葉はしかし、桃子さんには大して響かなかったみたいだ。彼女は「でも、このために京都まで来たんだから」と言いながら、ショルダーバッグから何やら取り出した。
「あはははは」
店主の乾いた笑い声が、しんとした店の中で薄れてゆく。まあ確かに笑うしかないかも、と思いながら、私は桃子さんが手にした藁人形を眺めていた。
「本当に、本気なんですね。五寸釘とかもお持ちなんですか?」
「ええ、でも釘と金槌は重いからホテルに置いてあるの。これだけは大事だからずっと持ってるのよ」
藁人形は手作り、と呼ぶにはしっかりした感じで、もしかするとこういう物を受注生産する人がいるのかもしれない。胴の部分には白い布が巻かれていて、筆で何か字が書いてある。旦那さんの名前だろうか。
さっきまでにこやかに会話していた店主だけれど、藁人形が出てきた途端に、なんだかぎこちないというか、急に笑顔が二割増しぐらいになった。明らかに桃子さんのこと、ヤバいと思ってる。
でも私が気づくぐらいだから、桃子さんにもそれはちゃんと伝わっていて、彼女はコンパクトをしまうようなさりげなさで藁人形をバッグに戻すと、「そろそろ行きましょうか」と微笑んだ。
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