第3話 妖刀と老人
澱んだ水面のほど近く。ラディカが示したその場所を、三人はすぐに見つけることができた。古戦場跡という荒れ切った地で唯一の水場、茶色く濁った小さな池。けれど、周囲に人影はなかった。狭い範囲ではあるが、三人は手分けして探すことにした。
「……誰もいないな。ユーイン、ツキハ、どうだ?」
「こっちにもいねえな。呪いの気配もないようだぜ」
「こちらも同じです。……あの、アルドさん」
「どうした?」
「ラディカさんは探し人について、『ここにいる』ではなく『ここで会える』と仰っていましたよね」
「そうだけど……あっ!」
アルドは何かに気付いて声を上げた。近くで聞いていたユーインも気付いたようだった。
「なるほどな。俺たちで探すんじゃなく、ここで待ってろってことか」
「そういうことだったのか……でも、こんなところまで何しに来るんだろうな、その人は」
「さあ……それは、会ってみないとわかりませんね」
「それもそうか。じゃあ、ここで待ってるとしよう」
周囲の魔物に警戒しつつ、三人は澱んだ池のそばで待つ。すると、その時はすぐに訪れた。それも、三人が想定していなかった形で。
前方、目視では確認できないほど先の方から、魔物の咆哮が三人の耳に届いた。確認するまでもなく、それは断末魔の叫びだった。三人はとっさに武器を構える。
「戦闘か……! いったい誰が」
「魔物同士ではないでしょうね。最期の咆哮が不自然に途切れたことを考えると、喉を刃物で斬ったか、もしくは鈍器で潰したか……」
「いずれにしても、片方は武器を使う魔獣か人間って訳だ。……む、武器……?」
ユーインが眉をひそめた、その時。三人の背後、澱んだ池の畔で嗄れ声がした。
「儂をお探しですかな、お三方?」
アルドたちは一斉に振り返り、武器を構え直した。殺気も気配もなかったうえ、音すら殺して三人の背後を取った手練れ。その正体は、一人の老爺だった。ボロボロの白い着物に身を包み、白い髭は伸び放題、頭は禿げ上がっている。お世辞にも、清潔とは言い難い身なりだった。
だが、武器を構える三人にそれを指摘する余裕はなかった。老爺とは思えぬほどまっすぐ伸びた背筋と、隆起した全身の筋肉。何より、左手に携える異様な雰囲気の小刀。包丁と同程度の刃渡りしかなく、さらには納刀状態だというのに、すさまじい威圧感を放っていた。それは俗に、妖刀と呼ばれる類の逸品であった。
「大したもんを持ってるじゃねえか、爺さん」
額に汗をかきながら、ユーインが口火を切った。ただの軽口ではない、作戦を考えるための時間稼ぎであることは明らかだった。
「俺も多少は修羅場をくぐってきた自負があるが……そいつは別格だ。なあ、爺さん……いや、妖刀さんよ。お前、今まで何人殺したんだ? 何人殺したら、そこまでになるんだ?」
「なるほど、こやつの力がお分かりになると。これは大した御人だ。ただ、一つ勘違いがございますな」
「勘違い?」
「儂はまったくもって正気ですぞ。あなた方と敵対するつもりもございませぬ」
三人は驚いて目を見張った。それは、老人の言葉に対してだけではない。妖刀が放つ鋭い殺気とは対照的な、老人の柔和な雰囲気に対してだった。
「……」
困惑した三人は無言で視線を合わせたが、ユーインが小さく頷くと一斉に武器を収めた。アルドが一歩前に出る。
「悪かったな、爺さん。いきなり物々しい雰囲気にしちゃって」
「いやいや、儂の方こそとんだ御無礼を。人と会うのはずいぶん久しぶりでしてな、ついつい速度を出しすぎてしまった」
「速度を出しすぎたって……普通あんなに速く走れないぞ、何者なんだ爺さんは」
「……驚いたな、ほんとに正気じゃねえか」
「そうみたいですね……あれほどの妖刀を持ちながら正気でいられるなんて、信じられません。お爺さん、その刀を使ってどれくらいになりますか?」
老爺は考え込むように、視線を上方に向けた。
「さて、どのくらい……五十年ほどだったか」
「ご、五十年……!?」
声を上げたのはアルドだったが、ツキハとユーインも大いに驚いていた。
「……アルド、こりゃ本当にとんでもねえヤマだぜ。このレベルの呪いに五十年も抵抗してる爺さんなんざ初めて見たぞ」
「刀の呪いも伝説級ですが、これではこの方のほうが伝説ですね。アルドさんの望みはここでは果たせないかもしれません」
「そ、そうか……まあ、爺さんが元気なのはいいことだよな」
困惑している三人をよそに、老爺はどこか嬉しそうだ。若者と話せるのが嬉しいのだろう。
「そうだ、自己紹介がまだだったな。俺はアルド、冒険者だ。こっちは俺の仲間で、ユーインとツキハだ」
ユーインは軽く片手を挙げ、ツキハは会釈をした。老爺は深々と一礼してそれに応える。身なりは悪いが、身体に染みついた育ちの良さが見えた。
「よかったら、爺さんの名前も教えてくれないか?」
「そうしたいのは山々なのですが、今の儂には名乗れる名がございませぬゆえ」
「隠してるってこと? 誰かに追われてるとか……」
「いえ、アルドさん。もしかしたら……」
口を挟んだツキハの表情は、先ほどとは打って変わって神妙だった。
「お爺さん。あなた、その妖刀に名前を奪われたのですね?」
「……! 名前を……!?」
「ううむ、お嬢さんも鋭いですな。この刀が如何なるものか察しがついておられると見える。ただ、語弊がありますぞ。儂の名は奪われたのではなく、自ら差し出したのです」
「……!」
老爺の表情からも、その譲渡が合意の上であることは明らかだった。それ故、ツキハは言葉を失ったのだ。だって、それは……。
「そうまでして力が欲しかったわけだ。名前を差し出してまで……」
「なあ、ユーイン。名前を取られるってそんなに大変なことなのか? いや、もちろん大事な人からもらった名前を名乗れなくなるのは寂しいけどさ。覚悟の上なら……」
「そういう問題じゃねえんだ、アルド。名前ってのは命の次に大事なもんだ」
「命の次……」
「ああ。呪具に名前を奪われたり与えたりするってことは、自分が自分である権利を捨てるってことだ。そうだろ、爺さん」
「まだ若いのにお詳しいですな。左様、儂が名を差し出したことで、皆の記憶から儂のことだけが抜け落ちてしまいましてな」
「そんな……」
老爺はあっけらかんとした様子だ。それだけに、アルドたちは何も言えなかった。誰も自分を覚えていないという絶望を、受け入れてしまっているという事実が痛々しかった。
「お優しい方々だ、今出会ったばかりの儂をそこまで慮ってくださるとは。そういえば、お三方はこんなところで何を?」
「……多分、爺さんを探してたんだ。用があってさ。でもたった今、別の用事ができた」
アルドは言葉を切って、ツキハとユーインに目配せした。二人は無言で、けれど決意した様子で頷いた。
「爺さん。俺たちに手伝えることはないか? そんな危険なものを持ってるのには理由があるんだろう?」
「……確かに、理由はありますな。しかし、今日ここで初めて出会った皆様を巻き込むほどのことでは……」
「そいつは違うぜ、爺さん。確かにこのアルドって男は厚意だけで提案しているが、俺たちが同意したのには別の理由があるんだ」
「ふむ、それは?」
「爺さんは今その刀の呪いを抑え込んでるが、それもいつまで持つか分からねえ。精神力ってのは生命力と強く繋がってるもんだ。これから身体が衰えてくれば、いつか呪いに負ける日が来るかもしれねえ。ここであんたを放っておくってのは、呪いに殺されるかもしれねえあんたを見捨てること、ひいては呪具を放置するに等しいわけだからな」
「ふむ、否定はできませんな」
老爺は依然としてあっけらかんとしている。その可能性には、すでに思い至っていたということか。
「覚悟の上、のようですね。お爺さん、目的を果たす目途が立っているのですか?」
「ええ。実は今日発つ予定でしてな」
「そうだったのか……じゃあ、あと一日遅れてたら俺たちは会えなかったんだな」
アルドの言葉に、老爺は感慨深げに微笑んだ。
「そう言われると断り辛いですな。しかし、危険な旅になりますぞ。皆様、腕は立つようですが……」
「大丈夫だよ、爺さん。提案した時点で覚悟の上さ」
若者三人の決意の表情には、一点の曇りもない。老爺は頷いた。
「かたじけない。この名無しの落ち武者、皆様のご厚意に甘えましょう」
「落ち武者、ですか。やはり東方の出ですね?」
「左様。儂の話は、道すがらお聞きいただきましょう。目的地は東方、妖魔殿です」
時は五十年前。ガルレア大陸は辰の国ナグシャムにて、一組の年若い夫婦が誕生しようとしていた。女は生まれも育ちもナグシャムの箱入り娘、男は武者修行の旅をしている流浪人だった。妖魔に不覚を取って怪我をしているところを、女に救われたのが馴れ初めだ。女は気が強く、二人は仲睦まじくもケンカの絶えない関係であったが、あの時だけは優しかった。
挙式が翌日に迫った日、女の提案で二人は紅葉街道を訪れた。二人が初めて出会った場所だ。
「今日は妖魔に遭わないといいわね」
「そうだな。けど、もう大丈夫さ。あれから俺も強くなった」
今にして思えば、この会話こそがケチの付きはじめだったのだろう。……いや、本当は気のせいであることは分かっている。けれど、理由の一つでも用意しなければ、あの日の不運を受け入れられなかった。
この会話の後すぐ、二人は妖魔に襲われた。巨大な蜘蛛の形をした妖魔、夜叉蜘蛛。奇しくも二人が初めて出会った日、男を襲ったのと同じタイプの妖魔だった。だが、それだけに男は奮い立った。先の言葉を、身をもって証明する絶好の機会だった。
「お前は下がっていろ。すぐに片をつける」
男は身の丈ほどもある長い刀を抜き放ち、夜叉蜘蛛と対峙する。見守る女の顔に、不安や恐怖の色はない。
勝負は一瞬だった。男がゆっくりと刀を振りかぶった、次の瞬間。夜叉蜘蛛の体はバラバラになった。
「……」
男は刀を鋭く振って、納刀した。取り回しが難しい得物だが、男の動作は洗練されていて澱みなかった。
「さすが、強くなったわね」
「ああ、まあな……」
女の言葉に男が振り返る。その瞬間、男の表情が強張った。
「いけない、離れろ!」
「え……?」
女の反応は間に合わない。男の抜刀も一手遅い。いつの間にか現れていた妖魔に、女は捕らえられてしまった。二足歩行に腕二本、けれど人型と呼ぶには禍々しい見た目の妖魔だ。全身が灰色の太い毛で覆われている。特に頭部は毛深く、顔を確認することができない。
「な、いや……っ!」
「動くなよ、男。……いや、動いても構わんか。貴様程度の腕では、俺には傷一つ付けられまい」
「お前……!」
刀を構えながらも、男は焦りから冷や汗をかいていた。相対しただけで分かる、さっきの蜘蛛とは比べ物にならない相手だ。全力でやって、刺し違えられるかどうか……。
「……」
男は焦燥感に苛まれながらも、何とか思考を巡らせる。夜叉蜘蛛もこの妖魔も、本来この辺りで活動してはいないはずだ。それがどうして……。
「まさか、彼女を狙ってわざわざ……!?」
「ふむ、間違ってはいないが……誤解があるな、俺は人間の女なぞに興味はない。あるのは、お前への復讐だけさ」
「なに、復讐……?」
妖魔はくつくつと笑った。男の鈍感さを嗤っているようにも、自分の行いを嘲笑しているようにも見える。
「道中、数えきれないほど妖魔を殺したろう? その中に、俺の友がいたというだけの話さ」
「……! だが、それならば俺を狙えば……」
言いかけて、男は言葉を失った。気付いたのだ、男を最初に襲った夜叉蜘蛛と今の夜叉蜘蛛が、同じ個体である可能性に。
「……まさか、お前は」
「そうとも。下級の妖魔をよこしてお前を死なない程度に、されどすぐには旅ができぬように痛めつけたのだ。お前がナグシャムに逗留し、他者と繋がりを築かせるためにな」
「それを壊すのが復讐だというのか、貴様……!」
男の身体は怒りに打ち震えた。明日妻になる女だけではない、ナグシャムの人々を何人も傷つけようというのか。それだけは、許してはならない。倒せる可能性など、考慮している場合ではない。
「おおおおおおっ――――!」
怒声とともに、男は激しく地を蹴って間合いを詰める。両者の距離は一気に縮まった。妖魔が哄笑を上げる。
「面白い、俺を倒そうというのか!」
「そうだ! お前はここで、俺が……っ!」
男の逆袈裟斬りと、妖魔の正拳突きが衝突する。妖魔は女を小脇に抱えたままだが、それでも両者の力は拮抗していた。
「くっ、ああっ――!」
「正面からぶつかるとはな、人間……っ!」
妖魔が言うと同時、二人の身体は衝撃に耐えきれず後方に吹き飛んだ。妖魔は女を抱えたままで器用に着地したが、男は受け身も取れずに大木に背中から激突した。
「が、はっ……!」
呼吸が一瞬止まり、血液交じりの唾液が飛び散る。たちどころに気を失ってもおかしくない痛みと損傷だが、男は気力だけで持ちこたえた。気絶などするわけにはいかない。あの妖魔を素通りさせるわけにはいかない。
「はあ、はあっ……」
だが、立ち上がることができない。すぐそばに落ちている刀を拾い上げることすらできない。妖魔がこちらに向かって歩いてきている、立たねば、戦わねば。けれど、思いばかりが空回りして体は動いてくれなかった。
結局、妖魔が目の前に来ても、男は指一本動かせないままだった。
「無様だな。すぐにでも殺せてしまいそうじゃないか」
「くっ……!」
「……気が変わったぞ、人間。ナグシャムの連中には手を出さん。この女を連れて行くだけで許してやろう」
「連れて行くだけ、だと……お前……っ!」
「安心しろ、殺しはせんよ。もし妖魔殿の俺のところまで来れば、直々に相手してやってもいいが……その前に、お前は自分の口で町の人間に告白するのだ。自分の力不足で、花嫁を妖魔に奪われてしまいました、とな! くはははは……!」
妖魔が嗤い、男に背を向けた。男が何も言い返せずにいると、抱えられていた女が口を開いた。
「……忘れて」
「え……?」
「私のことは、忘れて……あなたは、あなたの、道を……」
言い終わるより先に妖魔が姿を消したので、男は聞き返すことも、女の言葉を最後まで聞き届けることもできなかった。
ガルレア大陸、クンロン山脈にて。厚く積もった雪に足を沈めながら、一行は進んでいた。老爺の話を、静かに聞きながら。
「そういうことがありましてな。儂は武者修行を続けることにし、その途中で出会ったこの刀に名を差し出して契約し、修行の日々を重ね今に至るわけですぞ」
「そうだったんだな……じゃあ爺さんは、奥さんを取り返すためにずっと……」
「いいや、それは違いますぞ」
「えっ?」
アルドが声を上げる。ツキハも理解ができないようだった。
「では、何のために名前を売り渡してまで強くなろうと……?」
「……五十年経った今でも、鮮明に思い出せるのですよ。去り際の彼女の顔が。いつも気が強いくせに、最後の最後であんな弱弱しい顔をされては、こちらも寝覚めが悪いというもの。だから一言、文句を言ってやりたいのですよ」
アルドたちは顔を見合わせた。彼なりの強がり、もしくは照れ隠しであることは明らかだった。ただ……いや、それだけに。
「なあ、爺さん」
アルドは口を開いた。野暮と分かっていても、開かずにはいられなかった。呪具に名前を差し出した時点で誰もが彼を忘れてしまったのなら……。
老爺はアルドの意図を察したのであろう、優しく微笑んで頷いた。
「それでもよいのですよ。これは儂の自己満足なのですから」
「そうか……分かったよ。俺たちもできる限り力を貸すからさ、やりたいようにやってくれ」
「ありがとうございます、頼りにしていますぞ」
「……見えてきたぜ、妖魔殿だ」
ユーインの言葉に、一同は足を止めた。降りしきる雪の向こうに見える瓦屋根と怪しい紅色の灯は、妖魔殿に相違ない。
「いよいよだな……みんな、準備はいいか?」
アルドの言葉に、三人が頷く。それを見届けて、アルドは妖魔殿に向けて歩き出した。ツキハ、老爺がそれに続くが……。
「爺さん」
ユーインの小声の呼びかけを、老爺は聞き逃さなかった。振り返らず、しかし足を止めて次の言葉を待つ。
「その刀、使うつもりなんだよな?」
「ええ、そのために今日まで鍛えてきましたから」
「……止めはしねえ、あんたの決断だ。ただ、専門家の端くれとして忠告はしとく」
「お聞きしましょう」
ユーインは一呼吸おいて、告げた。
「その刀、抜いていいのは二回までだ。それ以上は、あんたの精神か肉体、最低でもどっちかは耐えられねえ」
「……肝に銘じておきましょう」
やはり振り返らぬまま、老爺は頷いた。二回までに留めておくよう決意したのか、三回目は命を懸けると覚悟したのか。彼の心がどちらに傾いているのか、ユーインには判断できなかった。
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